梅屋 潔・浦野 茂・中西 祐二著『憑依と呪いのエスノグラフイー』
評者:小松 和彦
掲載誌:民族学研究68-2(2003.9)


 奇妙な本である。このことは著者たちも自覚している。著者の一人である梅屋自身が、本書の「序」において、困惑気味にその点を述べているからである。

 本書の成立経緯を説明しよう。1985年の春、慶應大学大学院生だった中西が、新潟の友人から、佐渡にムジナという奇妙な動物がいる、という話を聞いて興味を抱いた。そこで、当時同大文学部客員教授であった吉田禎吾に相談し、学生を中心とした吉田研究会のメンバーと共同調査に入ることになった。共同調査以後も、中西や興味のある大学院生たちで継続調査がなされ、その一人が梅屋であった。中西が佐渡を熱心に調査した時期は1991年までであり、梅屋のそれは1992年から93年にかけてであった。浦野も1996年にやはりムジナをめぐる土地の人々の「語り」に興味をもって調査に入った。中西と梅屋は文化(社会)人類学の立場からの、浦野の場合は社会学とくにエスノメソドロジー理論検証のための調査であった。そして、各人思い思いに佐渡で得た資料によりながら、主として90年代の前半に、学会誌や大学の紀要などに論考を発表することになった。

 その後、彼らの関心は佐渡から海外や都市社会などに移ってゆく。ところが、十年あまり経って出版の話がもちあがり、「それ自体さまざまな問題を抱えているわれわれの仕事や生〈works and lives〉を真摯に考えたときに、自分たちの姿について誠実であろうとすれば、ある場面での一貫性が犠牲になるのはやむえない」(p.4)と判断して、ほぼ発表時のままの論考に、簡単な解説を付して刊行することにした。それが本書である。

 本書は、理論的枠組みや論文の配列の順番、文体などの不統一もさることながら、三人の論文を寄せ合わせて一書を編纂するという明確な理由も明らかにされていない。また一書を編むことで明らかになった著者共通の結論も欠いている。すなわち、本書を構成する論文は一つの全体を構成するものとして機能していない。三者三様の論文が、一書としてのまとまりをもった脈絡・道筋を明示することなく提示されているにすぎないのだ。したがって、全体をまとめて論評することはできない。

 そのことをはっきり確認したうえで、全体を貫く基調のようなものを強いて挙げれば、それはムジナという奇妙な動物についての関心と調査体験を共有した結果書かれた、まだ一つの全体を構成するには至らない段階の論文集である、ということになるだろう。すなわち、本書の特徴は、従来「憑きもの」として処理されがちであった「奇妙な動物」であるムジナ(トンチボ)をめぐる佐渡の調査から出発しつつ、その枠を超えて、三者三様に新しい研究領野を切り開いてみようと試みたところにある。その意味からすれば、本書のタイトルはやや奇をてらったものであって、むしろ「ムジナという奇妙な動物をめぐるエスノグラフイー」とでもした方がより内容にふさわしかったように思われる。

 このような本を論評するのはむずかしい。本書を構成する論文のうち、もっとも多くの紙面を占めているのは、中西の論文である。佐渡のムジナに興味をもち、共同調査を提案してそれを主導し、誰よりも多くの時間をその調査に費やしたのだから、これは至極当然のことである。中西は、第1章「佐渡島の憑きもの現象」(初出、1993)、第5章「憑依、あるいは憑依の語りにおける口唇性と肛門性」(初出、1994)、第6章「民俗的災因体系における隣接性の問題について」(初出、2000年)の三本の論文を寄せている。梅屋も、第2章「邪なイノリ」、第3章「『有り難き』ひとびと」、第4章「『象徴』概念は『合理』的に埋葬されうるか」の三本の論文を寄せている。浦野は最終章である第7章「『口承の伝統』の分析可能性」の一本のみである。とくに、中西に限っては、本書刊行に当たって、初出論文を大幅に改稿して第5章と第6章としている。そのことからも、彼が本書刊行の推進者であったことがうかがえる。

 さて、このように収録論文数も分量もまた刊行に当たっての熱意も異なっている本書に関しては、もし評者に十分な紙面が用意されているならば、著者別にその論考すべてについて論評をするのが、もっとも適切であると思われる。しかしながら、ここでは紙面に限りがあるので、主として第1章(中西)、第4章(梅屋)、第7章(浦野)を取り上げて簡単な論評を行ってみたい。評者の論評の立場を述べておこう。まとまりを欠いた三者三様の論文集であるが、何度か本書を読んでいるうちに、評者の深読みかもしれないが、次のような思いを抱いた。著者たちが各人の論考の意義を充分に議論して問題意識を深めたならば、研究の関心や分析のレベルは異なりつつも相互の役割を自覚した全体像を描きうる著書になったのではないか、と。以下は、評者がイメージしてみたそのような全体像にそっての論評である。

 まず、中西の「佐渡島の憑きもの現象」について述べる。佐渡はいわゆる「憑きもの筋」が存在しないために従来の民俗学的研究では、憑きもの少数地帯とされてきた。しかし、憑きもの現象という点からすれば多発地帯ともいえる地域で、また、そうした多発を可能にしているのがアリガタヤと呼ばれる呪術・宗教者(祈祷師)であった。この論文では、佐渡のA地区での憑依現象の採集事例141件を報告しその整理を行いながら、次のような考察がなされる。ムジナについて言えば、その属性が人間的(統制的)であるとともに、動物的(統制されない)という両義的な性格であり、そのような性格は「妬み」に由来し、またそれは人間の性格とも通底する。つまり「ムジナは人間の鏡像とも言えるのである」(p.82)。また、構造論的手法を参照して、この地域の憑きもの現象の総体を分析し、ムジナは「山・境界」での憑依、生霊・呪詛は「里」での憑依、死霊は「海」での憑依といった傾向があり、さらに、人々の憑きものをめぐる語りはほほ同じ筋(定型化した語り)となっている、という特徴を指摘する。そして、結論として、この地域の憑きもの現象とは「私的出来事を、現地の世界観と物語の枠組みに従って、『憑かれた』現象に再構成する作業であると言えよう。言い換えれば、災厄という現象を、世界観と社会状況に従い予め用意された選択的な準拠体系に当てはめることで、その体験を有意味なものに変換する作業なのである」(p.84)とする。

 この論文は豊富な事例紹介に評価すべき点がある。しかし、そうした圧倒的な数の事例を前にして、その分析の部分は先行研究の枠組みをパッチワーク風に寄せ集めて当て嵌めた感が強く、結論もあまりに簡単にして唐突という印象を免れることはできない。独創的な視点を見出そう、そのために目新しい分析・解釈方法を導入しようという意気込みは高く評価したい。しかし、考察結果の評価とは当然のことながら別のものである。それは、自ら採集した事例を詳細かつ論理的に分析して結論に至ったことが具体的に提示されているかどうかにかかっている。ところが、本論文では、その肝心なところが稀薄なのだ。クロード・レヴイ=ストロースや渡辺公三、あるいは浜本満の研究の存在を指摘するだけでは、読者に対して、こからの先行研究を読者が読み、各自で佐渡の諸事例を分析しなさい、と言っているかに見える。

 この中西論文の欠落を補っているかに思えたのが、梅屋の論考であり、浦野の論文であった。とりわけ興味深かったのは、浦野の論文である。禎はエスノメソドロジーの会話分析の手法を用いて梅屋が録音したトンチボ(ムジナ)をめぐる話の採集現場の会話分析を試みている。すなわち、「情報収集者(人類学者)U−(2人の)情報提供者A、B」の会話分析から、そこで語られている「物語」は、AがBの聞き手となって、「Uが提示した枠内で、AとBが物語をともに作りあげ、それを提示する」(p.206)ということを析出する。彼によれば、物語を語ることは、それをとおして、自己の立場を正当化しあるいは他者の権能や信用を引き下げるなどの、様々な道徳的含意をともなった具体的なおこないを相互行為の場面に対してなすことであるという。もっとも、「物語は、それが語られたり提示されたりする相互行為のうちにあって、その相互行為を一定の方向に新たに編成してゆく 『指し手』としてある」(p.200)といった浦野の見解は、エスノメソドロジーに少しでも触れたことがある者ならば、それほど目新しいものではないだろう。しかし、浦野がこうした考察から、通常は「文化」や「習慣」として言及されるものを「口承の伝統」として括り出し、物語るという相互行為にそれは必ずしも先立って存在するものではなく、むしろその場面においてなされた実践を適切なものとして示し、また当の場面を編成するために用いられるひとつの「資源」(p.215)にほかならない、という指摘は傾聴に値する。             

 ここで浮き上がってきた相互行為を編成するための「資源」としての「口承の伝統」は、おおざっぱな類推をするならば、ピエール・ブルデューのいう「実践と表象の算出・組織の原理として機能する心的諸傾向のシステム」としての「ハビトゥス」を想起させる。さらには、私自身に引きつけて言えば、それは「災厄の説明装置」とか「異人の解釈装置」とか「異人産出装置」といった言葉を用いて、憑きものや異人殺し説話を考察してきた際の「装置」概念ともかなり重なっている。ようするに、伝統(習慣)は、個々の行為や言説を生成する「資源」となりうるから伝統として存続しえているのである。もし中西の論文が上述の結論を唐突に提出するのではなく、先行研究を利用しながら自身の採集した事例のいくつかを詳細にして論理的に分析しつつ、そうした「心的システム」を探り当てていたならば、たとえば、統計処理的に述べた、憑きものの人々の語りはほぼ同じ筋(定型化した語り)となっていることの意味を、説得的に示し得たはずであり、また、日常ではない私的な体験を、この地域の人々が共有しうる経験に組織化してゆくプロセスも、論理的に提示しえたであろう。               
 梅屋の論文「『象徴』概念は『合理』的に埋葬されうるか」は、中西論文が考察をしなかった部分と浦野が析出したきわめて抽象的な口承の伝統(物語を作りあげていくための資源)に関する考察の、いわば中間に位置するかのような論文である。浦野が「口承の伝統」というふうに一般化して言った概念(資源)が、梅屋の論文では、トンチボ(ムジナ)という具体的概念として提示されている。     

 梅屋はトンチボをめぐるたくさんの物語を、まずエスノメソドロジー風の会話テキストとして提示する。次にそれを整理した「中間的話体」(p.143)、すなわち「モード1−1:ケモノとしてのトンチボ1」(われわれから見ても経験的裏付けを持っているトンチボ)、「モード1−2:ケモノとしてのトンチボ2−−憑きもの動物として」、「モード2:ヒトのようなトンチボ、トンチボのようなヒト」、「モード3:神としてのトンチボ」に整理し、その「象徴」のメカニズムを分析する。

 梅屋論文の立脚点は、ダン・スペルベルの象徴理解への異議申し立てにある。スペルベルは、象徴のメカニズムを経験を可能にする生得的な心的装置として理解する。この考えには梅屋も同意する。しかし、さらにスペルベルが、象徴なるものを間違った(合理性を欠いた)心理的所産として、つまり、合理的なかたちでの経験の組織化の失敗として理解する考え方には同意できないとする。すなわち、象徴のメカニズムを「間違い」とか「非合理性」といった観点から評価するのではなく、「かれら」の信念と「われわれ」の信念のズレ、もしくはその信念に支えられた物語同士のズレ、つまり、「象徴的なもの」とは「われわれが信じないもの」つまり「信念」の問題として把握すべきだという。           

 そして、このことの延長上に、次のような事態を想定することになる。この地域から「われわれが信じないもの」(われわれの信念では容認できない現象)が減少していけば、言い換えれば「われわれが信じることがでさるもの」(解釈できる現象)が増加してゆけば、この地域から「象徴的なものとしての動物」は減少していくことになる。佐渡の「トンチボ」は「象徴的な奇妙な動物」から、動物学的な動物としての「タヌキ」に変貌してしまうわけである。すなわち、彼によれば、トンチボとは佐渡の人が日常的でない経験をもったときに、それを経験主義レベルでの判断を停止して、神話的認識論へ移行することで下した判断であり、トランプゲームでいうオールマイティカードに相当するのだという。それは、なんでも意味することができるけれども、なんにも意味しないこともある「ゼロ記号」(レヴィ=ストロース)に類似した概念であり、日常的でない出来事=経験を語りうるものにするための出発点であるとともに、「間に合わせもの」(p.156)なのである。ようするに、人が日常的でない経験をもったとき、それを語りうる経験として提示するためにとりあえず利用されるのがトンチボという概念なのである。

 この考えを私なりに敷衍させて述べれば、ムジナという概念もしくは語彙から、神話認識論的なオールマイティ性が奪われたならば、ムジナは象徴的なるものではなくなり、日常的でない現象は、それに代わる概念を見出さないかぎり、語りうるものにはなりえないのである。これは浦野の表現を借りれば、「口承の伝統」(資源)の喪失ということになるのだろう。

 このようにみてくると、三者三様に見えた論文も、互いに理論的関心や分析レベルには違いがあるが、じつは相互に関連し合っている論考であることが明らかになってくる。惜しいことに、著者たち自身がそうしたところまで問題認識を深めることがないまま、性急に論集を編んでしまったのであった。

 著者たちが認めるように、評者が『憑霊信仰論』や『異人論』に収めた論考で、日本における「憑く」という文化現象をめぐる考察を行って以来、文化人類学ではその後めぼしい成果が挙がっていなかった。本書は、それを突破しようとする意気込みにあふれた論集である。評者は、あまりに未熟なまま提示されてしまっているために、残念ながら、本書自体ににわかには高い評価を与えることはできない。しかし、上述のような見通しを抱いた評者としては、これを著者たちの「中間報告」として理解し、今後の展開を大いに期待したいと思う。なお、中西論文では評者の研究に対する評価や批判が随所で述べられているが、この点に関する評者の論評は中西が単著を著したときに行うことにする。
(国際日本文化研究センター)


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