松本 一夫著『東国守護の歴史的特質』
評者:江田 郁夫
掲載誌:「歴史と文化」12(2003.8 栃木県歴史文化研究会)


   一

 二〇〇一年一一月、松本一夫氏が著書『東国守護の歴史的特質』(岩田書院)を上梓された。これは、松本氏が「母校慶應義塾大学を卒業して二十年、念願であった論文集」である(『同書』あとがき)。

 松本氏は、慶応大学卒業後、郷里栃木県に戻って県立高枚教諭を勤めるかたわら、今回集大成された数多くの論考を発表してきた。その研究テーマは、中世東国守護論という形でほぼ一貫しており、今回の著書は二〇〇一年一月に慶応大学に提出された学位請求論文「南北朝・室町前期における東国守護の研究」をもとにしている。これにより氏は、慶応大学より史学博士の学位を授与された。

 本書の構成は以下のとおりである。
 (中略)

 巻末の成稿一覧によれば、本書は旧稿一四編と序章・終章を含む新稿七編から構成され、総頁数が四五〇頁を超える大著である。

   ニ

 本書のおもな課題は、@東国守護の類型化、A東国守護の歴史的特質、B東国守護と鎌倉府との関係、の究明にあるという(序章)。

 まず第一編では、下野守護小山氏の成立を平安時代末期までさかのぼって検証し、あわせて鎌倉時代初期の小山氏以外の東国守護の実態についても再検討をくわえた。

 つづいて第二編では、南北朝時代の小山氏の動向を中心に、下野守護の特質を追究。下野守護といえども、職権にもとづく支配が宇都宮氏や那須氏などの勢力圏には及ばなかったことをあきらかにしている。

 そして第三編では、常陸・下総・甲斐・上総・伊豆・上野・武蔵・安房・相模各国の守護支配に関し、それぞれの特質を具体的に検討。その興味ふかい指摘は多岐にわたる。

 また第四編では、南北朝時代における東国の軍事指揮権のあり方を、大きく前期と後期に分けて追究している。

 最後に終章では、冒頭に掲げた課題について、つぎのように述べている。

 @ おおむね利根川を境に関東を二つの地域に区分した峰岸純夫氏の見解に修正をくわえ、平安末・鎌倉期以来の伝統をもつ旧族領主が蟠踞するA地域(下野・常陸・下総)、国内に中小武士が割拠し、足利一門や上杉氏の支配がもっとも強く及んだB1地域(上野・伊豆)と、とくに鎌倉公方の支配が強く及んだB2地域(相模・安房・ 武蔵・上総)に類型化できる。
A 旧族守護と上杉氏の守護支配を比較すると、旧族守護は守護公権を行使できる範囲が上杉氏に比べて、著しく制限されていた。
B 南北朝後期には、鎌倉府の軍事指揮権が上杉氏によって掌握されるようになり、これと並行して旧族守護も鎌倉府への従属性を強めていった可能性がある。

 以上、おおまかながら本書の概要をまとめた。『東国守護の歴史的特質』と題する本書だが、その特長の一つは上杉氏以外の旧族守護の支配状況を具体的にあきらかにした点にある。これにより、これまで上杉氏の事例を中心に論じられることが多かった東国守護の存在形態に関し、私たちはより客観的な検討材料を手にすることできた。

 くわえて、室町幕府・鎌倉府の東国支配において、各国守護がはたした役割は依然として大きく、本書の成果は当該期の東国政治史にも一定の貢献をなしうるものと考える。その点では、本書の真価は今後ますます発揮されることとなろう。

   三

 松本氏とほぼ同じ時代、同じ地域に関心をもつ筆者は、本書に収録された松本氏の旧稿からすでに多くの示唆をえてきた。そして今回、それらが集大成されたわけで、この学恩ははかりしれない。今後の研究にあたっても、おりにふれ参照させていただく所存である。なにしろ四五〇頁を超える大著なので、以下ではとくに印象に残った点のみを指摘するにとどめ、詳細にわたる検討はまた別の機会を期すことをお許しいただきたい。

 私見では、本書の中心は東国守護の多様な存在形態を探った第三編にあると考えている。それは、第三編が九章から構成され、本書の半分近い約二〇〇頁の頁数が割かれていることからもあきらかと思う。第三編では、東国の各国ごとに当該守護支配の特徴が検討されているが、そのさいのポイントはやはり各国守護の在職考証にある。

 具体例を示そう。たとえば松本氏によれば、室町前期の上総では、当時の幕府と鎌倉府の確執の影響で、幕府寄りの宇都宮持綱と鎌倉府寄りの上杉定頼がともに守護職権を行使し、「事実上二人の守護が並立する状況」にあったとされる(「上総守護の任免状況とその背景」)。上総の「二人の守護」をめぐるこれまでの議論に関しては、松本氏の論考を参照していただくこととして、結局のところ問題は当時守護であったことが明白な宇都宮持綱に対し、もういっぽうの上杉定頼までも守護と認定できるかという点にある。

 たしかに上杉定頼は、当時の上総でおこなわれた犯罪行為の実態調査を単独で鎌倉府から命じられている(「浄光明寺文書」)。これは、本来守護もどきの職務であり、その点では定頼を上総守護とみなすこともできる。ただし、守護もどきといったのは、実際には定頼が上総守護でなくても同様の命令をうける可能性があり、この事例だけでは確定的とはいえない。現に、定頼が隣国の安房守護であっても、このケースは整合的に理解しうる。つまり、上総守護が犯罪行為の当事者であるため、隣国安房守護の定頼に実態調査を命じたとも考えられるのである。それでは、当時の安房守護は誰か。松本氏によると、それは上総と同じく上杉定頼であったという(「安房守護と結城氏の補任」)。とするならば、もはや定頼を上総守護に比定する必然性はないように思える。いっぽうの宇都宮持綱はあきらかに上総守護であったのだから。

 それでもなお、上杉定頼が「事実上」の上総守護であったことを立証するためには、以下の点が示される必要があろう。まず第一に、定頼が「浄光明寺文書」の事例以外にも上総で守護職権を行使した徴証。それがなければ、あくまで臨時のケースとみられてもやむをえないのではなかろうか。第二に、鎌倉公方の近臣が二ヶ国の守護を兼帯した類例。いかに上杉一族とはいえ、関東管領家たる山内・犬懸両上杉氏を除いて、鎌倉公方の近臣が二ヶ国の守護を兼帯するのは家格・支配機構の両面で難しかったと考えられる。はたして定頼は、当時関東管領にも比肩しうるような立場にあったのであろうか。そして、第三にはそもそも幕府が正式に補任した守護の存在を鎌倉府がまつたく無視し、別の「事実上」の守護をあらたに任命することが現実的に可能であったのかという問題。両府の関係が断絶状態にあったのであればともかく、表面上は平穏な時期にもしそのような措置をとれば、両府の政治問題にまで発展しても何ら不思議はない。当時の上総守護宇都宮持綱は東国でも有数の親幕府派大名(京都御扶持衆)であった。にもかかわらず、東国情勢に詳しい『満済准后日記』等の史料にその点に関する記述はみいだせない。結論的にいって、上杉定頼を「事実上」の上総守護とみなす松本氏の見解には依然として疑問が多い。

   四

 些末な事柄にこだわった。以上の点が象徴的に示すのは、各国守護の在職考証の難しさである。もともと残された史料は断片的で、たとえるならば大海のなかに浮かぶ島のような存在である。当然、海中に沈む地形までも復元するのは、大きな困難がともなう。松本氏は、今回の大著でそのような困難にあえて挑戦したわけで、その努力は敬服に値する。

 筆者のみるところ、本書の最大の課題はかつて峰岸純夫氏が示した関東諸国の類型の再検討にあったと考えられる。それは、本書の序章と終章で最初にその問題に言及していることからもうかがい知れる。本書で松本氏は、峰岸説をおおまかな点では容認しながらも一部に修正をくわえた。あらたな貴重な成果といえよう。ただし、松本氏自身も「各国守護の存在形態と職権行使のあり方は実に多様であり、それを一律にとらえることは実態から乖離するおそれがありはしまいか」と述べているように(二一四頁)、その成果は今後も絶えず検証されていく必要があろう。

 同様に本書で示された各国守護の在職考証は、例示した上総守護以外にも、相模守護をめぐる阪田雄一氏との論争がある(「相模守護の特質」)。各国守護の在職状況いかんによっては、東国守護の諸類型にも影響を及ぼす可能性があり、今後も見逃せない課題といえる。

 峰岸氏による類型化の真骨頂は、その後の東国の政治的展開までを見通した点にあったと考える。結果的に北条氏ら戦国大名の領国となった利根川以南と、なお伝統的豪族層が蟠踞しつづけた利根川以北の地域である。今回、松本氏によって峰岸説に一部修正がくわえられた。松本氏によってあらたに類型化された諸地域は、来る戦国時代にはそれぞれどのような歴史的展開をみせるのか。今回の成果をもとに、近い将来、松本氏からより精緻な見通しが示されることを心待ちにしたい。


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