沼田 哲編『「東北」の成立と展開−近世・近現代の地域形成と社会−』
評者:瀧本 壽史
掲載誌:弘前大学国史研究114(2003.3)


  一

 近年の北海道・東北史研究の成果が目覚ましいものであることは、誰もが認めるところである。研究の主要な柱は国家の枠組みの問題と民族の問題であったと思われるが、その成果をどうとらえるかが次の研究の広がりと深まりに関わってくる。

 本書では、その成果を、国家の枠組みと複合したり、あるいは越えたりしながら存在し、展開していく地域や民族の諸相を、この地域の中に見い出すことによって生み出された成果だととらえ、それを見い出しうる歴史を育んできたことが、この地域と社会の特性であるとしている。そして次に取り組むべき課題は、「そうした歴史のもとで作り出される新たな地域関係と文化が、どのような規定を与えられた内容を持つものとして展開したのかを明らかにすること」だとし、このことは同時に「この地域に生きた人々が、どのような意識を持ち、如何なる可能性をもって新しい時代を切り拓いていったのか、という視点に立つこと」(5頁)になるとしている。

 「地域に生きた人々」の視点に立った問題関心は必然的に今日的な課題につながってくる。本書はそれを書名の『「東北」の成立と展開』とし、その課題を明らかにすべき作業の一環として、副題の「近世・近現代の地域形成と社会」の諸問題に取り組んだものであり、東北をカッコで括り、さらに「成立」という文言を用いたのは、まさに現代における東北とは何かを模索している編者や執筆者の率直な問題関心の表れである、と理解できるのではないだろうか。
 左に本書の目次を掲げる。(中略)

 近世と近現代の二部構成とし、それぞれ五本と四本の論文からなっている。目次だけからすれば、一見、執筆者各自の研究テーマに基づいた論文の羅列のようではあるが、先述したような問題関心に立って書かれた論考であるということを念頭において見れば、地域社会をそれぞれの時代の様々な歴史事象で切り込みながら、いかにその地域が形成され、また地域文化が育まれてきたかを、北奥羽を主な考察地域として明らかにしようという、共通の土俵に各執筆者が立っていることを読みとることができよう。

 次に、その点を汲み取りながら、各論考について紹介することにする。
  
 二

 最初に、近世の五本の論文について紹介し、若干のコメントを付させていただく。

 長谷川論文は、幕藩体制の成立過程において領主支配の枠組みがどのように確定していったのかを、慶長十四年六月に起こった「笹子山落」事件をとおして検討したものである。「笹子山落」事件とは、出羽国由利郡の東南端に位置し、由利郡と雄勝郡との郡境、最上・秋田の藩境でもある鉱山地域の笹子において、佐渡金山から最上氏由利領を経由して佐竹領の院内銀山に入山しようとした金堀りたちが、笹子村付近を拠点とする山落(山賊・武力小集団)たちによって、大量に殺害された事件である。長谷川氏はこの事件の背景として、@慶長期にほぼ同時期に開かれた羽前国延沢銀山(最上領)と院内銀山には全国から金堀りをはじめとする多様な人々が押し掛け、両鉱山をつなぐ羽州街道の往来が著しかったこと、A笹子と院内は藩領は違うが境界を接する同一の鉱山地帯であり、領地間の物資や人の往来が頻繁で、かつ密接な関係にあったこと、Bこれら地域には慶長五年の関ヶ原の戦いで敗れて落ち延びていた武士たちが大勢存在していたこと、などをあげ、他に同様の事例を示しながら、この時期、羽州街道を往来する金堀りらをねらった山賊等が跳梁跋扈し、また院内銀山内部でも夜討ち・辻斬りが横行するような社会状況に出羽国全体が陥っていたとする。このような社会状況の中で起こった笹子事件は、事件の場が藩境域であることから、必然的に佐竹・最上両氏の問題に発展することになる。つまり、山落たちは最上氏の警察権の及ばない佐竹領の仙北に逃れていたのである。このことが意味するのは、出羽国の社会状況は簡単に盗賊たちの越境を許していたということであり、したがって、これらの取締りと自領内の秩序確立のためには隣接する領主間において、「詮議と成敗のルール」が形成されていく必要があったという。地域間を移動しながら犯罪を重ね、逃亡を重ねる山落や一部の金堀りにどう対処するのか。笹子事件の犯人たちは仙北で捕らえられて佐竹領内で成敗されることになるが、長谷川氏は、そこに最上・佐竹両氏の間でルールが形成されつつあったことが示されているとし、その過程で山落・山賊の文言が各史料から消えていったとしている。さらにこのルールは領主間戦争に備えた武力を領国内に向けることが可能になってきた時代的変化=領主権力側の対領内的武力強化を背景として形成されていったとし、そのことは「法が社会秩序を基本的に縛る時代」の到来を意味するとして、慶長・元和期の出羽国の社会状況を幕藩制国家の成立過程の中に位置づけている。藩境を越えた広域の問題がどのような形で権力側に処理されていったのか、そのことが領国支配の枠組みや支配方式をどのように規定していったのか、山落の拠点となるような地域とそこの住民は領国支配の中でどのように押さえ込まれ変えられていったのか、等が今後、長谷川論文から検討されるべき地域形成の視点ではないだろうか。個別検証による社会状況の再評価である。長谷川氏の最近の論文「尾太以前−近世前期津軽領鉱山の復元と鉱山開発」(『青森県史研究』七号 平成十四年十二月 青森県)は、対象地域は異なるが、その視点に迫る内容を含んでおり、併読をおすすめする。

 本田論文は、境争論の視点から、南部・津軽・秋田の各支配領域がどのように定まっていったかを、三者の藩境にあたる南部領鹿角通の境争論、特に南部・秋田の境争論の具体的事例分析をとおして検討しようとしたものである。本田氏によれば、境争論の発生の理由は、「領域全体を管理する藩政からの要求」と、「土地利用に関わる住民の事情」の二つの側面があるとし、境争論が当事者間の解決から次第に公的な強制力としての「公儀」の要求によって解決されるべきものと位置付けられていくという。そして、その公儀の要求が具体的な形となって表れたものが国絵図であり、また、その補完図の縁絵図や幕府裁許絵図であるとし、これら絵図が境争論の証拠として活用されていくことによって、境争論が幕藩制の枠組みの中で語られるものへと変質していったとしている。この論理が、慶長二年から延宝五年までの約八〇年に及ぶ鹿角境争論によって検証されるわけであるが、本田氏はこれを、@「慶長・元和期の状況」、A「寛永〜慶安期の花輪・比内境」、B「寛文〜延宝期の情勢」の三時期に分けて跡づけようとしている。時期区分する以上、区分上の指標が必要であり、各時期の質的差異が示されなくてはならないのであるが、各章の表題が@「状況」A「境」B「情勢」と一定しないように、個別研究が不十分な境争論の研究状況を反映して、各時期の境争論の内容とその結果の提示が主なものとなっている。ただし、そのような困難な中でも、支配領域の確定過程を、幕藩制の展開過程に位置づける視点から興味深い指摘が幾つもなされている。@では、南部・秋田の論地に対して幕府が出した指示の実効性がほとんどなかったことや、「鉄火取り」と呼ばれる神裁による決着がいまだ有効性を持ち得ていたことが明らかにされている。Aでは、寛永国絵図、正保国絵図の作成が「境目筋」についての諸藩の認識を一定化させる方向に向かうが、その境目は線(ライン)ではなく帯(ゾーン)として捉えられていたことや、従来の慣習による主張(南部側)が証拠主義(秋田側)によって敗れていくことが示されている。Bでは、Aにおいてみられる法秩序による解決が幕府によって強力に進められた結果、境争論は幕府の意向を遵守し、最終的には幕府の検分を待って解決するという認識が南部・秋田双方に共有されたことを指摘している。また、その過程で、境目は帯から線に捉え直されていくのだとしている。なお、本稿は、長谷川論文と特に@の時期で共通する部分が多い。本田氏は元和四年の矢立峠をめぐる津軽・秋田の藩境交渉を取り上げ、その交渉の必要性の理由として、藩境の人の移動が激しく、自領の防衛や農民統制・治安維持の面において明確な領境が必要とされたからとしている。そして翌元和五年に藩境が確定された後は、藩境がその機能を発揮していたとし、その事例をあげている。長谷川氏の「詮議と成敗のルール」との関わりからすれば、ルールの確定が「藩境」として結実したことになる。ただし、矢立峠をめぐっては、慶安年間に「矢立」の位置をめぐって再び争論となり、その後境界帯が設定されている。この時、ルールの変更はあったのか、ゾーンとラインの問題も含め、論理化が必要とされる。本田氏が言うように、今後、このような境争論に関する個別検証を重ねることがやはり大切である。この場合、「藩境」「領境」「国境」「郡境」を整理しながら「境」が論ぜられれば、「土地利用に関わる住民の事情」の側面から切り込める論点が見いだせるのではないだろうか。各「境」に対する住民の意識は同じではないはずである。「境」の決定が地域形成のあり方にどのように関わってくるのかは興味深い問題である。

 浪川論文は、弘前藩が領国内に編成した流通統制体制である九浦制度が、一八世紀中頃から崩れていく状況が享保期を契機として展開したことを、九浦制度の要の湊である青森湊をとおして検討したものである。九浦制度の動揺については、既に難波信雄氏が「津軽藩九浦制沿革小考」(東北学院大学『東北文化研究紀要』一五、一九八四年)において、全国的な商品流通や民衆による商品取引が活発化・広域化し、またそれによって密接な地域間交流が行われるようになったことが背景となっていたことを指摘している。本稿ではその背景となる事象が享保期に出そろっていたことを、青森湊における畿内、松前・蝦夷地、弘前城下、そして領内の在町との流通関係を総合的に関連づけながら示したものであるが、これまで位置付けが難しかった青森湊の全国的な商品流通上の位置づけや、弘前藩政史上の享保期の位置づけを考えうる内容を含んでおり、極めて示唆に富んだ論考となっている。浪川氏によれば、青森湊の問屋・船持層の衰退は、享保期の全国的な米価安諸色高を下敷きとし、松前・蝦夷地の動向と密接な関わりを持っていたとされる。一七世紀後半から一八世紀前半にかけて、蝦夷地においては漁業経営を基礎とする場所請負制が展開するが、鯡が金肥として畿内の商品作物栽培と結びついたことを背景に、鯡漁は享保期を通じて拡張を続け、その結果、労働力=人口拡大によって松前・蝦夷地での米消費量が増大していった。当然、津軽米の需要は拡大し、その海上輸送に従事することで経営を成り立たせていた青森湊の問屋・船持層は繁栄するはずであった。しかし、元禄八年の飢饉を契機に領主による津留などの統制によって津軽米の移出が制限されていたことから、安定的かつ安価な供給可能地域からの移入が増加し、松前市場から津軽米が駆逐されてしまい、青森と松前の海上交通の需要は逆に減少し、結果として青森湊の問屋・船持層が衰退していった。青森湊での船需要も落ち込み、享保九年には一〇三艘、同十七年には六三艘にまで船数が減少している。浪川氏はさらに、湊から弘前城下や在町への商人荷物の陸送の問題を取り上げ、上方から日本海海運によって津軽領内に移入される諸商品が、役銭の徴収や公定駄賃の問題から、領内商人たちが鰺ヶ沢湊への荷揚げを嫌い、安価な下り荷を主とした商品が、享保期に青森湊に多く陸揚げされるようになったことを指摘している。青森湊にとっては歓迎すべきことではあったが、しかし、このことは領内での商人荷物の需要の増大が背景にあったのであり、九浦制度において荷揚げに関する機能を負わされていない青森湊においては、商品が陸揚げされても、城下や在町にそのまま陸送され、何ら青森湊の問屋・船持層に新たな市場展開をもたらすことはなかった。湊に陸揚げされた商品を媒介とする荷主・買い付けの領内商人、そして湊の問屋商人たちの関係、商品の陸送と販売ルートについてはこれまで看過されてきた部分であり、重要な指摘である。青森湊の問屋・船持層たちは以上のような状況から貧窮していくわけであるが、このことは、九浦に特権を与え、領主的流通統制体制を維持しようとした九浦制度が、商品流通の実態に対応できずに硬直化していることを意味している。浪川氏はこれを「領主的特権湊の後退と民衆的な商品取引の活発化」を意味しているとする。藩はここに抜け荷などの取締りを強化していくことになるが、実態は既に支配領域・統制を越えた経済活動が一般化しているのである。経済活動の展開は地域の広域化と交流をもたらすとともに、領主支配地域との対抗関係を生み出してくる。浪川論文から導かれる地域像は、移動する商人たちが形成する地域であり、販売される商品をめぐって形成される地域である。いわば地名が付されない地域であり、流動的でその範囲が確定できない地域である。このような地域形成が、幕藩制国家の領主支配地域を有名無実化することにつながっていくのではないだろうか。近代社会における地域との連続・非連続性についての議論もできるのではないだろうか。

 金森論文は、天保飢饉を背景として天保四年に実施された、秋田藩の「家口米仕法」が、翌年の北浦一揆によって挫折しながらも、天保九年に再交付された経緯について、丁寧にあとづけたものである。従来の研究が、天保四年の土崎港での仲仕騒動から北浦一揆にいたる民衆の政治的力量を高く評価してきたことで、逆にその後の藩政のあり方についての究明が消極的になっているという認識によっている。金森氏には既に、秋田藩の寛政改革と天保期の藩政における連続性について、特に官僚集団の形成に焦点を当てて述べた「天保期秋田藩の民衆闘争と藩政改革」(藤田覚編『藩政改革の展開』山川出版社、二〇〇一年)があるが、これも同様の認識で書かれた論考である。「家口米仕法」は天保四年の飢饉に際して行われた米の配給制度であり、藩が一定量の飯米を家口(家族数)に応じて配分しようとしたものである。配分のためには、藩が領内の米を一元的に把握し、買い上げておく必要があることから、その過程で農民との衝突が起こった。これが北浦一揆である。その後の藩政は、勘定方と郡方との政策的な違いを克服・調整しながら、主として郡方の意向が取り入れられる形で展開していった。藩の「御仁政」的機能を実証するための農民への助成・撫育手当の実施、他領米の買い付け、「御改正御用係」・「御省略御用係」の任命による財政改革への取り組み、未収納諸役の免除、荒廃地への近領農民の入植、そして「五升備米」の制度の実施である。この制度は、飢饉時の備荒貯蓄のための領内一統の米の賦課であり、労働年齢を対象とした人頭税的な性格をもつものである。個々の負担能力を考慮して実質的には村・町単位での賦課に近いものとしたり、有徳者への全面的な依存を避けたことから、幕末まで継続されている。このような藩政の展開の中で、藩権力の相対的な上昇がもたらされたとともに、大坂を中心とした商人への経済的依存度を強めていった。ここに、大坂への回米を企図し、米の流通事情から生ずるすべての要素を藩のもとに一括管理するためのシステムの確立しようとして、再び「家口米仕法」が実施された。結局今回も武士階級内部からの抵抗などで失敗するが、藩は米の流通統制の把握という課題は放棄せず、六郡全体に買米を命じている。金森氏は、このような天保期の秋田藩政は藩権力による一元的な流通統制を志向し始めたという点で新たな段階に入ったとしている。もちろん、西南諸藩と同質の国家体制が志向されたとはしておらず、また絶対主義への傾斜を見せ始めたともしていないが、「家口米仕法」にしても「五升備米」制度にしても、それは御救いの「御仁政」とは異質な、新たな藩政が志向されたと評価しているのである。菊池勇夫氏も『近世の飢饉』(吉川弘文館、一九九七年)のなかで「新たな段階の国家行政に道が開かれ」たと同様の評価をしている。金森氏は本稿の中で、地域形成の観点からもいくつか問題を提起している。一つは領域を越えた農民の入植である。隠密に他藩に人を遣わし、藩内の荒廃地に家族ぐるみで入植させる政策は、少なくとも入植先の村や地域に何らかの影響が考えられる。村の構成員=住民が変わることであり、地域文化の変容をももたらす可能性がある。もう一つは、藩の一元的な行政志向がもたらす地域への影響である。「家口米仕法」や「五升備米」制度に見られるように、そこには各地域の事情を考慮するというより、個々人の年齢などを基準とした政策が志向されている。ある意味で近代の政策に通ずるものであり、近世から近代にかけての地域を考えるうえで重要な視点と思われる。

 福井論文は、弘前藩における蘭学(蘭方医学)の受容について、主要な蘭方医の履歴をたどりながら概観したものである。松木明知氏らの先行研究を踏まえつつ、新たな知見を加えて、元禄期の佐々木宗寿、寛政期から幕末期にかけての高屋東助、三上隆圭、松野周策・好謙兄弟、唐牛昌運・昌考兄弟、佐々木元俊の八人の蘭方医が取り上げられている。佐々木宗寿は弘前藩における蘭学受容の先駆的存在で、長崎で栗崎道有らに五年間学びオランダ流外科医として活動した。その家系は近習医や表医者として幕末期まで続いているが、藩内でのオランダ流外科医術の広がりについては不明という。津軽福野田村(現北津軽郡板柳町福野田)の村医者、高屋東助は寛政四年に、藩医の三上隆圭は文化十年に、仙台藩医大槻玄沢が江戸に開いた日本初の蘭学塾芝蘭堂に入門している。三上隆圭は勤学登りによって江戸で学ぶことになり、在府の弘前藩医桐山正哲あたりの仲介で芝蘭堂に入門したとされるが、つてのない在村医の高屋についてはその入門の経過が不明とされている。この点が明らかにされることで、実質的な弘前藩における蘭学の受容を見出すことができるのではないだろうか。高屋は国元に帰った後も在村医として地域医療に貢献しており、難しい検証とはなろうが、高屋の医療知識・技術の地域的広がりをも視野に入れた蘭学受容の在り方が課題としてあげられよう。三上隆圭とともに勤学登りをし、杉田玄白の養子の伯玄に学び、さらに紀州和歌山の華岡青洲のもとで修行したのが松野周策である。周策はさらに修業期限を延長して京都の賀川金吾に賀川流産科を学んでいる。藩から費用をもらいながら、入門先はもちろん、高名な医者を求めての修行が自己の判断で一定程度可能であったことが知られる。しかも、修業期限の延長を藩から認められているのは、その修行の在り方自体が藩公認のものであったことを窺わせる。医学の知識や技術の交流が全国的なレベルで展開したのはこのことをがおそらく背景にあったのではないだろうか。ではなぜ藩はこのような措置を取ったのであろうか。周策の弟、好謙は、文化十四年に江戸で眼科医土生元碩に入門し、眼科皆伝となるが、この間、格別修行に励んだとして月々二人扶持、金百匹が支給され、修行期限も延期されている。つまり、領内に優秀な医師を確保したかったからである。当たり前のことのようだが、漢方医ではなかなか差が付きにくかった医療技術の差が、藩当局によって認識されうるようにまで、技術の進歩が見られるとともに、その情報が全国的に得られるようになっていたのである。福井氏によれば弘前藩が蘭学に目を向けた最初は、文政九年に佐々木玄冲に対して蘭学医道に必要な書籍筆写代などの経費を支出したことだという。蘭学の浸透が高屋東助以来の蘭学受容の流れの中でこのような対応を藩に取らせたのである。安政五年に幕府が将軍家定の危篤を契機に蘭方医の採用に踏み切ったことがこれに拍車をかけ、特に種痘の実施・普及が徐々に医師の技術を白日の下にさらすことになった。弘前藩の種痘取り入れは嘉永五年であるが、唐牛昌運・昌考兄弟がその推進者であった。唐牛兄弟が国元で活動しているとき、江戸で杉田成卿のもとで蘭学を学び、幕府から蕃書調所への出役要請を受けるほどの評価を受けていたのが佐々木元俊である。安政五年に設立されていた医学館(司監の一人に唐牛昌運がいた)の蘭学担当として文久元年に帰国し、翌年、その中に種痘館を設立するなど領内への種痘普及に積極的に取り組んでいる。医学館での修行は領内での医療行為の必要条件とされ、種痘の実施も種痘館での修行が要求された。ここに、領内の在村や浦々の医師たちが、医療知識・技術の習得のみならず、実践面においても蘭学を地域に根付かせていったのである。民衆レベルでの蘭学受容は「地域医療」の中に見いだせるのではないだろうか。福井氏の事例を思い切って以上のようにつなぎ、「地域」との関わりでとらえてみた次第である。なお、これらの取り上げた人物以外にも蘭学を学んだと思われる医師はたくさんいるようであるが、福井氏によれば、寛政以降の七人は「その活動が微妙につながっており、弘前藩における蘭学の流れが一応どのようなものであったかを我々に教えてくれる指標となっている」としている。微妙につながっていたとされるその「微妙なつながり」の在り方が蘭学受容の指標となるのであり、この点の明確化が今後の課題であろう。おそらく福井氏のいう「知の情報ネットワーク」の存在が鍵を握るのであろうが、他藩の例と突き合わせが必要であり、福井氏が関わっておられる国立歴史民俗博物館の「地域蘭学の総合的研究」の成果に負うところが大きい。そして、この場合の「地域蘭学」の捉え方の中に、受診者側をも取り込んだ「地域」設定が為されることを期待したい。 

  三

 次に、近現代の論考について紹介する。

 小岩論文は、青森県における明治二十二年の地価修正の実施過程を具体的に跡付け、そこで導かれる特質が、帝国議会開設後の地価修正反対運動と関連し、また運動をどのように規定しているかを考察したものである。地価修正の実施過程については研究蓄積が少ないことから、史料に語らせながら論を展開している。それによれば、地価修正の実施は法律の公布を受けて、青森県では県知事が各町村に対して地価修正の実施を伝え、また、次の配当手続きを決定して郡役所などに伝えている。そして、郡役所では県の指示を受けて、各町村に対して役場の協力を指示するとともに、実務についても細かい指示を出し、各町村はこれら指示にしたがって集落ごとに地価修正に関する協議書と誓約書を作成している。このような地価修正の実施過程を確認する中で、小岩氏は@地価修正は県の主導のもとに郡や村が指導し、行政による事業の組織化と支援が徹底されたこと、A地価修正は地主の利益に合致したものであり、その実施を担い、費用を負担したこと、を指摘している。そしてその特徴は、帝国議会後の地価修正反対運動にも継続してみられるとする。具体的には、行政主導・行政依存の運動、地主による費用負担等である。つまり、これまで地主的性格は費用負担の問題が生じた後に強まっていくとされてきたが、「地価修正反対運動は当初より地主的であり、それが直前の地価修正事業から継続した特徴である」と結論づけているのである。しかしながら、小岩氏のこの論理展開は、氏も述べておられるように、「地主の範囲の取り方」によって微妙に変わってくるのであり、「地主的性格」の意味する内容についても従来の議論におけるものとの違いなりを明確にしたうえで、地価修正事業や反対運動の一貫性が述べられなければならないのではないだろうか。ところで、小岩氏は本稿の最後で、地価修正実施直後に知事の交代(無神経事件による鍋島幹知事の転任)を県民(地主や旧士族を含む)が一致した運動で成し遂げたことをあげ、そのことが地価修正事業と反対運動における行政の一貫性を結果したとしている。県当局と県民との緊張関係を背景として、行政と運動が一体化する状況が生み出されたのであり、青森県という行政区画が、問題解決の場としての地域として県民に認識されたとものと考えることができるのではないだろうか。地域形成という点から重要な指摘である。

 沼田論文は、笹森儀助論構築にあたり、その基礎作業として、主として南島探検に関わっての中央政府の政治家たちとの関係や、南島探検に向かった儀助の行動の背景について検討したものである。沼田氏は、儀助と関係が認められる中央政治家として、特に関係の深かった品川弥次郎と佐々木高行のほか、井上馨・井上毅・野村靖・土方久元らを上げ、また、儀助と品川を結びつけた陸羯南についても言及している。それぞれの書簡類の読み込みを通じて、品川が儀助にとって政治上の指導者ともなっていたことや、品川や佐々木を通して他の政治家たちとの関係が生じたことが明らかにされている。ただし、これら政治家たちとの総合的な関係、あるいは彼らをとおして得た政府とのつながりが儀助の探検にどう「機能」したかについては、個々の関係の積み重ねからは見えてこないのであり、今後、儀助を取り巻く政治家以外の様々な人々との関わりをも視野に入れていく必要があろう。ところで、儀助は明治二十五年に千島探検に、翌二十六年に南島探検に出かけているが、沼田氏によれば、それは、明治二十三年に事実上公職を辞めた(捨てた)儀助が、この間に政治行政と帝国議会に失望しながらも「政治への断念の上に立つ選択として、しかもなお、国家・国益に対する疑いは一切抱かずに、自らの行動を展開」したものとしている。儀助の報告はその意味で極めて政治的で国家意識の強いものであり、また、政府から期待された内容をも含んでいたとしている。つまり、儀助の報告から当時の地域や民衆の有り様が、国政や国際状況が踏まえられて見えてくるということである。沼田氏はこの点を今後の課題としているが、この場合、沼田氏が儀助を「北方の人」とする際に考えた「北方」という視点が、あるいは意識がどのように儀助の報告や行動に表れているのかが明らかにされ、儀助における「北方」が抽出されれば、儀助論が地域論としても展開していくのではないだろうか。北方地域を見る眼は南方に、南方地域を見る眼は北方にあるのかもしれない。「地域を見る眼」を蓄積していくことは、地域を考えていくうえで重要な作業である。

 河西論文は、日清戦争前後から活発化する青森県の千島(北千島)移住開拓運動の分析を通して、近代東北民衆と東アジア世界の関係性を考えようとしたものである。この、近代における地域社会と国際社会の相互関連性を考えるという魅力的な視点は、出稼ぎ者と海外寄留人を「在外生活者」として統合的に捉えるところからきている。それは、近世の出稼ぎ構造を受け継ぐ近代の出稼ぎと、近代的な対外膨張に起因して増加する海外寄留人を統合することで、東北と東アジア世界を、「在外生活者」にとっての「共通の生活の場」として捉えることであり、そこに見られる東アジア認識や政治・経済・文化などへの関わりやあり方から、東北と東アジア世界との相互関連性を紡ぎ出そうとしたものと解釈される。したがってそこには「在外生活者」として、東北と東アジアを生活の場とした民衆の姿が見えてこなくてはならない。本稿はその前作業として、千島探検に赴いた真田太古・笹森儀助・豊田駒五郎・飯塚重蔵・葛西耕芳らの活動を紹介して、青森県と千島との関わりを示し、ついで民衆を送り出す運動体として結成された愛国義会と千島同盟会について分析を加えている。愛国義会は一八九三年四月、千島同盟会は同年六月に結成され、ともに、千島列島は北門の要所であるという点、青森県民は厳寒に慣れ、千島列島に最も近い県であり率先して移住と拓殖を担わなくてはならないという点などで、認識を共有している。基本的に同じ趣旨で設立されたわけだが、最も注目すべき相違点として、愛国義会の支援者が約三〇名であるのに対し、千島同盟会の支援者が四〇〇名にものぼっていたことが上げられている。県内各地域のリーダーが名を連ねているが、弘前と青森の商工業者の支援が活発だったのに比べ、近世に多くの出稼ぎ者を千島に送った下北郡は消極的であったことが知られる。下北においては地域振興が優先視されたことが背景にあったようであり、県内各地域の地域差が、河西氏の言う東アジア世界との相互関連性に、少なからず規定性をもつものと考えられる。愛国義会や千島同盟会の青森県認識などはあくまでも運動を展開するための自己認識なのであり、「在外生活者」の自己認識と同じとは言い切れない。これを探る方法は多々あるだろうが、「在外生活者」がどのような地域形成を行ったのかという視点からの検討も必要であろう。「在外生活者」=民衆レベルでの相互関連性が見いだせるのではないだろうか。「在外生活者」にとっての地域とは何かという視点は、冒頭に掲げた本書の目的に多くの点で迫りうる、重要な視点であると考える。

 中園論文は、昭和恐慌に起因する東北振興について、主に青森県の事例をもとに地方からの視点で分析を加え、東北振興問題が「東北地域」の枠組みの定着にどのように関係していたかを検討したものである。本書名の「東北」の成立と展開に東北振興から取り組んだものであり、本書を締めくくるにふさわしい論文である。まず、中園氏は、地方当局や諸団体が何を訴え、東北振興に何を求めたのかを取り上げることによって、国策としての東北振興を通じた中央と地方との関係を捕らえ直そうとした。地方における振興活動が国策としての東北振興に大きく影響したという視点である。政府が国策として東北振興を取り上げたのは、一九三四年に東北地方を襲った大凶作を契機として、同年に東北振興調査会を設置してからであるが、青森県の東北振興活動は、既に一九三一年の大凶作から始まっていた。その活動は、陳情や請願運動の形で広がりをみせ、公共団体のほか、産業団体や社会運動団体の活動も活発化した。青森県の事情は東北各県にも共通するものであり、また全国各地の匡救活動が大衆的運動の傾向を強めていたことを背景として、東北六県の知事や県会も連合して活動するようになっていった。これら活動を連合的・横断的に結集させ、東北振興の実現を図ったのが一九二七年に再結成された東北振興会であった。中園氏はこの東北振興会の活動が東北振興を国策とする政治的圧力となったとし、振興会の役割を積極的に評価している。東北振興調査会(後に内閣東北局)への陳情は、災害が続く青森県で特に徹底されていくが、このことは同時に当局依存体質を強めることとなった。中園氏は多くの陳情を整理し、@鉄道(青岩鉄道・青秋横断鉄道)の速成、A港湾(八戸・青森・大湊港)の整備、B十和田湖の開発、C国防上の開発(田名部−八戸縦貫産業道・大間鉄道・下北運河開削)にまとめている。いずれも、地域間を結ぶものであり、他地域との連携運動が展開されたが、同時に各地域の利害関係や各種事情が明確化され、連合体の離合集散も繰り返されるようになったことが指摘されている。東北振興が国策となる一方で、地域の行動と対応が異なる様相を見せ始めたわけである。しかし、このことは逆に、東北がまとまろうとしたときに、東北の特殊性なり共通性が一層強調されることとなり、東北六県という枠組みが意識され、定着していったとされる。つまり、これら陳情が六県当局の連合体のもであれ、個別に拡散した団体のもであれ、「東北」という枠組みの意識に大きく規定されていたのであり、東北振興問題は、その意味で「東北」の成立に大きく関わっていたのである。実際に開発・振興の対象になった地方からの視点は、地域の課題をどのように克服していくか、また将来の地域像をどう実現していくかという地域形成の問題と深く関わっている。メディアの問題や市町村合併、道州制など、今日的な問題へのアプローチも含め、地域社会論を模索する歴史研究者に、本稿は多くの課題を突きつけている。

 四

 以上、長きにわたった紹介であったが、各論文の内容それ自体が北奥羽地域の研究において新たな知見を提供するものであり、本書が取り組んだ「地域形成と社会」について、それぞれが極めて重要な視点から切り込んでいたことによるものである。本書のような試みは全国的に見れば決して初めてではないが、少なくとも、当該地域においては、北からの視点を掲げて北奥地域の解明をはかった長谷川成一編『北奥地域史の研究』(昭和六三年 名著出版)以来の試みであり、その地域認識を、その後の成果をふまえながら、確実に深化させたことは、これまでの紹介でおわかりいただけたのではないだろうか。

 ところで、郷土史、地方史、地域史の使い分けや、研究史上の整理については今更の感があるが、このうち、語尾に「形成」が付けられるのは「地域」しかない。本書の各論文から導かれる地域観も「地域形成」を強く意識したものであった。本書を通して「地域形成」を考えるとき、そこには、一つの課題、相対立する課題、複合的に絡み合う課題など様々な形で課題が見いだされ、それによって地域の範囲や地域形成の主体が変わってくることが理解できる。極言すれば「課題によって括られる空間」が地域史研究における「地域」であると言えよう。支配領域や行政区画が地域形成の根底にある場合もあれば、領主支配を有名無実化していく地域形成もある。各地域の人や物の移動などによって新たな地域が形成されたり、同心円状に地域課題が広がっていく場合もある。逆に、極めて狭い範囲の地域形成も見られる。文化や学問もまた地域形成の重要な要素であり、それ自体で地域を形成することもあり得るはずである。

 一方、地域形成の主体についても、支配・被支配を問わず、様々な階層が設定される。そのなかで生まれる領民意識や住民意識は、逆に他者の排除意識をも生み出していく。そしてそこでの離合集散が、また新たな地域を形成していくのである。

 本書には、右に上げたような地域形成の視点とその事例が、小さな村から東アジア世界までの空間的な広がりの中で、数多く論じられている。そして、これらの多くは今日的課題と深く関わっている。冒頭に掲げた本書における編者と執筆者の目標は十分達せられたのではないだろうか。少なくとも、私の「地域を見る眼」は、広がり、深まり、そして多様化したと感じている。

 最後になるが、「はしがき」にあるように、本書は編者である沼田哲氏の還暦を機に論集が企画され、刊行されたものである。ご承知のとおり、沼田氏は現在青山学院大学文学部に勤務されているが、前の職場は弘前大学人文学部であり、また、現在編纂中の『青森県史』の特別専門委員として県史編纂の助言・指導に当たられており、本県と大変関わりの深い方である。本書は、多くの関係者の中でも特に『青森県史』の編纂に関わっている、沼田氏の後輩や教え子、かつての同僚が中心となって執筆されたものであり、その意味では、北からの視点による『青森県史』のこれまでの研究成果を踏まえた論集でもある。もちろん本論集の成果は今後刊行される『青森県史』に活かされていくはずである。

 沼田先生には健康に留意され、本論集にとどまらず、今後とも本県の歴史研究に対して多くの指針を示していただきますよう、教え子の一人として心から願っております。
(たきもと・ひさふみ 青森県立郷土館主任学芸主査)


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