工藤 威著『奥羽列藩同盟の基礎的研究』
評者:佐藤 良宣
掲載誌:弘前大学国史研究114(2003.3)


 戊辰戦争と言えば、東北人の痛恨事とよく言われる。そして、奥羽列藩同盟は、一般に、戊辰戦争のころ、会津藩・仙台藩をはじめとする奥羽諸藩が、薩長両津の牛耳る新政府軍と戦うために結ばれた、いわば攻守同盟であると考えられている。そして、この同盟の性格については、明治新政府の成立過程と関連づけられ、様々に解釈されてきた。

 しかし、本書は、列藩同盟に加わりながらも、主導的な立湯とは言えない、極めて地味な存在の、津軽藩の視点を取り入れた、列藩同盟像を示している。そこからは、会津藩での戦い等、軍事的な面が強調されがちな奥羽列藩同盟について、違った面が見えてくる。

 同書の概要は次のとおりである。

 著者は同音の序章で、「これまで列藩同盟の研究が史料に基づいた緻密な研究深化の方向に進んでいなかった」ため、「戊辰戦争期の津軽藩を中心とする東北諸藩の動向を明らかにし、さらに奥羽列藩同盟の実態を成立過程を中心に明確にすることを目的とする。」と同書の目的について言及している。その後、おおよそ編年的に、大政奉還から奥羽列藩同盟崩壊までを扱っている。

 津軽藩は、その当時の政治的動乱の中心であつた京都や江戸から遠く、中央政界で大きな影響力を発揮できるほどの実力を持たないため、開国以来、朝廷からも幕府からも距離を取っていた。当時、幕末動乱の中心地であった京都から遠い諸藩、特に東北では中央政界の表面的な状況しか分からないながら、薩長の動きに疑問を呈する向きが早い段階からあったこと、また、津軽藩のような小藩ではそのような動乱に積極的に関わろうという姿勢が乏しいことが、その後の演論の前提として指摘されている。津軽藩はいかなる事態にも対応できるよう、武備充実に励むという、いわば、「割拠」の姿勢を示していた。(序章〜第二章)
 明治元年三月、奥羽鎮撫総督が派遣される。その討伐の対象は会津藩・荘内藩とされるが、いずれも新政府軍として両藩を討伐するだけの大義名分に乏しく、応援を命じられた奥羽諸藩も戦音が高揚しない。

 このようななか、奥羽諸藩では総督軍の動きを受けて、秋田藩・仙台藩は奥羽諸藩に対して使者を派遣し、自藩の立場を示している。秋田藩は、平田国学の影響により、勤王派の力が強いため、早くから新政府軍寄りの立場を示している。これに対し、仙台藩は、新政府の会津・荘内藩、旧将軍家に対する裁きに疑問を呈し、干共に及ぶことを避け、公平な裁きを求める姿勢を示している。津軽藩は仙台藩のこの姿勢に対し、賛同の意向を示している。(第三章)

 会津藩は四月十日、荘内藩と同盟(会庄同盟)を結ぶ。仙台・米沢・会津藩は、会津藩の恭順謝罪嘆願の件について協議するが、会津藩は会庄同盟を盾に、総督府側に厳しい条件を訴え続ける。その後、この三藩は閏四月朔日から仙台藩領関で会議を行い、仙台・米沢両藩は、会津藩の嘆願成就を確約することでようやく会浄藩に首級差し出しを含む嘆願条件を認めさせた。仙台・米沢両藩の代表は、もし、この嘆願が認められない場合、「列藩同盟シテ、遂二大事二及」ぼうとするものであつた。(一七四頁)

 しかし、同じ時期の閏四月四日付に作成された「白石会議」の招請状にある案件は、会津藩の「降伏謝罪」問題であつた。同十一日に「白石会議」が開かれる。同日付で「諸藩家老副申書」が採択されて署名され、翌日仙台・米沢両津主が九条総督を妨ね、会津藩の謝罪・降伏を願い出ている。十一日の白石会嶺の位置づけについては、従来奥羽列藩同盟の成立、あるいは、新政府に対抗するなんらかの諸藩連合の成立の場と見られている。しかし、著者は会議に招請された二十七藩のうち十四藩のみの参加で、津軽藩・秋田藩をはじめとする諸藩がまだ到着していないことなどからこれを批判、「会津征討関連諸藩の協嶺によつて会津藩の救解をめざしたものであり、この会議に参集した諸藩の間に生まれた結合は、会津征討関連諸藩を中核とする「嘆願同盟」と認められるが、この「同盟」は未だ攻守同盟的な性格を持つまでには至っていない」(一八六頁)としている。(以上第四章)

 しかし、仙台藩は、同盟内の他の諸藩から独走するかたちでこの直後から反官軍的な動きを始める。同藩は藩境関門に薩長軍討伐を命じ、十五日には会津討伐軍を解兵する。(第五章)

 閏四月十八日、津軽・秋田両津の家老が白石に到着する。この白石会議での津軽・秋田洋の動向について、工藤氏は津軽・秋田・南部の三藩の史料を用い、日を追って整理している。同二十二日、「白石盟約」への調印がなされ、「白石同盟」が成立している。しかし、仙台藩によって起草された太政官への建白書が過激な内容のものであり、また、この盟約書では諸藩の軍事指揮権が仙台藩などの「大国」に握られるため、内容が改訂され、五月三日に本調印される。工藤氏は、これを「仙台同盟」と呼んでいる。この前後から会津藩もこの会議に参加している。(第八草)

 しかし、このとき仙台藩が米沢藩に知らせず藩境を封鎖してしまつたため、「奥羽列藩軍議書」に基づき、米沢藩は沢副総督を自藩の保護下に置くはずが、沢副総督への使者の到着に多くの時間を要し、副総督に疑惑を抱かせ、結局秋田への転陣を許してしまう。また、仙台在陣中の九条総督も、仙台藩の独断により秋田へ出立してしまい、仙台藩の同盟に対する指導力を減じてしまう。(第九章)

 沢副総督を受け入れた秋田藩は、このままでは仙台藩の侵攻のおそれがあるため、津軽藩への転陣を副総督に勧めた。これについて、工藤氏は、津軽入りについて、勘定方で重臣の佐藤英馬と人数頭の山崎所右衛門の動きを論じている。津軽藩は副総督の津軽入りを容認する姿勢であったが、「仙台同盟」成立の知らせを受け、津軽藩も仙台藩同様、藩境封鎖を行った。そして副総督自身は受け入れるものの、附属する兵士の入領を拒否することとなった。しかしここで、五月十九日、山崎所右衛門は津軽藩主に沢副総督の受け入れを諌言している。その後、津軽藩は藩境封鎖を解除している。(第一〇章)

 六月二十二日、津軽藩庁は同盟や官軍への対応など、今後の方針について諮問を行っている。佐藤英馬・山崎所右衛門両者ともどちらを支持するかか決めかねている様子がくみ取れる。佐藤は「両全の策はなし」として消極的ながら列藩同盟支持を示しているが、山崎らは藩主が自ら上京し、周旋を求めている。(第一一章)

 秋田藩庁は、沢副総督を能代から箱館へ出向させ、官軍を領内から出すことで事態を収拾しようとしていたが、藩内部に勤王派を多く抱えているため、領内潜在を認めざるを得ず、七月一日に九条総督・沢副総督が合流することになる。さらに秋田勤王派は、反対派の重臣を暗殺する動きを示しているが、総督府の影響で仙台藩の使者を暗殺することになり、これがきっかけで秋田藩の藩論は統一され、対庄内戦に参戦することになる。(第一二章)

 津軽藩でも、京都出役西館平馬が京都藩邸から帰還し、朝廷の令書と津軽家の宗家近衛家の親書を伝える。従来、この近衛家からの親書により津軽藩は官軍支持を決めた、とされているが、工藤氏は、それよりも少し前から藩主は官軍支持に傾いており、西館の帰還はそのような方向に藩士を説得するための最後の材料となったとしている。(第一三章)

 以上が概要である。上で取り上げたほかに、注目されるのは、基礎的な事項の詳細な分析である。第四章の補説では、仙台藩の家老但木土佐が閏四月十二日に福島での一揆を報告しているが、これは偽装であること、第五章四項では、「奥羽同盟列藩軍議書」の成立日について、第六章では会津藩恭順謝罪に関する嘆願書の却下日について、第七草では、世良下参謀から出された大山下参謀宛の書状について改竄の有無を論証している。また、第一四章では藤井徳行らが論じた『東北朝廷』の存在についてこれを否定している。工藤氏は、一貫して奥羽列藩同盟の非軍事的な側面やその中での仙台藩の独走と指導力不足、同盟内諸藩の会津・庄内討伐問題に関する温度差を論じている。

 本書は全体を通じ、東北をはじめとする各地の原史料を駆使し、極めて緻密な構造となっている。ともすれば、煩雑ともいえるが、通説を否定するためにはこのような詳細な分析が不可欠とも言える。これにより、各藩上層部と一般の藩士、あるいは、同盟の盟主仙台藩と同盟の主流から外れている秋田藩・津軽藩の態度の違いが極めて鮮明になっている。また、奥羽列藩同盟の役割が通常考えられているより大きいものではないということが同音が明らかにしているとも言える。
(さとう・よしのぶ 青森県環境生活部文化・スポーツ振興課県史編さん室主査)


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