福江 充著『近世立山信仰の展開 加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札』
評者:菅根 幸裕
掲載誌:日本歴史663(2003.8)


 富山県立山町にある芦峅寺の集落は、古来立山信仰の拠点であり、芦峅寺衆徒は諸国を廻檀配札し、信仰の伝播に努めたことで有名である。著者の福江充氏は、この芦峅寺に建てられた富山県立山博物館に、開館準備段階から学芸員として勤務し、長年芦峅寺に伝来する史料を地道に分析しながら、近世における立山信仰の形成と展開についての研究を継続している。すでに、平成十年に『立山信仰と立山曼陀羅−芦峅寺衆徒の勧進活動−』(岩田書院)を刊行しており、本書はその続編である。

 立山信仰史の研究は、今まで高瀬重雄氏や廣瀬誠氏などによりいくつかの成果があがっている。しかし、本書のように、多くの史料を分析した実証的な研究はほとんどみられなかった。 さて、本書の目的は、近世に芦峅寺衆徒が全国各地で形成した檀那場における廻壇配札活動の実能仙を明らかにし、芦峅寺衆徒側の立山信仰の性格を考察することである。その視座として福江氏は、(一)加賀藩支配による山籠・山岳抖型修験から御師型修験への移行の分析、(二)御師型修験への移行にともなう諸国の壇那場での廻檀活動の重視、(三)立山信仰の伝播と受容に関する研究の三点をあげている。実は、この三点は、近世では、立山のみならず、各地の修験に共通する過程である。福江氏は、立山の場合、領主金沢藩の宗教政策が重要で、その中で独特の廻橿配札の形能心が成立していつたと分析している。

 以下、本書の構成を紹介する。(中略)

 研究方法は、主に旧芦峅寺衆徒の家々に伝来する壇耶帳や廻檀日記などの古文書を解読し、細かい分析を加えるもので、それぞれ各章で結論が導かれている。

 まず、第三章では、廻壇配札活動と檀那場の実能仙について、地域的な特徴や相違点を明確にするため、@大都市の事例として江戸、A農・山・漁村の事例として三河国、B加賀藩領内の事例として能登国を比較検討している。その結果大都市江戸の壇家は、地方の三河国や能登国に比べてかなり少ないものの大名・旗本・商人など経済的に豊かな階層であり、こうした有力スポンサーに対しては毎年定期的に訪れ、直接ふれあいながら勧進布教を継続する形をとった。

 地方を廻る場合は、庄屋を定宿とし、その村で必要とするだけの枚数の譲符を庄屋に渡し、実質的な須布は庄屋に託して移動するという一筆書さのような動きをした。これに対して江戸では、信徒の家を基地に放射線状に何度も繰り返しながら配札するといった特徴がみられるという。こうした信仰を受容する側を都市と地方に大別し、それぞれの特徴を考察するという視角は斬新であり、痩家の立地や経済的条件に対応した民間宗教者の柔軟な活動が明らかにされている。

 第二章、第四章では、尾張国、信濃国、房総半島における芦峅寺衆徒の廻檀配札について詳述している。まず、尾張国では、「点」である壇家が密集していて、「面」が形成され、効率の良い廻壇配札が可能であったとする。一方、信濃国は、距離が離れた各村に数軒ずつ檀家が点在するという状況であり、「点」である壇家と檀家を結ぶ「線」や「筋」を辛うじて保っているのが実態であった。

 立山信仰史の研究は、尾張国を中心に分析されてきたためか、効率の良い宗教活動の側面が強調されてきた。しかし、信濃国の事例はそうした「面」的な活動ばかりではなかったことを示しており、檀那場の多様性を明らかにしている。房総半島における廻檀といっても、新義兵言宗が卓越している上総国西部から安房国が中心であり、福江氏はこうした宗教的特性から、衆徒の活動が容易であったと考察している。実はこの地域は、経済的に比較的豊かであるためか、羽黒山・相模大山・富士山・高野山の檀那帳にも頻繁に記載されている。その際江戸とセットで廻桓している場合が多いのが特徴である。

 興味深いのは、第三章で触れられている宝永四年(一七〇九)以降の、芦峅寺と里宮岩峅寺との戸銭や室堂入銭の徴収権、立山諸堂舎管理をめぐる争論の中で、六十六部納経所の設置権が争点となっている点である。従来、六十六部廻国聖の研究は、廻国納経帳や廻国塔といった宗教者側の立場からのものがほとんどであり、納経を受容する側の分析は等閑にされていた。熾烈な争論を繰り返してまで主張した納経所設置権とはどのような価値があったのであろうか。

 第五〜八章は本書の中核をなす部分で、大都市江戸での宗教活動が対象となっている。近世中期、中小商人・職人・新吉原関係者から徐々に師檀関係が形成され、後期になると、壇那場の成熟とともに武士層から大名まで檀家が広がっていく過程が述べられている。特に幕末期の『東都廻橿日記帳』等には、針や傷薬・楊枝・箸などの頒布がみられ、強力な商業活動の様子が明らかになっている。また、女性に対する布教も盛んで、立山を女人往生の霊地と説き、大名の妻から市井の職人の妻まで、当時流行していた血盆経信仰を取り入れながら、身分を越えて信徒を増やしていく様子は圧巻である。当時、江戸の人々が立山に寄せた現世利益的願望が詳しく紹介されている。

 第九・十章では、宿坊としての衆徒間の檀那場争論の様子を、また、第十一章では、加賀藩の宗教政策と廻檀配札活動の関係を明らかにしている。加賀藩がいわゆる「外貨獲得」のため、藩外での活動を奨励したとする結論は面白い。

 以上のように、膨大な廻壇記録を分析した労作であり、これまで不明な点が多かった近世立山信仰の実態がかなり明確になったといえる。最後に豪雪地域としての立山の自然環境に着目し、冬期問の「ロすぎ」が廻檀配札活動の目的の一つであったと結んでいるのは、近接する白山での冬季袖乞慣行の習俗とも重なり、的確な指摘であると考える。

 また、本音の特徴として、データベース表を駆使しての解説があげられる。大量の史料の紹介には有効であり、説得力もあるが、随所に掲載される横組の一覧はA5判縦組では限界があるようである。

 さて、今後の課題としては、第一に、福江氏自身も述べているとおり、芦峅寺衆徒を受容した側の調査と分析があげられる。彼らがなぜ檀家となったか、立山信仰を持続した理由は何であったのかを今後は明らかにしていくべさであろう。遠隔地信仰の実態は、受容者側の史料と宗教者側の史料を同時に分析することにより、はじめて.明らかになると考える。

 第二に、衆徒と村落に既存する滅罪・祈祷院や民間宗教者との関係、また他の遠隔地信仰との相克を分析することが必要で、その結果により、その村落での信仰を獲得したかどうかが判断されるべきであろう。そのためには、廻檀配札の実態を編年で追う作業も必要であろう。また、近世村落における遠隔地信仰への対応が、村入用でなされていた場合が多かったことからも、配札の受容がそのまま信仰の獲得と考えて良いか、疑問の残るところである。近世村落では、遠隔地信仰に対する選択はかなり柔軟であり、参詣講は村落に重複して存在したのであるから。

 ただし、神仏分離以降の壇家の記述は、本書が近世という時代設定がされていても興味深い点である。すなわち仏教色を払拭あるいは希薄化したこと、すなわち信仰対象が仏から神に変容したことに、それまでの檀家がいかに対応したかが、近代の山岳信仰を研究する上で重要問題である。本書に示された近代における廻檀配札の様子は、こうした対応の実態を明示していると思われる。逆に、本書で近世と近代の史料が、同質に使用されている点が気がかりである。

 近世における山岳信仰が、伝播者である御師とそれを受容した檀家を軸に展開し、研究方法として、御師家に伝来する壇家帳の分析が不可欠であることはいうまでもない。それにもかかわらず、福江氏のように本格的な分析を試みる研究者は少なくなっている。これは、第一に、調査前から研究者自身が狭溢な問題設定をして檀那帳や廻檀日記にのぞむためである。第二には調査が、宗教者を受容した檀家が属する地域の、自治体史編纂に付随して行なわれる場合が多くなったためである。言い換えれば檀家帳から、行政区域のみの史料を抽出しての、断片的な分析が、自治体史刊行の時間的制約の中で繰り返されてきたことに起因する。

 福江氏は、芦峅寺にある立山博物館の学芸員というしつかりとした基盤を持ち、十年以上かけてじつくりと檀家帳や廻檀日記を読解・分析してきた。そうして導き出された結論には、最近の近世史研究で見られるような構造主義を濫用したようなカテゴリー化は微塵も見られない。最後はこうした地道な努力が的確な指摘を導き出すことを本書は示している。檀家帳や廻檀日記は、出羽三山・相模大山など各地に伝来する。今後研究者は、本書に示されているような信仰史料に対する的確な分析方法を参考にすべきであろう。それにより、立山とこうした霊山との比較研究も可能となり、それぞれの特徴や相関性が明らかになっていくものと考える。
(すがね・ゆきひろ 国学院大学栃木短期大学助教授)


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