澤登 寛聡編『農家調宝記』
評者:若尾 政希
掲載誌:古文書研究57(2003.5)


 澤登寛聡氏により、高井蘭山著『農家調宝記』がよみがえった。

 おそらく、この書物の名を開いてぴんとくる人は少ないのではないか。かくいう私もかつてうす暗い狩野文庫(東北大学附属図書館)の書庫のなかでこの書物を手にしてその丁を繰った記憶はあるが、本格的に全体を熟読したのは澤登編の本書によってはじめてであった。そして、著名な農学著大蔵永常の『除蝗録』(文化九年)、『豊嫁録』(文政九年)が、『農家調宝記』の附録、続録として売り出されることがあったほど、当時『農家調宝記』の需要があり売れに売れた書物であったということも、澤登氏の解題により教えられた。

 本書は、影印(一−二八〇頁)と解題「高井蘭山と『農家調宝記』」(二八一−三〇九頁)とからなる。底本は、澤登氏架蔵『農家調宝記』(「初編」〈文化六年刊〉、「嗣編」〈文化一四年刊〉、「続編」〈文政五年刊〉の三巻三冊)を用い、一部異版箇所を、国立国会図書館(白井文庫)本・内閣文庫所蔵本で補っている。解題をかいつまんで紹介しておけば、まず「一 高井蘭山の経歴と事蹟」では、蘭山が『絵本三国妖婦伝』を始めとする絵入読本の作者(戯作者)として著名であり、よって近世文学研究の側から蘭山研究が行われてきたとして、研究史をひもときつつ経歴と事実を紹介する。経歴は、幕府与力説や旗本の用人説があり未詳であるが子ども(高井鉄之助)が幕府与力(御家人)であったのは確実である。天保九年(一人三人)に享年七七歳で没したという。また、蘭山が作成した書物は、字書・節用集・漢詩・俳諧・異国情報・医学・養生・食事・書札・寺社縁起と参詣・商業・教訓・重宝記・読本・暦・法・往来・芸術・兵法など、多彩な分野にわたっており、まさしく雑学者というのに相応しい内容となっているという。「二 『農家調宝記』の製作と内容」は、『農家調宝記』の内容と、緒言や自序からわかる製作趣旨、そして書誌情報からなる。『農家調宝記』は、春夏秋冬の耕作次第、作物取り扱い、検地や年貢収納に関する事柄、勘定計算を速くする方法、願書・証文・手形などのひな形、婚礼の式の心得、等々、当時の人々が日常を暮らしていくうえで不可欠な経験的知識を満載している。しかも、漢字にはすべて平仮名の振仮名が振られ、誰にでも分かる通俗的な言葉と説明の仕方で綴られている。「蘭山の著述の趣旨は、江戸時代の身分制的法制度支配秩序の中で身分的・職分(家業・職業)的義務を守りながら暮らす人々に、士卒であり、都会人であり、殊に著述をもっぱらとする文化人としての立場から」、いかにして「日常的な生活知識を広めていくのか、という点に主眼があったといってよい」と、澤登氏は意義づける。

 解題の圧巻は、「おわりに」である。「普通の人々が持ち、また、持っているべき知識を、われわれは常識」と呼んでいる。江戸時代には、このような知識と思考を得ていくための書物として重宝記(調宝記)があり、「元禄時代を境として次第に多く出版されるようになっていった」。「重宝記によって、普通の人々が慣習や常識を口頭によって伝える時代から書物によって伝える時代への本格的な変動が開始されたといってもよい。この意味で重宝記は、当時の人々の読み書きの能力や日常的な常識」を「理解する能力としてのリテラシーの獲得に大きな役割を果たしたものと考えられる」。そして、「農家調宝記」も「出版文化の隆盛とともに、このような時代の潮流の中で誕生した書物であった」と、その歴史的意義を述べて解題の結びとしている。

 実は、私も近年、「社会通念・常識から時代を読む」という問題提起を行っている(たとえば拙著『「太平記読み」の時代』〈平凡社、一九九九〉、「近世の政治常識と諸主体の形成」〈『歴史学研究』七六八、青木書店、二〇〇二〉等)。だから澤登氏が、江戸時代の人々の常識形成という点に着目したことに、全面的に賛意を表するものである。そして、これまでまったく知られず埋もれていた『農家調宝記』を、−それが江戸時代人の常識形成に寄与した書物の一つであったとして−、掘り起こし現代に蘇生させたことを、高く評価したいと思う。

 とはいえ、称賛ばかりしていては、書評にはならないし、学問・研究の発展のためには批判も必要であろう。いくつか述べたい。第一に、『農家調宝記』の読者と読書の実態を知りたかった。版が摩滅するほど増刷され「嗣編」・「続編」まで刊行され、増刷・再刻を繰り返したことは、解題で述べられている。しかし具体的にどのような読者層にどのように読まれたのかについては、澤登氏は教えてくれない。江戸時代の書物の読者と読書の実態を調べることは大変な作業である(私も身をもって体験している)が、その具体的事例を一つだけでも紹介して欲しかった。常識形成への寄与をいうならば、なおさらその作業は不可欠であろう。第二に、元禄期以降多く出版された重宝記ものと、文化文政期の『農家調宝記』とを同一地平に捉えることは可能かという疑問がある。一七世紀末と一九世紀初めを、「時代の潮流」を同じくするとして、ひとくくりにすることができるのであろうか。一八世紀には、石門心学や国学が興り、それらが上層民衆の思想形成に関与するとともに、儒学もその層に本格的に受容されていった。また政治思想・文化の側面からいっても、宝暦・天明期を画期にして、その前後では、質が大きく異なっている。ひとまず、重宝記ものが元禄期以降に出てきたことの意義を明らかにし、続いて『農家調宝記』が文化文政期に作られ普及したことの歴史的意義を解明する。その上で初めて両者の関連を考究することができるであろう。

 第三に、『農家調宝記』がカバーする常識とはどのようなものか。その内容から、たんにリテラシーの獲得に止まるようには思えない。私自身は、これまで政治・社会思想レベルの常識、すなわち政治常識の形成を追ってきた。また小池淳一氏によれば、『大雑書』『東方朔秘伝置文』等の暦占書が民衆に受容され民俗になったという(「書き伝えの民俗」『信濃』六一二、二〇〇一、他)。このような民俗のレベルの常識もある。一口に常識といっても、さまざまなレベルがあり、もう少し説明が欲しい。これと関連して第四に、『農家調宝記』には、「諸役夫銭割の事」「田畑質入金子借用証文」「村内神社祭礼願書」「日用相場早割品々」等々、村落指導者層の実務能力に関わるものが多く見られる。これらの証文・願書や実務レベルの知識が、実際に活かされたかどうか、気になる。近年の地域社会論研究において、大庄屋等の社会的中間層の主体形成が問題となり、彼らの卓越した実務能力がいかにして獲得されたのか、その解明が望まれている。『農家調宝記』のような書物が果たした役割はないのか、注目されるのである。

 こうした批判は、澤登氏にはすでに織り込み済みのことかもしれない。むしろこういった研究が出てくることを期して、この書物を世に送り出したのであろう。ちょうど、小塙を執筆しているとき、ゼミの学生が、房総の国学者宮負定雄が、読むべき書物として『農家調宝記』を挙げているという報告をした。定雄は『農家調宝記』から何を学んだのか、とても興味を惹かれた。これも澤登編の本書のおかげである。

 本音は、岩田書院影印叢刊の第二巻である。初巻は、橋本萬平・小池淳一編『寛永九年版大ざつしよ』であった。『大雑書』は、塚本学氏が的確に指摘したように、江戸時代の人の常識形成に大きな役割を果たした(「江戸時代人の常識」『日本歴史』六二〇、二〇〇〇)。奇しくも、二巻目も江戸時代人の常識形成に深く関わる『農家調宝記』が収載された。今後も"常識"叢刊のリストが増えることを期待して、小稿を閉じたい。
(一橋大学大学院社会学研究科助教授)


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