岡田 荘司編『古代諸国神社神階制の研究』
評者:小倉 慈司
掲載誌:神道宗教188(2003.10)


 本書は、國學院大学神道文化学部教授岡田荘司氏が同大學大学院の古代・中世神道史専攻の学生一四名と共に行なった古代の神階に関する共同研究の成果である。諸神に位階を奉授する神階制度は古代神社史の中でも近年研究が活発に進められている分野の一つであるが、その基礎となる諸国個別の史料集成という点においては、網羅的なものとしては鈴鹿連胤の『神社覈録』(一八七〇年成稿、一九〇二年刊)まで遡らざるを得なかった。同書はその当時としては優れた内容であったにせよ、現在の史料学的水準から見れば必ずしも充分なものとは言い難い。このような状況の中で本書が刊行されたことの意義は極めて大きいと言えよう。以下、その内容を紹介するとともに若干のコメントを付してみることにしたい。

 本書の構成は以下の通りである。(中略)

 初めに総論として四本の論考が掲載される。このうち冒頭の(一)岡田論文は本書全体の概論とも言うべき内容で、古代の神階とその意義について、研究史を踏まえながら大局的にわかりやすく解説がなされる。なかでも従来の古代の神階研究が主に地方神社に対する奉授を中心に検討がなされていたのに対し、岡田論文は中央の祭祀制度との関連性を指摘して、九世紀における神社政策の展開過程をより明瞭に位置づけた点が特筆される。 
        
 (二)から(四)の三本は、それぞれ八世紀・九世紀前半・九世紀後半を主な対象として、それぞれの時期における神階の意義について、先行研究の問題点を指摘しつつ新たな説を提示したものである。

(二)の小林論文は、奈良時代の神階奉授に関する先行研究の問題点として@官社内の序列化を目的としていたとする点、A人格神観念との関連を見る点、を取り上げて批判し、神階奉授は神の霊験を期待したり霊験に対する報謝として行なわれた献物の一種であり、そこに当時の朝廷が持っていた神々に対する奉斎の理念が見出せると結論づける。またあわせて当該期の神階奉授が北陸道に多く見られることにも注目し、航海安全・対外防備祈願の意味が込められていることを推測する。これら@Aの批判それ自体は的確なものであり、評者も現在では神階奉授を人格神観念の問題に直接結びつけることには問題があったと考えを改めている。ただ氏のように神階奉授は献物の一種に過ぎないとまで言い切れるかどうかは検討の余地があろう。神に位階を与えるという発想が生まれたことは、やはり神観念の変化と無関係ではないと評者は考える。また天皇が神々を奉斎するという行為それ自体がイデオロギー的な観念と結びついたものであり、単に敬神だけで捉えることはできないのではないだろうか。氏が指摘された神階奉授と航海神との関係も、そうした観点から見れば、さらに興味深い結論が導き出せるのではないかと思われる。

 (三)の菊田論文は、平安時代初期、なかでも神階同時奉授が行なわれる以前である九世紀前半の時期を主に取り上げ、@列宮社・預名神と比較すると、臨時に起きた出来事・事柄に関連し、かつ今後の霊験を求めるために神階奉授がなされる事例が多い。A奉授対象の選定につき、朝廷主体と国司主体との二種があるが、後者は承和年間以降に見出せる。これは神社行政における国司の比重が高まったことを示す。B承和年間より一国で同時に多数の神階奉授がなされる事例が全国的に確認されるようになる。C同じく承和年間より神階を初めて奉授される神々が増加し、なおかつ全国的に展開するようになる。以上四点を指摘して、承和年間が神階奉授の一つの転機であり、神階奉授が一般化する契機として位置づけられるとする。承和年間に注目する点は、(一)岡田論文とも関わり、興味深い視点である。この問題は単に神社行政の問題にとどまらず、当該期の国政基調全般の問題としても考えていくべき問題であろう(例えば西別府元日『律令国家の展開と地域支配』参照)。なお、@の点についてはさらに詳細な検討が必要ではないだろうか。Aとも関わることであるが、神階奉授が朝廷主体か国司主体によってなされたかによって変わってくると思われるし、そもそも筆者が何をもって「今後の霊験を期待して神階奉授がなされていた傾向が強い」と認定したのか、その根拠が必ずしも明確でない。(二)小林論文を踏まえるにせよ、むしろ九世紀に入って神楷奉授の理由が変化していったという可能性も検討すべきであろう。

 (四)の加瀬論文は、九世妃後半を主な対象とし、先行研究が地方神社行政の観点から貞観年間を地方神社制度の変化点と位置づけたのに対して、当該期は中央と地方では神階奉授に関わる意識や政策に相違があったとし、中央の神階に対する意識や政策について分析を行なったものである。結論として、@国司による神階奉授申請に対しては中央は積極的でなかった。A大社・名神については嘉祥および貞観の同時奉授においてその対象となっているが、特にそれらを優位において神祇の序列化を行なおうとしたとは考えにくく、単に大社・名神を中央が意識しているということを示すためのものに過ぎない。B嘉祥以降に増加する三位以上の神階奉授は、斉衡三年に祭祀者の把笏が認められるようになって朝廷の威厳が表示される機会が増加することになった。この奉授主体は中央にあったが、その選定基準は一律ではなく、当時においては官社制度等の特定の制度を特別に意識していたわけではない、とし、さらにC中央は官社制に対し消極的な態度をとっており、それが神階奉授にも影響を与えているが、ただ三位以上社に対して祭祀者の把笏を許可したことは新たな神事形態を構築するに等しい効果を与えることとなった。したがって斉衡年間が中央における「神階社制」のスタートとなった可能性が考えられる、と述べる。関係史料を詳細に検討した労作であるが、全般的に中央(朝廷)の神階奉授に対する対応を低く見る点には違和感を覚える。例えば九世紀は神祇のみならず地方行政全般において国司に委任する傾向が強まった時期であるが、だからといって中央が地方行政に消極的であったとまでは言えないであろう。また氏の結論は(一)岡田論文とも齟齬が生じるように思われる。なお史料上の解釈について述べると、元慶五(八八一)年三月二六日官符の中の引用関係については評者も同様に理解しているが、嘉祥の神階同時奉授以後は神社は原則として六位以上を持っているというのが朝廷および諸国国司の共通認識であり、それを承けて伊予国は六位以上社の祝部氏人帳を作成したと考えるべきではないだろうか。したがって同官符引用の貞観一〇(八六八)年官符において実質上六位以上社に祝部氏人帳の作成が義務づけられたと考えることには問題がないと思う。また注21で、寛平五(八九三)年官符に記される五五八社に関し、「神祇官斎行に預かる神祇が、九世紀後半にはより広範囲であった」と述べられているが、延喜四時祭式上第四条によって計算すれば、大社一九八社+畿内小社三七五社=五七三社となり、むしろ若干少なかった(これ以降に官幣に預かった神社が存在した)と考えるべきであろう。

 以上、評者が見解を異にする点について述べたが、いずれにせよ、これら四本の論考が今後の古代神階研究の指針となるものであることは間違いないであろう。

 次に、分量的に本書の八割以上を占める「諸国神社神階の概要」の紹介に移りたい。これは国ごとに、@仁和三(八八七)年までの神階昇叙の過程をグラフ化したもの、Aその典拠となる六国史・『類聚国史』(+寛平九〔八九六〕年までの『日本紀略』)の記事の集成表(列宮社・預名神等の記事も合わせて掲載)、B全体的な状況および主だった神社に関する個別解説、からなり、さらに郡名を記した国界図や奉授件数等の基礎的データも掲載する。まことに労苦が偲ばれる力作であり、単に神階昇叙のグラフと表にとどまらず(それだけでも大変な作業量であったと推察するが)、地図を加えたり、列官社・預名神の記事をも加えたことは、本書の価値をさらに高めている。そうした配慮によって、本来の目的であった神階奉授過程の国別一覧化だけでなく、様々な研究の基礎データとして活用することが可能となるからである。

 また特筆しておきたいことは、集成表においては底本としている新訂増補国史大系本の校訂異同についても注記がなされ、さらにその異同が神名である場合には、どちらからでも末尾に付された索引で引くことができるという配慮がなされているという点である。例えば『文徳実録』嘉祥三(八五〇)年一二月癸酉条で従五位下を授かった河内国の堤(神)は、堤根(神)とする写本も存在するが、堤・堤根のどちらでも索引によって検索することが可能になっている。このことが如何に大きな意味を持っているかは、古代神社史研究に携わったことのある人であればすぐに理解できるであろう。欲を言えば、備考欄注記がもう少し丁寧であると良かった。

 Bの解説部分においては一般的に言って意欲的に一歩踏み込んだ叙述がなされており、それだけに今後の検証が必要ではないかと思われる箇所もないではない(後述)が、それは当然利用者が心すべきことであって、むしろ今後の議論の叩き台が提出されたことを評価すべきであろう。
 
 そもそもこれらのグラフ・表に詰められたデータ量は厖大なものであり、この拙評執筆にあたってすべてに目を通すことはとてもできなかったが、たまたま気のついた幾つかの点について記すことにしたい。             

 まず宮中神祇の図について、基本的に『平安京提要』に拠られたことは妥当と思われるが、ただ神祇官の所在地については東野治之氏によって平安初期には別の位置であった可能性が指摘されており(『古文書研究』二〇論文)、近年の平城宮跡発掘成果からも奈良時代に宮内で神祇宮所在地の移動があったと見られている(『奈良研年報』一九九三)。このことは八〜九世紀の神祇政策の展開とも関連しているのではないかと思われるので、言及があると良かった。

 次にグラフ凡例についてであるが、六国史に登場する神名と式内社との対応関係については現時点で明らかになっていない事例も多く、本書においてはおおよそ通説に従っていると見受けられるが、異説も併記していただければより便利であったように思う(例えば山城国29興我万代継神は式内乙訓郡久我神社に比定する説もある)。また伊勢国3葭原神の比定については慎重な態度をとっているが、『新撰字鏡』に「葭」の字に「乎支」の訓を記し、かつ『皇太神宮儀式帳』に「葭原神社」と見えるのが延喜神名式で「荻原神社」に対応する可能性が高いので、まず荻原神社に相当すると考えて良いであろう。所在郡については厳密に論じることは困難であろうが、例えば出雲国8能義神は延喜神名式では意宇郡所在とされているものの、郡の分置により延喜年間には能義郡所在であったことが明らかであり、少なくとも注記が必要であったと思う。

 集成表について、下総国3茂侶神の貞観一三(八七一)年一一月一一日条に関しては、位階を「従五位下→従五位下」とし、備考欄に「→従五位上(→従五位下は新訂増補国史大系による)」としているが、これは国史大系本の誤植で、同本の底本たる谷森本は「従五位上」とする。国史大系本は極めて水準の高いテキストではあるものの、それでも若干の校訂漏れや誤植が見られる。このような誤植が疑われる事例に関しては底本にあたり、その旨を記しておいていただけると便利であった(ちなみに伊豆国8多都美賀々神、仁和二〔八八六〕年一一月二五日条も国史大系本の誤り)。また国史大系本の校異注がなくて諸写本に文字の異同がない場合でも、誤りの可能性が想定される場合には、その旨指摘しても良かったのではないか(例えば『三代実録』貞観元〔八五九〕年正月二七日条大和国の坐日向神について、朝日新聞社本は坐の上に神を意補している)。

 解説部分に関して、必ずしも通説に基づかない記述の存することは先に触れたが、例えば能登国2高倉彦神を高倉朝臣氏の氏神と見做す点については根拠薄弱であるように思われる。高倉朝臣は高麗福信およびその縁者に対して賜った氏姓であるが、その福信について『続日本紀』秦伝は武蔵国高麗郡の人と記しており、能登国が大陸と関係の深い地であったとしても、わざわざそこに氏神を祀るとは考え難い。また紀伊国1において『類聚国史』天長元(八二四)年八月丁酉条の「紀氏神□幣帛例」という記事を志摩神・伊達神・静火神に関わるものと見ていることも、申請者が紀朝臣氏であることを考えれば従い難く、大和国平群郡の平群坐紀氏神社である可能性の方が高いと思われる。

 なお、典拠とする史料については原則として六国史およびそれに準ずる史料に限ったようであり、そのこと自体は穏当と思われるが、ただ確実性の高い史料については解説で言及しても良かったのではないかとも思われる(例えば越後国2居多神に関しては、宮地直一『神社協会雑誌』二〇−九・一〇・一二論文で紹介されるト部兼員居多神神位勘文があり、その内容の一部は朝日新聞社本六国史において日本後紀逸文として採用されている)。

 以上、不充分ながら本書の内容を紹介し、あわせて気のついた点を述べさせていただいた。もとより限られた紙幅に詰め込める情報量は限られており、また限られた時間の中で行なえる作業量も限界のあることではあるから、評者が述べたことは部外者の贅言に過ぎないと言えよう。加えて評者の単純な誤解・誤読もあるのではないかと恐れている。最後になったが、古代史・神社史研究における貴重な成果を形あるものとされた執筆者の方々の努力、そしてそれを教え導かれた岡田荘司氏の熱意、さらに入手しやすい価格での刊行に踏み切られた出版社の英断に対し敬意を表したい。


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