渡辺 尚志編『幕末維新期萩藩村落社会の変動
評者:友部 謙一
掲載誌:歴史評論637(2003.5)


 幕末維新期の萩藩は、数量経済史を志す者にとっても、たいへん重要な位置をしめている。序章にあるようにそこには「防長風土注進案」をつかった慶應グループ(西川俊作・穐本洋哉・石部祥子他)の研究がおおきくかかわっている。

 さて、序章での研究史紹介のスタイルであるが、特定のフレームワークに関する用語が頻出しすぎる。ともすると本書の各章の優れた実証論文の位置付けを不明確にする危険すらあるだろう。もうひと工夫あってもよかった。また、「注進案」データの不完全さに言及しているが(二三頁)、慶應グループの研究はそうしたデータだからこそ、生産関数をともなう推計作業をもちいて、領国内の市場メカニズムの浸透具合を「面」的な広がりとして把捉したのである。しかし、全体として本書は小郡宰判を中心にそこに位置する各町村や個別の商家などが相互に連関するなかで、地域外とも関係を維持しようとする市場志向型「地方」経済が醸成された過程をじつに説得的かつ具体的に描き出すことに成功している。

 本書に収められた個別論文を読むと、ローカルでマイクロな上質の研究がことのほか重要であることをあらためて感じさせられる。まさに歴史研究の醍醐味だろう。大坂市場価格と九州の地方市場の双方に敏感な登せ綿布問屋の諸相(第一章)、農業出精者の実際の耕作状況と小作の関係(同)、「豪農」経営下での地主小作間の小作料減免などのモラルエコノミー的な諸相(第二章)、土地生産力の上昇と農民作徳の増加や質地請戻し慣行(第三章)、個別農家での奉公人貸金の支払方法や小作経営の内容などの具体的記述(第四章)、「足役貫」「足役?」という村人用の具体的諸相(第五章)、一地域指導者によって作り上げられた歴史像をいかに理解すべきか(第六章)など、包括的なフレームワークを嘲り笑うかのごとく、さまざまな幕末維新史の主要テーマに、ローカル・ノリッジとしての「実相」から切り込んでいくスタンスはじつに清々しい。

 最後に、本書が今後の地域史・地方史研究に及ぼす影響について述べたい。ローカル・ノリッジについても「資(史)料の反証可能性」が保証されなくてはならない。本書で使われている史料はすべて、公的な機関で利用可能な文書である。ここでは「資(史)料の反証可能性」が十分に保証されているのである。地方史のモノグラフをみると、私蔵文書のように「資(史)料の反証可能性」が十分に保証されていない史料が大半を占めている研究にいまだに出会う。本書はこの点でも、今後の地方史モノグラフのベンチマークになるべきと考える。
(ともべ けんいち)


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