菅原 壽清著『木曽御嶽信仰−宗教人類学的研究−』
評者:牧野 眞一
掲載誌:宗教研究336 77-1(2003.5)


 一 本書の主題と構成

 木曽御嶽信仰とは、長野県の霊峰木曽御嶽を対象とする信仰である。木曽御嶽は中世から近世に至るまで修験の山として存在し、登拝は重潔斎を経た宗教者に限られていた。それが江戸時代後期になると尾張の覚明、武蔵の普寛といった行者の登拝によって軽潔斎による民衆の登拝が可能となった。それから御嶽信仰は木曽周辺だけではなく、広くその信仰圏を広げたのである。そこに大きな力を発揮したのは、御嶽を民衆に開いた行者やその弟子たちであり、そこに御嶽信仰に独特な儀礼や祈祷法を継承させることになった。そうした宗教儀礼の一つが「御座」とか「御座立て」と称される神霊を憑依させるシャーマニスティックな儀礼である。本書は、この御座儀礼を中心にその周辺を含め宗教人類学的に分析したもので、著者の二五年間にわたる研究成果をまとめたものである。

 著者が木曽御嶽を研究対象として注目した理由について、「仏教と神道、あるいは仏教と民俗宗教との接点における、いわゆるシャーマニスティックな巫術的な呪術宗教的現象、また仏教の土着化の一過程や人々の信仰の実態など、この山の信仰形態をとらえていく上でも、さらにはわが国の宗教形態をとらえていく上でも、多くの有効な示唆をわれわれに与えてくれるものと思われたからである」(六頁)と述べている。そして御嶽信仰にみられる宗教現象を解明してゆくためにいくつかの視点を設定する。それは「主として行者の執行する呪術宗教的な憑依儀礼から、その儀礼が成り立つ木曽御嶽のコスモロジーを形成している神観念の体系、それらを具体的に表象して祀った山や講社の神殿や霊神場におけるパンテオンの象徴の体系、さらには儀礼を執行する中座と前座と呼ぶ行者と信者の人的組織の体系、そして『御座』と呼ぶ憑依儀礼の体系、これら諸要素によって構成された御嶽講、さらには御嶽信仰についての宗教人類学的な理解である」(八頁)と述べており、御座儀礼とその背景にあるコスモロジーの理解にとどまらず、最終的には御嶽信仰の総合的理解を目指していることがわかる。そして本書の構成(章立て)は次のようになっている。(中略)

 第一章から第四章までは、御嶽行者や御座儀礼とそれに関連する神観念に視点を注ぎ宗教人類学的視点をもって分析し、第五章以降は御嶽信仰の歴史的な展開を充分に考慮しつつ御座・霊神・講社などを取り上げて論を展開させている。

 二 御嶽行者と御座

 第一章ではある一つの講社を取り上げ、御嶽行者のライフヒストリーや修行過程を分析している。行者になるにはまず入信し、修行を経て「口開き」し、巫者化する。行者には神霊の乗り物となる中座と、神霊を統御して憑依を促す前座とに分かれるが、それぞれ修行も異なっていることが指摘されている。両行者に共通するのは「入信年齢が比較的高く一定していないこと」(四四頁)や、入信の動機が各自の苦悩の解消であることである。修行自体は両者とも最低三年は要する大変厳しいものであるが、特に中座修行は「意図的で非自発的な憑霊の訓練を積極的に繰り返していくことで、意識を無くした深い忘我状態と高神の降臨、長期にわたる御座の儀礼を行うことが可能になってくる」(三九頁)とされ、さらに中座は継続して厳しい修行を続けることになる。

 すなわち前座修行と比較すると中座修行の方が特殊な座法を会得しなければならず、より厳しいものであり、そうした修行を経ることにより中座はより有能な行者とされていることが示唆されている。これは限られた講社内の分析ではあるが、他の講社をみても中座修行が厳しく、中座としての行者が前座よりも優位とみる講社も少なくない。このことは一般にいわれる修験道の憑祈祷とは異なるが、著者は「行者の役割分担の違い、あるいは中座の果たす宗教的役割の違いなどによって生じてきたものと考えられる」(四〇頁)とし、さらに第二章で「中座はその修行過程において、意図的に非自発的な憑霊の技術を獲得することで、その能力を高め、御座の儀礼においてはその宗教的役割を十分に果たすなど、その内容にはよりましとは異なった諸点をみることができる」(五四頁)と指摘している。厳しい中座修行の解釈として当を得たものといえ、まさにこのことが、著者が中座を巫者的人物ととらえる所以であり、中座の非自発的憑霊と共に意識をコントロールしながら一人で行う独座を視野に入れるとき、修験道の憑祈祷とは異なる御嶽信仰の御座の特殊性が浮かび上がってくる。

 修行には、家業の合間に一人で行う「個人行」と、寒行・土用行など講社で行う「集団行」があり、それぞれ詳細な報告がある。中座・前座の両行者とも、それぞれ厳しい修行をしなければならない理由は「背後に高度に秩序付けられた明確な神観念に関する観念体系があって、修行と密接な関連を有していることによるものと思われる」(四八頁)とし、その神観念とは「大神←←諸神仏←←霊神といった三元的な神観念」(四八頁)であり、具体的な事例として、第二章では講社神殿の作りや神仏配置、御座に降臨する神霊、さらに第三章では山岳おける神仏配置などを視野に入れ御嶽のコスモロジーを明確化している。

 第二章では御座の儀礼過程について述べ、その中で中座と前座の役割について検討している。御座ではまず「大神」や「諸神仏」の範疇に入る神霊が降臨し、「総祓い」が行われ、その後、霊神が降臨し「個人祓い」が行われる。個人の「おうかがい」は機能的な神霊である霊神によってなされる。つまり御座は「御嶽の神観念の体系にそって神霊を降臨させ」(七〇頁)ることで成立する。事例の講社では、中座の忘我状態は三、四時間から五、六時間にもなるといい、かなりの長時間に渡ることが報告されている。前座は神霊の統御者としての役割を果たし、中座は「前座の助けをかりて深い忘我状態となり、意図的な非自発的憑霊を行うことで人格転換に至り、神霊自身となって宗教的役割を果たしている」(七五頁)のである。行者は、佐々木宏幹氏のシャーマンの類型(佐々木『シャーマニズムの人類学』弘文堂、一九八四年)から、前座は「霊感型」で「統御型」、中座は「憑入型」で「霊媒型」のシャーマンとしてとらえることができ、両者の役割分担の上で複合的な御座の儀礼が成立していると指摘する。さらに著者が注目するのは中座の優位性であり、すでに修行と関連させて述べているように、修験道の憑祈祷との相違を指摘し、その一因として講組織の発達をあげている。

 第三章では御嶽信仰での中心的な機能として「癒し」を分析する。まず木曽谷に伝承されてきた修験道系の文献資料を分析した後、特に癒しの儀礼として木曽谷の講社の事例を検討する。癒しの儀礼として護摩祈祷や湯花加持祈祷をとりあげ、火を聖なる火に変え、また自然物を聖なる呪物に変えることで、その呪力によって災厄を祓ったり防いだりしていることを指摘している。依頼内容でも多いのが病気であるが、御座で中座が果たす役割について著者は、「幣柱という呪具を用いて依頼者の依頼事を占うことと、占いの結果に基づいて祓いや飲むべき薬の指図、また符や札を作成して治病を行うことにある」(一〇九頁)と述べている。そしてそれが可能なのは「行者の厳しい修行によって獲得し、共有化された優れた神霊の力を行者が具現化できるから」(一一九頁)である。また治病儀礼は「主として情緒的な側面から当人の自然的治癒力を援助するかたちで機能している点」(同上)を指摘する。

 第四章では、御嶽信仰における神観念からくるコスモロジーを明らかにする。「自然的装置」(一二三頁)である御嶽を、さまざまな神霊が配置された「文化的装置」(同上)としてその空間構造をとらえている。そしてそこにも「大神ー諸神霊・神仏ー霊神といった三元的構造」(一三七頁)が指摘できるとし、それまで述べてきた神観念をさらに明確化している。

 このように著者は、行者、とりわけ中座の厳しい修行や御座儀礼の背後に、行者や信徒の間に共有されている神観念に関する観念体系を指摘しているのである。そしてそれは、信仰の根源である御嶽の空間構造にも明確に表れており、講社の重視する御嶽登拝の意味が解明されるのである。こうした著者の視点は、それまでの御嶽信仰の研究では重視されていなかったもので、新たな構造分析といえるものである。神観念は講社によって若干の相違はあるが、根底には著者が指摘する観念体系が一様に存在していることは確かであり、その意味でも御嶽信仰を理解する上での重要な指摘であったといえよう。

 三 御座の成立と霊神信仰

 第四章までは主に共時的な視点からの分析であったが、第五章からは歴史的な展開を考慮しつつ論を進めている。まず第五章の御座の成立過程では、御嶽開闢霊神とされる覚明行者、普寛行者とその弟子たちの動向と御座の伝承を検討し、御座がどのようにして成立普及したかを論じている。これまでの研究では、御座は木曽山伏が伝承してきた憑座が、御嶽講に取り入れられ継承されたとする見方が主としてあった。(生駒勘七『御嶽の歴史』木曽御嶽本教、一九六五年、宮田登「木曽御嶽信仰と御嶽講」『山と里の信仰史』吉川弘文館、一九九三年、など。)特に生駒氏は木曽山麓のある講社が、御座を立てることを「イチ座」と呼んでいることから、御嶽道者時代に存在した女性の「伊多道者」と関連づけている。これに関し著者は、「道者が御座立てを行っていたという実際の活動状況を示す資料が少ないこと、また上松の修験寺院に残るイチに関する伝承と御嶽の道者との関係を明らかにする確かな資料がみられないこと、さらに講組織の指導に当たったとされる順明行者などの行法が触れられていないことなど」(二九〇頁)をあげ、疑問を投げかけている。しかしながら、御座が在来的な道者の行法を核としたものか、または外来者の行法を核としたものかは確認困難であり、そこで累代の御嶽行者の行法を検証することでその変遷を検討する。その結果、「必ずしも初めから御座の座法が確立していたわけではなく、初期の行者は前座=中座であると同時に中座=前座でもあったといえ、その形式は一人で行う御座(独座)から、五行座などを経てしだいに現在みるような二人で行う御座へと移行していったものと考えられる」(一九五頁)とし、「道者以来の修行方法に加えて多くの外来者によって持ち込まれた修験の行法を中心に民間の行法などが加わり、その後の展開のなかで独特の行法を形成してきたというのが実態」(一九七頁)と結論づける。

 確かに覚明行者や普寛行者では、二人で執行する御座の伝承は明確ではなく、後の行者によって徐々に成立してきたことは事実であろう。著者が取り上げた明治期にウォルター・ウエストンやパシバル・ローエルが観察した御座は、中座と前座による近年の座法に近いものであり、行者の役割の流動性もみられるが、この頃ではすでに御座がほぼ成立していたとみることができる。ただ、ここで著者が報告する座法名、たとえば覚明の「一人片手加持」、順明の「天感感得法」、一心の「中座の位置替えの法」、一山の「感得の中座法」など、その形態については理解できるが、名称の来由やどの程度普及しているかなど少し説明が欲しいところである。なぜなら評者の御嶽講の調査では一心系の御座を「飛び座」と称している講社があったり、座法名まで継承している場合が少なかったからである。

 儀礼の成立過程を検証していくことは大変困難なことであり、一部の行者や講社の伝承をどう御嶽信仰の歴史的展開の中に位置付けていくかは残された課題となろう。いずれにせよ、御座についての記録された資料が少ない中で、行者や講社の伝承や、外国人の記録を資料とするなど御座の成立に強くアプローチしており興味深い。

 第六章では御嶽に祀られた外来の神について検討している。秩父の意波羅山・三峰山、上州の三笠山・武尊山、越後の八海山など普寛行者と縁のある山岳をとりあげ、御嶽信仰に与えた影響や取り込まれていく経緯を検証する。そして御嶽信仰が永続的な持続性を持って展開してきた要因として、「御嶽への信仰という中核とそれに加えて各地に御嶽と類似した信仰形態を形成してきたこと、また山への信仰に限らず普寛は三峰講のような講組織を展開し、人びとを組織化してきたこと、また富士信仰の興隆などとも相俟って展開してきたことなど」(二二八頁)をあげている。さらに、優れた行者を中座として、御座儀礼を執り行う宗教形態が人びとの間に支持されたことが大きな要因であったと指摘する。

 第七章では霊神信仰を「講集団が、特定の霊神と特別な関係を持ち、霊神碑を媒介としながら、それを儀礼の対象としているような信仰形態」(二四二頁)としてとらえている。礼拝対象となる霊神として祀られるには、行者として優れた能力の保持や人格的倫理的な条件が必要であり、「開山ー講祖ー行者の霊神」(二四七頁)といった三元的に階層化された霊神観の系列に加わることが可能となる。講社にとって霊神場への参拝は最も重要な儀礼とされ、そこでは供養儀礼と、「霊神との交流をはかるための交歓の儀礼」(二六九頁)としての御座儀礼が執り行われる。こうした霊神に対しての儀礼をみてゆくと、霊神信仰は「霊神という超自然的存在を霊神碑という具体的な聖なるものに象徴化することによって、共通の霊神観や儀礼を共有し、講組織のメンバーを結びつけ、聖なる共通の観念を構成してきた」(二七〇頁)とする。さらに講組織統合の原理の一つとして「霊神観をめぐって特別な関係が存在し、独自のコスモロジーが形成され」(二七一頁)ていることをあげ、そのような霊神観に基づいて建立された霊神碑をめぐって憑依儀礼が展開されている。そしてそのことは講集団の維持、発展に重要な役割を果たしていることを示唆している。

 第八章では御嶽信仰の歴史的展開と御嶽教団の現況をまとめた後、木曽・中部・関東地域における御嶽講社や霊場の展開を、詳細な調査を基に報告し、最後に御嶽信仰の広がりとバリエーションについてまとめている。特に御座の座法については地域差も見られ、関東は「比較的忘我状態が浅くて短い」(三三四頁)が、木曽川流域の講社では、「比較的忘我状態が深くて長い御座が多く見られ、依頼者の依頼事に応えてさまざまな儀礼が行われるなど、初期の御座の形態をよく伝えているように思われる」(同上)と指摘し、それは時代や地域性の上にそれぞれの信仰形態が保持されているからだとしている。

 このように著者は、御嶽信仰の展開の中で徐々に形式化されてきた御座の形態を明らかにし、神観念で重要な部分を占め、機能神として役割を果たす霊神の信仰を重視する。そして霊神に対する儀礼を検討し、講社に共有化された霊神観を浮かび上がらせることで、講社の統合といった御嶽信仰のあり方を明確にしているのである。
 
 四 おわりに

 これまで見てきたように、本書の中心は御座儀礼の宗教人類学的な構造分析といえる。その中から浮かび上がる神観念を祭壇・教会・山岳と空間的に拡大し、コスモロジーとして明示している。御座や行者の分析は、これまでのシャーマニズム研究の視座からとらえたものであるが、修験道の憑祈祷とは異なる中座の存在を強調した点で貴重である。さらに空間的な存在を時間的にも検討し、御座や、御嶽信仰に組み込まれた神霊の成立過程を丁寧にトレースしている。それにより共時的にみた行者や御座の分析に奥行きをもたせ、総合的にとらえることに成功している。特に本書によって、御嶽信仰の憑依儀礼をシャーマニズム研究の俎上に乗せたということは貴重な業績であると思う。

 本書によって木曽御嶽信仰の数多くの部分が明らかとなったが、さらなる課題も残されている。著者も最後にふれているが、他の憑祈祷との比較や、日本の憑霊文化における御嶽信仰の位置づけなど、大きな課題ではあるが、著者の今後の研究に期待したい。信仰形態としては、関東地方に多くみられる御嶽塚の存在も、富士信仰と関連させて検討していく必要がある。それは信仰対象の重層化といったことであるが、儀礼との関わりなども研究者に残されている課題といえよう。木曽御嶽信仰はその系統や講社によって多くのバリエーションがあり、儀礼や神観念の相違をどう処理していくかは難しい問題である。また、関東では一山行者の系統など御座儀礼の無い講社も少なくない。本書は御座を中心に論を進めているので視野からは少しずれるが、こうした御座のない信仰形態の検討も、木曽御嶽信仰の総合的な研究には必要となる。

 これまで木曽御嶽信仰の研究は、宗教学的視点から池上廣正氏(「長野県木曾の御嶽講」『宗教民俗学の研究』名著出版、一九九一年)、民俗学的には宮田登氏(前掲「木曽御嶽信仰と御嶽講」)、歴史学的には生駒勘七氏(前掲『御嶽の歴史』)、文化人類学的には青木保氏(『御岳巡礼』筑摩書房、一九八五年)などの業績があった。著者もこれらの研究をふまえ論を展開させているが、御座や行者を本格的に分析し、背後の神観念を描き出したことは新鮮である。また御座や、累代の行者、御嶽の神霊等の展開過程についても、これまでに報告されていなかった資料が数多く提示されている。上記の研究に宗教人類学的視点からの本書が加わり、御嶽信仰研究も新たな段階に入ったことを感じる。本書は木曽御嶽信仰の研究の上だけでなく、山岳信仰や憑霊信仰を理解する上でも欠くことのできない一冊となるであろう。


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