砂川 博編『一遍聖絵の総合的研究』
評者:宮島 新一
掲載誌:日本歴史662(2003.7)


 もともと絵画作品はあらゆる分野の研究者に開かれた存在であるが、とりわけ「一遍聖絵」はすっかり美術史研究者の手から歴史、民俗、宗教研究者へと渡ってしまったようだ。一遍聖絵研究会編『一遍聖絵と中世の光景』(ありな書房、一九九三年)、武田佐知子編『一遍聖絵を読み解く』(吉川弘文館、一九九九年)に続いて、新たに本書が出版された。

 実際手にとった人であればわかるであろうが、絵巻にはずっしりとした重みがある。持ち重りがするのである。本書の中のいくつかの論文は、これに解釈の重みを加えた、と言えるのではないだろうか。書名は、あらゆる角度から検討を加えたことを意味するはずだが、実際には一遍の宗教活動をどう理解するか、ということに焦点が合わされている。本書が他と違う意義を持つ根拠もそこにある。黒田日出男氏が着手して以来、「一遍聖絵」の研究は美術史研究者の手に余る段階に入っており、本書も評者が批評できる内容とはとうてい思われない。表題をそのまま素直に受け取って、引き受けてしまったのが実情である。

 巻頭に置かれた金井清光氏の「一遍の天王寺賦算と乞食」は、説かれているすべてが納得できるわけではないが、深く考え込ませる内容を備えている。一遍が貨幣経済を無視してはいなかったという指摘は例証もあげられており、その通りであろう。氏はそこからさらに考えを進めて、四天王寺へ向かう一遍に同行している超一、超二の尼形は、通例言われているような一遍の妻子ではなく、人を集め銭を稼ぐための女芸人母子だったと推測する。そうした観点の延長線上に立って、四天王寺西門ではじめて賦算する光景を解いている。
 そこでは一遍が「境外の乞食には札を与えていない」ことを指摘して、「賦算が見返りとしての喜捨を期待していたこと」、「不信・不浄の乞食には賦算札を与えない。与えようとしても受け入れられないことをこの絵ははっきり示している」と、断言している。なぜならば、乞食・非人には「明日の命はわからない。神仏などいくら信仰しても《腹のたしに》ならぬのだ」からだと、中世の乞食や非人には「近代人の善意」による解釈や「普通人の想像」がまったく通用しないことを力説する。自身の飢餓体験をも踏まえた意見の前には、黙って首を垂れるしかない。

 一遍は四天王寺で味わった無力感を抱えたまま熊野に向かった。そこで今度は「信・浄」の出家にすら拒絶され、思い悩んだ末に有名な権現の神託を受けるのである。四天王寺と熊野での体験は一遍の信仰にとって「連続した」重要な契機であった。その後一遍は、新宮から聖戒にあてた便りの中で「同行を放ち捨て」たことを伝えるとともに、賦算札に「決定往生六十万人」の八文字を加えた意義を説いている。これまで同行してきた超一、超二と念仏房らは、一遍が「他力本願」という信仰の核心をつかんだと同時に放ち捨てられたのである。逆に言えば、彼らは自力で生きるのに必要な存在だったことになる。芸人だったかどうかは分からないが、一遍が生活の「たずき」を彼らに負っていたことだけは確かであろう。

 金井氏はもう一編、「《一遍聖絵》に見る草履・草鞋と被差別民の草履作り」を寄せている。この内各も重い。まず、巻六の伊豆三島大社鳥居前の民家と玉垣の間の道に、二本の棒の先に草鞋がくくりつけられているのが見えるが、これは売り物ではなく民間信仰の事例をあげて「悪霊よけのまじない」であることを指摘する。そのうえで氏は、なぜ、草履にそうしたカがあると考えられてきたかを説きはじめる。「草履は被差別部落民の代名詞ともなる生業の基礎」ということから発して、「被差別身分の人たちの中に薬や医に従事する人がいた」実例に言及し、彼らが作る草履には「悪霊を退散させ、癩病さえも治癒させる特殊な呪カがある」と、信じられてきたことを明らかにしている。

 砂川博氏の「《医聖》としての一遍」もまた、金井氏の、一遍が「病をなおす験者として民衆に崇敬されていた」という見解を受けついだ一文である。時宗研究者の間では「天狗草子」の一遍を非難する著名な一場面、大勢の信者が病を癒す効力があると一遍の尿を求めて集まっている光景を現実のものとし、「尿療法が一遍の主たる事業の一つ」とみなす意見に集約されつつあるようだ。ここに「《浄不浄》を超越した存在」としての一遍を見る砂川氏の意見は、狂信者を揶揄する場面とのみ見なしてきた評者を反省させる。だが、一遍という「聖」を尊ぶあまりの民衆の行為に「尿療法」という言葉を付すのも、「近代人の善意」による解釈の一種ではないだろうか。門主が入ったあとの風呂水を競って戴いたという伝承と、どれほどの違いがあるのだろうか。

 高野修氏の「《一遍聖絵》もう一人の編者」も従来の、一般的な考えに変更を迫ろうとするものである。氏は「一遍聖絵」の絵詞を著わした聖戒の伝記『開山弥阿上人行状』を江戸時代の成立とし、「すでに指摘されていることであるが」としながら、偽作だとする。氏はとくにその根拠を示してはいないが、絵師である円伊に「土佐」姓を冠している点は、江戸時代に入ってからの文章であることを如実に示している。そうではあるが、採るべきところもあるとする氏の態度には同感である。氏は「一遍聖絵」と「遊行上人縁起絵」の詞書の間には、「てにをは」まで一致する文章が多数あることから、「遊行上人縁起絵」は「一遍聖絵」を参照したはずで、逆に、一遍とほとんど行動をともにしていない聖戒が「一遍の遊行を悉さに、みてきたような」のは、「真教からの教授があったと考えるのがもっとも自然であろう」としている。聖戒と真教とが対立関係にあったことを否定するだけではなく、さらに一歩進んで協力関係にあったとする見方は、絵巻の描写にもからんで興味深い。他阿真教が同行する以前に、一遍がたった一人で訪れた大隈正八幡の社景だけが、他と比べてきわめて描写が簡略な理由も、そう考えるとよく理解できる。

 本書にはこの他に、砂川博「踊り念仏論」、桜井好朗「中世神話と宗教−《一遍聖絵》における名号と入水−」、松尾恒一「《一遍聖絵》における一遍の社寺参詣」、梅谷繁樹「《一遍聖絵》本文の検討−六条道場本と御影堂本の比較から御影堂新善光寺の性格に及ぶ−」、古賀克彦「《一遍聖絵》と《遊行上人縁起絵》−特に〈丙本系〉の〈常称寺本〉〈遠山本〉と土佐派粉本を用いて−」など、五本の論文が収められている。

 すでにそれぞれの論文にふれる余裕はなくなっているが、中に美術史と同じ手法の論文があるので一言だけしておきたい。「御影堂本」を十四世紀末から十五世紀初めの作とする宮次男氏の見解は、画風の面からみて検討の余地がある。少なくとも「常称寺本」や「遠山本」よりは遡るであろう。美術史研究者の制作年代に関する見解は、それぞれに異なることが多いので注意を要する。
(みやじま・しんいち 九州国立博物館設立準備室総主幹)


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