荒川 善夫著『戦国期東国の権力構造』
評者:新井 敦史
掲載誌:「歴史と文化」12(2003.8 栃木県歴史文化研究会)



   一

 本書は、著者が前著『戦国期北関東の地域権力』(岩田書院、一九九七年)を踏まえ、同様の問題関心の中で著したものであり、中央大学に提出した学位請求論文「戦国期東国における地域権力の構造−下野国那須・宇都宮氏を中心に−」が骨子となっている。宇都宮氏を中心とした戦国期国衆の動向と存在形態を論じ、彼らの権力構造を究明せんとした前著に続き、本書においては、那須氏と宇都宮氏を主な検討素材として、東国の戦国期国衆の権力構造について再検討し、彼らの歴史的性格を明らかにすることが目的とされている。

 本書の構成は、以下の通りである。(中略)

   二

 次に各章の内容について紹介する。東国において戦国期に「国衆」と呼称されていた中小の戦国大名に力点を置いた地域権力についての研究史を整理した上で、本書の課題と構成を示した序章に続き、第一章では、当該期の那須氏と那須衆(従属的な同盟者)との関係を考える前提として、鎌倉・室町期における那須氏と一族・家臣との関係が検討されている。鎌倉・室町期、那須氏と一族・家臣らは、温泉神社への信仰心を紐帯として、擬制的な一族結合を示していたが、南北朝期以降、那須氏の惣領制が崩れ、室町中・後期には地縁的な結合が見られるようになるという。那須氏における身分構造については、惣領家(上那須氏)と有力な庶子家(下那須氏)を頂点として、その下に那須名字を名乗らない伊王野氏ら庶子家が位置し、その下に大関氏ら有力家臣が位置付けられていたことが推測されている。また、室町幕府や鎌倉府は、前記身分構造の中で、那須惣領家と那須名字を名乗る有力な庶子家のみを把握し、その他の一族・家臣については直接把握していなかったことが述べられている。第二章では、戦国期における那須氏と那須衆との関係が考察されている。家格・社会的身分の面で差異のある両者(前者が上位、後者が下位)による権力は、領主同士の連合権力であり、那須氏は、古河公方と直接結びついていた那須衆(一族・家臣)の権力には介入出来ず、那須衆は、那須氏当主との間で相対的な自立性を保っていたという。第三章では、那須氏歴代当主ごとの家臣団構成の分析を通して、天正十年代以降、那須氏が那須氏当主と宿老との領主連合的な体制から当主専制的な体制に権力構造を再編していったことが指摘されている。第四章では、移行期の東国政治史や小大名の存在形態を明らかにすることを目的として、那須資晴が取り上げられ、統一政権(豊臣・徳川両氏)との関係が述べられている。

 続いて、宇都宮氏の権力構造をテーマとした第二編の第五章においては、那須氏同様、宇都宮氏も、戦国期の領主連合的な「宇都宮−芳賀」体制から、天正一桁代後半以降には、老敷衆(当主直属の重臣)にウエートを置いた「宇都宮−芳賀・老敷衆」体制へと、権力構造を転換していき、豊臣期にはその傾向が顕著となって、当主専制へと転換したことが説かれている。第六章では、天正十三年八月下旬に宇都宮氏が宇都宮城から多気山城に本城を移転した背景についての検討を通し、天正期の宇都宮氏による権力構造再編と本城移転が連動していたことが指摘されている。

 第三編に入り、第七章では、下野三大勢力たる小山・宇都宮・那須氏と、古河公方から豊臣政権に至るまでの上部権力との関係が考察されている。彼ら三氏は、戦国期を通じて勢力が桔抗しており、彼らの政治的動向や軍事行動、及び彼らの掲げる大義名分を支持してくれる権力を広域上部権力として推戴したことが指摘されている。第八章では、小山氏、宇都宮氏、那須氏の関係及び彼らの歴史的性格が検討されている。自家存続と所領の回復・維持・拡大への思い、特に彼らを取り巻く身近で現実的な利害関係が彼らの行動を規定していたことが明らかにされている。そして、平安後期以来の長い歴史と伝統をもって、地域に密着していた地域権力という彼ら三氏の歴史的性格が説かれている。補論は、戦国期東国の文書・記録に見える「南方」「東方」などの方位呼称に着目して、当該期東国政治史の総体を明らかにしようとするものである。ここでは、これら方位呼称が、下総の古河や古河公方足利義氏の御座所ともなつた同国栗橋・関宿一帯を中心とした見方であることが見通されており、東国政治史が「北」の上杉氏、「南」の後北条氏、「西」の武田氏、「東」の佐竹氏の四局構造をもって、武田氏滅亡まで推移していたことが指摘されている。

   三

 本書において著者は、東国の戦国期国衆の政治的動向を、ミクロな眼をもって緻密に描き出しており、小山・宇都宮・那須氏らが古河公方ら上部権力との関係において去就を変えていく姿やその背景についても、関係史料を博捜・分析することによって、きめ細かい叙述を行っている。彼ら国衆が時にめまぐるしく去就を変えざるを得なかった要因が「自己の家の存続と所領の回復・維持・拡大を願う思い」であり、自家の最盛期に保持した所領の回復や支配権の維持・拡大を目指した何代にもわたる境目相論を有利に展開させるために、その時々でそれぞれの局面により、それぞれの上部権力に従属していったという指摘は、説得的である。那須氏や宇都宮氏の権力構造、特に戦国期から天正期・豊臣期への家臣団構成の変遷については、著者の説くように、他の東国国衆の権力構造について考察する際にも、示唆に富むものとなろう。

 ただ、若干の疑問点もあるので、次に述べさせていただきたい。すなわち、那須資晴が天正十年代に家風の未庵(大関高増)寄りの有力な親類・家風層を排斥し、側近の家臣(直臣)団を重用して、当主専制体制を志向していったとの評価については、もう少し詰めて考察してみる必要もあるのではないだろうか。那須資胤時代の那須氏直臣団と資晴時代(天正十年代)の直臣団との間には、大きな人的変化を認めることは出来るものの、彼らが那須氏権力において果たした働きや家臣団内での位置付けについては、明確な差異を見出すのは難しいのではないか。また、「天正十三年カ」と年次比定される九月廿一日付けの未庵宛て那須資晴書状(「瀬谷文書」)からは、著者も指摘しているように、資晴が川崎塩谷氏への出陣に際して未庵に諮問し、彼の「返答」を得た上で那須氏家臣団に軍勢催促を行っていたことが知られるのであり、未庵は、那須氏当主による意志決定に大きく関与していたものと言えよう。著者も指摘する那須氏家臣団内における未庵の地位の高さのみならず、未庵の那須氏権力への影響力の大きさについても、過小評価することは出来ない。なお、天正期から文禄期にかけて、大関高増が伊勢内宮御師佐八氏宛てに認めた五通の書状(「佐八文書」)や、高増に師事された大虫禅師が記した「未庵」という史料(黒羽町所蔵「大関家文書」)を参照すれば、この資晴書状の宛所の「未庵」という号については、高増が大関家当主清増(高増子息)の死去(天正十五年七月二十五日)を契機として、同じく天正十五年、光厳寺(那須郡黒羽町寺宿)に隠棲した際に号した可能性が高いのではないだろうか。天正十年代の那須氏権力の性格に対する、「那名氏当主と有力な親類・家風層との領主連合的な体制から当主専制的な体制に変えてい」ったとの評価については、再検討する余地もあるのではなかろうか。あるいは、「那須−未庵・直臣団」体制などといった評価は無理であろうか。

 さらに、著者は、豊臣期における那須氏や宇都宮氏の権力構造(家臣団構成)を論じる際に、伊勢内宮御師佐八氏が慶長期頃に記載したと考えられる「下野国檀那之事」をメインの史料としているが、ここで、この史料の性格について再確認しておこう。この史料は、佐八氏が下野の檀那諸氏のもとを廻る際に必要な檀那についての情報をメモしたものであり、ここに記されているのは、佳人氏と宗教的関係の深い人物であって、それが那須氏・宇都宮氏ら当主とその兄弟・同一名字の親類・当主直属家臣という傾向を示しているということであろう。この点に関しては、例えば「黒羽之分」として記される大関氏についても、当主(資増)と親族(未庵・晴増ら)・側近の家臣らの名前は記載されているのに、重臣の松本・大沼・五月女・井上氏らの名は見えない。彼らは、『往古以来家中分限記』(前記「大関家文書」)などによれば、天正十八年の検地帳に名前が載せられていたとされる大関氏宿老であり、慶長五年の関ヶ原合戦時にも、松本惣左衛門(宿老)が大関資増の使者として東軍との間を奔走しているという事実もあるので(拙稿「関ヶ原合戦における那須衆の動向」〔『関ヶ原合戦と大関氏』黒羽町教育委員会、二〇〇〇年〕)、慶長期の大関氏権力が彼ら宿老を排除した側近家臣中心の権力であったとは考え難い。こうしたことも合わせ考えれば、確かに著者の説く如く、「下野国檀那之事」から豊臣期における那須氏らの家臣団構成を概観することは可能であるが、この史料は、あくまでも佐八氏が深い宗教的関係を有する人物について記載したものであって、必ずしも個々の領主の権力構造をそのまま表わしているとは言えず、今後この史料をさらに活用していくのに際しては、十分慎重な吟味を要するものと思われる。とはいえ、この史料において、「黒羽之分」(大関氏)・「太田原之分」(大田原氏)・「作山之分」(富久原=福原氏)は、「那須之分」(那須氏)とは別記された形になっているのであり、これは、豊臣期、彼ら那須衆が那須氏権力から独立した存在で、独自の権力構造をなしていたことの表現であろう。豊臣期の那須氏権力のあり方は、著者の説くように、蘆野・大関・大田原・千本氏ら那須衆の自立により、側近・当主直属重臣を中心としたものとなり、当主専制体制へと変質していったものと評価出来よう。

 以上、評者の力不足により、著者の意図をどこまで汲んだものとなつているか心許なく、また、誤解・曲解している点や的外れの評言もあろうかと思う。読者の御海容を請うところである。心ずれにしても、本書刊行の意義は大きく、本書が前著と共に、今後の下野・北関東・東国の戦国期地域権力研究の推進・深化に資することは確実であろう。


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