古谷津 順郎著『つく舞考』
評者:橋本 裕之
掲載誌:民俗芸能研究35(2002.9)


 『つく舞考』を世に送り出して

 十年来の懸案だった故古谷津順郎の未発表原稿をようやく世に送り出すことができた。題して『つく舞考』(岩田書院、二〇〇二年)であ。古谷津は長らく詩人として、そして郷土史家として活動してきた。詩人古谷津順郎の成果は早く『古谷津順郎 詩と詩論』(中央公論美術出版、一九七九年)としてまとめられている。だが、郷土史家古谷津の成果は従来まったくといっていいくらい知られていなかった。しかも、古谷津はほぼ完成していたつく舞に関する研究を公表する機会を待たずして、平成四年(一九九二)十月二十六日に逝去したのであった。

 私は昭和五十六年(一九八一)六月三日、古谷津の未発表原稿に出会っている。柳田国男のご子息である柳田為正氏が所蔵しておられた原稿を実見する機会に恵まれたのである。以降、私はこの原稿を世に送り出すべく実務的な作業に従事してきたが、諸般の事情によつて十年もの歳月が経過してしまった。ご遺族に対して深くお詫びしたい。だが、結果として古谷津の所説を何度も読み返す機会を得たことは幸いであったともいえるかもしれない。その成果が巻末に付した長文の解説論文「つく舞の源流を求めて」である。古谷津はつく舞の語源に関して資料に立脚した興味深い創見を展開しているのみならず、今後つく舞の民俗学的研究や芸能史的研究を准進するための有益な手がかりをも少なからず提出している。私の解説論文はこうした所説を逐一検討して批判的に評価したものである。また、古谷津の未発表原稿に出会った経緯などについてもくわしく紹介している。

 ところで、『つく舞考』はもちろん古谷津じしんの成果であるが、同時に一般にあまり知られていない柳田国男の「つく舞に関する講演」も収録している。これは古谷津の意向でもあった。だが、古谷津は柳田の所説に触発されながらも鋭く対峙している。古谷津が柳田の所説に対峙する方法の重層性は『つく舞考』に仕掛けられた方法論的射程を反映しているということができるだろう。したがって、『つく舞考』はつく舞の民俗学的研究や芸能史的研究に貢献するのみならず、いわゆる柳田国男研究にとっても興味深い問題を提供しているはずである。

 私は『つく舞考』を刊行する計画を進行させる過程において、ご遺族に貸していただいた各種の資料を点検していった。そして、古谷津に作業中の原稿を見せられたある人物が投げかけた疑問に回答する古谷津の書状を発見した。その疑問はこうである。古谷津はつく舞が祇園会に結びついて神事化されていったものであると考えているが、そうだとしたら同系統の祭礼においてつく舞という名称が数多く残っていてもよさそうなものである。だが、実際は千葉や茨城に限ってこの名杯が伝えられているのはなぜだろうか──。私は完成した原稿において、つく舞が祇園会に結びついて神事化したというような趣旨の文章を見つけることはできなかった。古谷津がこの人物がしめした意見を聞き入れて文章を訂正したか、もしくはこの人物が古谷津の意図を汲み取りそこなったか、そのどちらかであろう。

 といっても、古谷津はつく舞が祇園系の恒例行事に限られていることを指摘して、つく舞が祇園神事における行事の名称であるという所説を提示している。この部分は私も解説論文において、性急にそう断定してもいいものだろうかと述べて、批判的な意見を提出した。こう書いてみたところで、『つく舞考』を見ていただかなければ何もはじまらないが、つく舞は私が知っている範囲でも、全国各地に分布するさまざまな祇園神事としてむしろ例外的であると思われる。ところが、古谷津は前述した書状において、その真意を説明すベく補足していたのである。ご遺族に了承してもらつていることを明言した上で、『つく舞考』を補足するためにも全文紹介しておきたい。

 つく舞が八坂系御霊会に結びついて神事化された、という表現は誤りで、御霊会の段階で結びついたのは、あくまで散楽系雑戯のなかの縁竿伎(尋橦)や綱渡りに類するもので、中世期において、この二つが結合してくも舞と呼ばれる以前には、つく舞という名称はなく、つく舞と呼ばれるようになったのは、くも舞以降の、それも近代の時期不明の時点からであり、現在、つく舞という呼称が残っているのは、千葉・茨城両県下の八坂系祭礼に限られているという事実があるだけです。しかし、守屋氏も指摘されているように『嬉遊笑覧』に江戸山王の祭礼には「つくまひをする猿の山しもの」が出たことが記載されており、また小野武雄氏による「蜘蛛舞は竿登りと綱渡りに曲芸を加えたもので、つく舞ともいう」点から考えると、つく舞という名称が千葉・茨城に限られたものでないことが明瞭ですが、なぜ、いまなお千葉・茨城だけに残されているか、いつ、くも舞が、この一部の地方でつく舞といわれるようになったか、については、私自身、今の段階では文献も発見できず、また解明もできないというのが真実で、残念であると思っています。

 古谷津は『つく舞考』においても、かなり重複する文章を書きつけている。だが、最後の感想だけは洩らしていない。「なぜ、いまなお千葉・茨城だけに残されているか、いつ、くも舞が、この一部の地方でつく舞といわれれるようになったか」は私にとっても最も知りたいところであるが、古谷津じしんそう考えていたはずである。したがって、最後の感想は古谷津が心中を率直に吐露したものであるということができるだろう。おそらく古谷津はつく舞の周辺を縦横に洗い出した原稿に『つく舞考』という名前を託しながらも、結局つく舞じたいに到着することはできなかったという感覚を持っていたのかもしれない。だが、それはむしろ私たち後学が古谷津の成果に触発されながら、あらためて挑戦しなければならない課題であると考えておきたい。

 『つく舞考』は幸いにも民俗学の書物を多数手がけてきた岩田書院によって刊行された。もしも岩田博氏に関心を持っていただけなかったら、古谷津の未発表原稿を世に送り出すという僥倖は得られなかったであろう。深く感謝したい。『つく舞考』が誰でも簡単に入手することができる書物(価格は二八〇〇円である)として一定の公共性を獲得した以上、古谷津の所説が民俗芸能研究の分野ですら知られることもなく埋もれてしまうことはもはや考えられないはずである。だからこそ特筆大書したいのだが、どうか古谷津が私たち後学に託した未発の課題を受け取ってほしい。偶然が重なって最初の評者という栄誉に浴したものとして、ご遺族に代わってお願いする。そして、最後に古谷津の冥福を祈りたい。
  

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