渡辺 尚志編『幕末維新期萩藩村落社会の変動』
評者:穐本 洋哉
掲載誌:社会経済史学69-1(2003.5)


 本書は,萩藩領のうち,瀬戸内海沿岸地域=小郡宰判の農業経営形態,地主制度,綿織物の流通,村落支配の実態の分析を通じ,幕末・維新期村落史像の再構築を目指した書である。周知のとおり,萩藩幕末・維新期の村落史に関してはすでに夥しい先行研究がある。そうした先行の業績に対して,本書は,特色の第1として,これまでの見解・論争(農民層分解論,商品生産の発展段階論,農村工業形態=マニュ論,天保大一揆と農民階層論,農兵隊論等々)にしばしば見受けられる単線的な「段階論」や「類型論」を排し,地域や村落間に存在する多様性を重視して,それらを総合的・複合的に捉える立場を強く打ち出そうとしている。第2の特色は,研究の力点を,この地域の豪農層の分析に置いていることにある。この時代,農村の経済変動や社会構造の変化,また,農村支配,村内農民階層間の対立,さらには村落間の庄屋同盟や農兵隊組織等の政治勢力の結集はいずれも,豪農層を基軸として展開していたと考えられる。豪農の集中分析は,幕末・維新期村落史像の構築という本書の主題に沿うものと言えよう。特色の第3は,新史料の利用を含め,実証分析に努めていることである。従来の研究でしばしば注目され,なお且つその評価が分かれていた小郡宰判上中郷の豪農林勇蔵家の性格規定に関し,同家の経営帳簿の分析を通じて経営の実態を解明したことはそうした実証分析の一つの成果であろう。
 本書は,序章と終章(ともに編者)および編者を含む5名の執筆による6つの本章から成る。第1篇(第1〜3章)では小郡宰判内に展開する生産および流通過程の分析が,また第2編(第4〜6章)では同宰判上中郷林家に焦点を当て,同家の地主経営,農村為政,林勇蔵の維新期における政治・社会意識の解明が試みられている。各章の要約をすれば,第1篇第1章(森下徹)で,小郡地区の綿織物業の分析を通じ,同一地区内においても,大坂市場に直結する藩の綿業編成・有力商人主導の綿替制とともにそれに対抗する中小綿屋による独自の生産と九州や地元の消費市場に結びついた販売経路があったことが論ぜられる。これら中小綿屋の中には,豪農(商)とは違って農業から離れて専業化するものも現れており,多様なこの時代の経済変化や社会階層を一般的な発展段階論で捉えることの難しさを伝えている。

 第2草(尾川弘)では,小郡宰判・岐波村の豪農部坂家の地主経営分析が示されている。同家の順調な手作地経営と諸種の現業・余業を取り込みながらの自小作・小作人層の安定的展開,また,幕末期の諸隊への馳走銀の献納や集義隊への資金の貸付けに見られる部坂家の為政者的側面等,分析は多岐にわたっている。事例数の少ない萩藩地主・豪農研究に新たな知見を加えるものとして貴重である。

 第3章(木郡和昭)は,大道村の豪農上田家の経営分析である。同家は50町歩を超える土地を所有手作地はわずかにすぎず,大半を貸付け地とするこの地区の「巨大」地主であった。また,酒造業,塩業を兼営,農業生産者的側面を有した岐波村部坂家(第2章)とは対照的なケースであったことが示される。従来,萩藩では,高率貢租のために大規模地主制の展開は低調と考えられてきた。上田家の事例分析は,そうした中で,農業生産力の上昇を背景に地主化への傾斜を辿るケースも存在していたこと,また,地主経営の規模や成長を規定する上で兼営部門(酒造業等)や地主が保持した金融機能が重要な役割を果たしていたことを明らかにした点でも意義深い。なお,上田家の場合,多額の米銀を献納して藩士身分の獲得を目指しており,その政治的方向性も部坂家や林家(第4章)とは大きく異なるものであった。

 後編では,先ず第4章(尾川弘)で,これまで明らかにされることがなかった上中郷豪農林家の経営実態が分析される。所有規模6町余の林家は,小作への貸付け地を増大させつつも,依然2町歩強の手作地の経営を安定的に展開させていた。田地でのこ毛作化や農事改良(輪作,種子選定等)に自ら努め,また,雇用労働力に対する貸金面での配慮(「心付」)や高額小作料の減免(「見合」)等,林家が直接生産者としての側面を色濃く接していた点が明らかにされる。小作人や「買喰」層との矛盾・対立の枠組みでは必ずしも捉えきれない豪農類型であったことが示されている。
 第5章(又野誠)は,天保一揆以降における上中郷の村入用,とくに定法化以外の費目(「足役貫」)の庄屋元による算用・徴収面での独自性の確立について論じたものである。増大する村落経費の庄屋元での自主的な算定と高持層への割り付けの公認は,一面では年貢徴収機構を基礎とした村役人層の村運営の裁量権強化を意味するとともに,他面においては,畔頭層や証人百姓,さらには頭百姓,高持層をも庄屋(豪農)を中心とする村落支配機構に組み込み,一揆後の村落支配に臨まざるを得ない藩側の目論みがあったことが明らかにされる。これまで触れられることの少なかった村財政,村落支配に焦点を当てた興味深い研究成果と言えよう。村落為政のこうした展開と幕末期にかけての農政面での藩による諸改革との関連も示唆的である。

 最終第6章(渡辺尚志)は,豪農林勇蔵の明治維新観・歴史観に迫ろうとする試みである。永年の野川治水工事にあたっての功績と明治10年代後半の野田神社資本金献金に対する尽力の2点を通じ,維新期に地域の利益,公金の実現のために邁進した勇蔵の姿−−それは,幕末・維新期に寄生地主化しつつも手作地主としての生産者的側面を依然残し,また,庄屋層として半ば藩の村落支配機構に組み込まれながらも下層農への配慮と村の利害の調整に当たる林勇蔵の豪農像(第4睾)に重なる−−を見事に浮き掘りにしている。

 本書は,まぎれもなく幕末・維新期「豪農論」である。農村経済の発展(農業生産性の上昇,綿織物業をはじめとする非農生産の拡大と商品流通の展開,市場経済化等),農村社会の変貌の最中の幕末・維新期にあって,豪農は常に変化の中枢にあり,また,変化の最大の体現者であった。政治的にも豪農は,村における末端の為政者として,激化する対立の調停者として,さらには萩藩の場合のように,農兵隊等への資金提供者として政治過程へ直接足を踏み入れもしている。豪農は移行期の経済史分析にとり常に興味をそそる研究テーマであり,これまでにも多くの研究が重ねられている所以である。

 ところで,経済分析の観点からは,「豪農論」は,大きく,@規模の経済性(農業経営,耕地整備)と,A情報の偏在性(農業技術,流通)の2つの問題に整理して論ずることができるように思われる。@は,豪農の農業経営(およびその変容)を,近世後半の土地賦存(高人口・土地比率)下,多肥・多労型で,品種改良と徹底した栽培・肥培管理を技術内容とする農法の一般化との関係において捉える,というものである。すなわち,豪農経営の存在形態やその変容(手作地経営の後退と小規模家族経営の標準化,小作への土地貸付けの一般化=「寄生」地主化)の問題を,規模中立的集約農法との関わりにおいて捉えるという技術論的観点を導入すること,である。規模の経済性の観点からは,逆に,在村の土地改良事業は,明治政府による耕地整理事業が本格化する以前にはなお規模のメリットが存在したと考えられ,それを豪農の重要な存立基盤として位置付けることができる。Aの情報の偏在性は,農業技術の豪農を含む上層農への集中,および商品作物や綿織物等工産物販売,さらには肥料購入等流通面における豪農の優位に見られる,情報の偏在もしくは独占が齎す利益を豪農の存立基盤として評価する,というものである。また,流通に限らず,諸種の情報キャッチの点において,村の為政者としての豪農の地位も重要な意味を持ったはずである。

 かかる視点に立つとき,本書の観察結果のいくつかは極めて示唆に富んだ内容を含むものと評価できよう。@の農業技術のタイプと農業経営規模の経済性に関して,平野部稲作地帯を中心に高度な集約農法がすでに確立を見ていたことは周知の如くである。小農経営が標準化,最適化する中,規模のメリットがほとんど期待できず,手作地経営部分の縮小と小作地増加への圧力は一段と強化されていたものと思われる。実際,2町5反の手作り地で実現する公課控除前の実収米(収量米−奉公人恩給米銀)がほぼ同規模の小作地から生ずる小作料を下回っていた天保12年の上中郷林家の事例(本書第4章)は,そうした点を裏付けている。その中で,豪農の存立基盤があるとすれば,それは農業生産それ自体よりもむしろ,なおスケール・メリットを享受できる農業生産の外辺部にあったのではあるまいか。この点で,第2の土地改良事業について,大道村の上田家,上中郷林家がともに干拓事業や治水工事に尽力あったという本書の分析結果(第3,6章)は示唆的である。地下の有力農による自力の「開作」,「普請」が頻繁であったことは天保期の史料『防長風土注進案』の記録からも明らかである。もっとも,近代に入り,耕地整備が国や府県主導で進められるようになるとともに(「水利組合条例」の公布,「河川法」や「耕地整理法」の制定),かかる豪農の優位さは急速に失われていったものと考えられる。次に,Aの情報の集中,遍在のうち農業技術に関しては,豪農は必ずしも老農ではないにせよ,「老農技術」をいち早く入手し,それを実現する立場にいたことは容易に想像される。岐波村の部坂家や上中郷林家が農事に深い関心を示していたことは本書第2,4章で明らかにされたとおりである。天保改革時に,同じ周防,大島宰判の代官が命じた農事に関する「御間下ケ」に在方の4人の農業功者が返答しているが,この「農業功者江御間下ケ十ケ條並二四組四人より御答書」を編集したのは,同宰判久賀村の庄屋であった。こうした技術格差も,しかしながら,耕地整備同様,政府・府県による農事普及指導体制(農区制の導入,農事講習所試,農学校の設立,防長米改良組合の創設米,群立農事試験場の開設穀検査強化,郡市町村農会の系統化)が確立する明治20〜30年代までに次第に平準化されていったものと思われる。他方,流通面に関しても,豪農(商)は,価格情報や需要独占者としての価格支配カにおいて,また資金面,さらには綿替制の実施者として優位な立場にあったことが考えられるが(この点につき,小郡・川西南部地区の新たな綿織物販売ルートを機軸とした中小綿屋の台頭と有力綿屋=豪農〔商〕との対比は第1章),大坂市場に直結し,また藩の綿業政策下にある特権的な流通,その末端に組み込まれた豪農層の村内における既存の地位を脅かす事例として興味深い。

 豪農の存在形態は多様であろう。豪農を取り巻く環境(土地賦存,技術的,社会・経済的もしくは政治的)の在り方と変化の程度が,全体としての豪農の後退とその中での各地域の多様性の背景に関わりを持っていたものと考える。今後,実証分析をさらに積み重ねるとともに,「特徴を異にする地域・経営を総体として把捉」する斬新な分析的枠組の提示にも期待したい。


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