中山 清著『巨大地主経営の史的構造』
評者:大栗 行昭
掲載誌:歴史と経済 第180号(2003.7)


 地主制の研究は多いが、地主(的土地所有)制が徳川幕藩制下に生起・展開していたことについての解明は不十分である。日本地主制の脊梁的位置を占めたのは大地主制で、その主要部分は米作単作地帯に存在した。さらに、大地主制を近世に展開し近代に体制化するという上記の視点に立つならば、近世期に大地主が多く存在し小作地率も高かった地域がまず研究きれるべきである。こうして、前書『近世大地主制の成立と展開』(吉川弘文館1998年)に引き続き、越後国=新潟県に存在した大地主の実態を究明する。本書の序章「巨大地主研究の課題」によれば、著者の問題意識は以上のようなものであろう。序章に続く本書の構成は、第一章「巨大地主経営の成立基盤」、第二章「巨大地主経営の構造と展開」、第三章「大地主制の再編と確立」、終章「米作単作地帯における近世後期〜明治前期の大地主制」となる。ここでいう巨大地主とは、生成期に百町に達し展開期に数百町ないし千町を超した大地主中の大地主を、経営面に限定して表記したものという。それでは本書の内容を紹介しよう。

 第一章は、越後で大地主制が生成した諸条件を述べる。新田開発が進む中、大地主は質地地主として生成した。彼らは100町規模への到達時期などによって、宝暦・天明期に到達した江戸期型、化政〜天保期に到達して幕末に巨大化した幕末期型、幕末に到達して明治期に巨大化した明治期型に分類される。大地主は必ず旧地主層の流質地を集積しているが、旧地主層がその小作人を支配する中小作−又小作の慣行は残り、大地主の差配人に起用される旧地主もあった。契約小作料に当たる入付米は、内歩とよばれる実面積を勘案しながら、資地代金に利米を乗じ(=地主徳米)、これに年貢諸懸りを加えて決定された。その額は内歩反当1石前後で、収穫米の7割を超え、年貢諸懸りを上回る地主徳米を保証した。ただし、地主経営の基礎になったのは減免実行後の取箇で、取立(蔵入)米はさらにそれを下回った。領主と大地主とは収穫米の収奪をはじめその流通、さらに金融などの側面で「共生」関係にあった−金融面では幕末に領主が収奪を強制した例がある。

 第二章は巨大地主の生成・展開期の経営構造を述べる。江戸期型の白勢家と市島家が中心で、これに幕末期型の今井家、二宮家などが加わる。白勢家は享保以降、質商を営みながら北蒲原の新田を集積して宝暦・天明期に400町の大地主として生成し、寛政〜化政期に700町を超えるまでに成長した。資産の主体は初め質物であったが、やがて貸金と蔵有物(小作米および領主米の買米)に移る。こうして地主・高利貸資本に純化しながら経営を拡大したが、幕末には経営が固定化した。一方、市島家は薬種問屋という遠隔地商業を資金源として宝暦・天明期に大地主として生成した。寛政期には所持地を北蒲原から中蒲原に拡大し、本家所持地を分家に管理させる同族体制を敷くなどして巨大地主経営を展開した。文化末年には総資産の2/3を土地で(8万5000両=1700町へ拡大)、l/3を有物(貸金・米穀・現金)で所有するという経営方針を樹立して、文政末期に総資産が10万両に達した。しかし、天保以降は所持地が拡大しなくなるなど、経営は固定期に入る。領主金融に加えて分家・縁戚への援助を強いられたのが原因とみられるが、100を超える村々の2000町近い貸付地を、分家を動員しながら掌握する経営も限界にきていた。

幕末・維新期には固定的でない大地主の方がむしろ多かったが、領主金融はその浮沈にかかわった。長岡藩領内の500町地主・今井家と新発田藩領内の400町地主・二宮家は、ともに藩財政機構の一端に食い込み、出金の見返りに藩米取扱いの特権を得るなどして、大地主体制を維持、発展させた。こうして領主と「共生」した地主の対極には、白勢宗家や角市市島家のように、領主の一方的な収奪で解体に向かった地主がいた−両家の下降は白勢家と市島家の経営を停滞させた一因とされる。

第三章は明治期に入っての大地主制の再編と確立の過程を述べる。文久期から明治初年にかけて、越後平野部では米価・地価の高騰や余業の展開などを背景に、大地主の土地(流質地)が、中小作人や直小作上層によって盛んに請け戻された。しかし、請戻の盛行も質地地主的土地所有を解体させるには至らず、地租改正によって挫折する。

 地租改正は新潟県の地主層に大幅な増歩・増租を強制した。地主層は中小・手作地主を中心に、押付反米に反対した。大地主も中央闘争(政府歎願)には参加したが、官側の強圧のもとで特別地価修正運動へと走り、江戸期以来の高率小作料収取体制を維持した。地券交付に当たって、割地や中小作−又小作など、近代的所有の観点からすれば「おくれた」土地慣行・小作慣行も否定された。こうして、江戸期に形成された大地主による質地地主的土地所有は、地租改正によって近代的「装い」を付与され、国家的に承認された。

幕藩領主に代わって国家を「共生」相手とした新潟の大地主制は、改租から明治20年代初頭までに再編過程すなわち大地主諸家の上昇・下降を終え、体制的に確立した。この間、幕末期型の二宮家(800町地主へ)、明治期型の斎藤家(560町集積)や伊藤家(320町余取得)などが急上昇し、土地請戻に苦しんだ幕末期型の原田巻家も900町規模を回復した。これに対し、江戸期型の白勢宗家(解体)や白勢家(200町近く減)などが前者に土地を譲渡する形で下降した。市島家が大地主相手の土地売買を繰り返した後の明治20年代前半、小作地を測量して小作人別の小作入付帳を作成し米穀改良組合を設立したのは、大地主制の確立を象徴する出来事であった。

 終章は第一章から第三章までの内容をまとめている。

 本書は500頁近い大部であり、わずかな紙幅で内容を紹介するのは難しい。不適切な紹介になったとすれば寛恕を乞いたい。本書の最大の魅力、学術上の貢献は、巨大地主の経営資料に基づいて近世越後における地主的蓄積の構造を解明したことであろう。筆者の手元には農政調査会『新潟県大地主所蔵資料』10冊があるが、資料集ということもあり、大地主の形成・成長期の全体像は把握できないでいた。本書のお陰で、もどかしさは解消した。大石嘉一郎編著『近代日本における地主経営の展開』(御茶の水書房1985年)の終章で、西田美昭氏が明治以降の市島・渡辺・白勢・田巻・二宮家の経営について的確に整理されているから、読者は江戸期から農地改革まで、新潟の大地主経営を通観できるようになった。もう一点、やはり地主資料をいじっている者としては、白勢家「勘定帳」や市島家「棚卸帳」などの分析に迫力を感じ、本書に投じられたであろう膨大な労働量に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 しかし、本書の構成には不満が残った。本書が前書とどのような関係にあるのか、気になって仕方がなかった。第一章の諸論点をはじめ、本書の論点の多くは前書に登場済みである。大地主に土地を供給した側の考察は本書にないから前書を参照しなければならず、逆に前書には巨大地主の経営内容を説明するのに本書の表を必要とする箇所がある。本書はいわば「近世大地主制の生成・展開」という素描(前書の復習)の上に「近世巨大地主の経営構造」という色を施し、「近代大地主制の確立過程」という場面を描き足した絵画であろう。だが素描が濃すぎて、本書固有の課題が見えにくくなっているのは残念である。

近代大地主制の描き方に話を移して、幕末・維新期の地主的土地所有の評価と大地主制の確立の2点について述べる。前者に関して本書は、少数大地主と圧倒的多数の無高小作からなる階級関係が地域の再生産構造を掌握し、数百町〜千町の集積地に数千石の入付米という巨大経営が成立した事実を強調して、越後平野部での地主的土地所有の体制的展開を主張する。これは維新期の地主的土地所有の発展を畿内ぐらいにしか認めなかった丹羽邦男『形成期の明治地主制』(塙書房1964年)への批判と読める。しかし故丹羽氏が問題にしたのは、高小作地率や大土地集積の存在にもかかわらず、「地主ニシテ其地ヲ自由スルヲ得」る(明治6年7月19日大蔵省伺)という私的土地所有の本質が、領主規制や質地小作関係、永小作関係、割替制などによって未熟で不安定を強いられていた点である。したがって本書に望まれるのは、永小作や割地制、流質地請戻の事実を包含した地主的土地所有の評価である−請戻の盛行をもってしても大地主を解体できなかった事実は地主的土地所有の成熟を支持している、という立論には賛成できない。請戻の量が問題なのであろうか。もう一つ、「おくれた」慣行を引きずった地主的土地所有は地租改正によって近代的な「装い」を与えられたと、比喩的に表現される。地主・小作関係の実態は本書の叙述に近いのであろうが。一歩踏み込んで理論化してほしかった。

 後者についていえば、大地主制の確立とは江戸期型、幕末期型の下降と幕末期型、明治期型の上昇という大地主の交錯を意味するものでしかない。地主制の体制的確立を「地主的土地所有の構造が明確に地域の政治的・経済的・社会的諸関係を規定している状態の恒常化」(450頁)と規定しながら、これら諸側面での考察はない。このため、大地主層の再編が完了した明治20年代前半に地主的土地所有が「米作単作地域における資本制的経済展開への対応を始めていると見通すことができよう」(471頁)といわれても、同意することができなかった。
(大栗行昭・宇都宮大学)


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