北原 かな子著『洋学受容と地方の近代 津軽東奥義塾を中心に
評者:田崎 哲郎
掲載誌:日本歴史659(2003.4)


 本書の内容は副題に示されている。同塾は寛政八年からの弘前藩藩校稽古館をうけた明治五年の弘前藩英学校を前身に、明治六年に私立として発足、明治三四年に市立に移管されるまで私立として続いた。本書はその前期を主に、開学時の様子、外国人教師とその教育、学生の海外留学の実態、離日後の外国人教師の日本紹介などを軸に検討している。

 第一章は現在の東奥義塾高校蔵の史料と先行研究などにより、創設時を対象に西洋的知識や教育がどのように同地方に入ったかを吟味する。学制発布時の文部省布達により、府県の官立学校の廃止が指令され、東奥義塾は私立外国語学校として始まるが、財政は旧藩主家からの寄附に依存するもので(ほとんどは外国人教師の費用に充てられた)、旧藩校的性格を持続していた。日本人教員は慶応義塾で学んだ者が主で、カリキュラムも慶応の影響が大きく、義塾の名からしてそうであった。数学を重視する点も倣っているが、これは丸山真男氏の福沢諭吉論を連想させる。坂井達朗氏によると(「幕末・明治初年の弘前藩と慶応義塾」『近代日本研究』一〇、一九九三年)、弘前藩と慶応の関係は深く、明治四年七月までに同藩から二七名が学んでいる。江戸へ留学した者の七分の一弱で、洋学関係者の四分の一ほどを占めている。このことから幕末からの同藩の修学動向の中で考えることも求められよう。慶応卒業生の明治前期の地方教育などへの影響は大きい。福沢を脱亜入欧などの論理から批判する論が強いが、これらの影響も視野に入れて論ずべさだろう。

 第二・三章は当初からいた外国人教師についてみる。第二章でウォルフ、マックレー、イングおよびイングの協力者(特に宗教面の)本多庸一について述べ、第三章で明治七年から一一年三月まで在任し、影響を与えたメソジスト派宣教師イングの仕事について記述する。ただし本多と思案橋事件の関係は決め手に欠けるようだ。

 明治一一年の『東奥義塾一覧』とイングの母枚メソジスト派のインディアナ・アズベリー大学のカクログを比較し、イング時代はカリキュラムをはじめ種々の面で同大に倣っていることを明らかにし、学習内容は同大の予科から大学二年程度のものだったという。「文学社会」と称し土曜日に行う「演説弁文章朗読」は、同大の「リテラリー ソサエティー」の導入であり、英語力の向上に大いに資したのみならず、演説・討論などでの政治的思想的研鑽は自由民権運動へと発展した。

  イングは本多の協力によりキリスト教の普及にも成果をあげ、去るまでに三五名が受洗したという。しかしこのことは藩主家からの助成による学校でもあり、強く批難を受けることにもなった。イング夫人の参加も得た女子教育は生徒数七〇、一〇〇名程で、明治八年から一五年まで続き、弘前の女子教育の先駆をなした。イングの後外国人教師は同じ大学の卒業生が二人続いたが、その後は中止された。

 明治一五、六年頃、旧弘前藩上層士族中心の保守派と、義塾教員が中心だったという自由民権派の政治的対立は、キリスト教批判と合わせて義塾に及び、旧藩主家からの助成は打切りとなり、財政な難も脱しえず、市立に移管、一つの幕が降りる。

 著者は自由民権とキリスト教は義塾の洋学受容の中核をなすものだったが、それゆえに弾圧を受けたところに地方の近代の困難さがあったとみている。

 第四章は義塾学生の米国留学の実状を在米史料を探索して追究する。明治一〇年、四人の学生がイングの出身校に留学した。弘前からの最初の海外留学だった。義塾に秀れた英語教師と宣教師を確保する目的で、イングは周到に事前連絡をして送り出した。三人は試験をパスして大学一年に、年少の一人は予科一年に入学した。明治六年に質の低さから官費留学が全廃された後、直接欧米の大学に入学できるようになるのは同八年からだが、それは開成学枚生徒以外では困難だった。義塾からの留学生は、義塾の水準を示すものだったことを強調している。

 それが大学での学業や地域での講演活動にも反映される様子を詳述している。明治一四年に帰国した後母校教師になるのは珍田捨己のみだったが、珍田も同一八年に佐藤愛磨(尚武養父)同様外務省に入る。珍田の四年間は大きな影響を与え、同じ大学への留学生が続いた。珍田・佐藤両人とも駐米大使になる。

 第五章はこれまであまり知られていなかったマックレーの帰国後の活動について記す。明治七年の弘前での数カ月を含め同人の在日は五年間だったが、帰国後の一八八六年に『日本からの書簡−日本での仕事と旅の思い出−』を出版した。大学生の主人公が友人に宛てた手紙の形をとっているが、在日中の記録に基づくものだった。その中の弘前城や義塾の具体的様子を貴重な史料として紹介している。彼はイングと異なり、語学学習の暗記を、中国式であると批判している。一八九五年から一九〇六年の間、ニューヨーク教育委員会主催の講演会で日本について話しをしており、著者はこの日米文化の交流を高く評価し、同人の再評価を求めている。この種の研究は乏しいので、著者の独壇場の感がある。

「結」では、第一節で「その後の東奥義塾」としてメソジスト派からみた義塾に言及しているが、これは義塾資料にはないものであり、一層の吟味が求められる。義塾から育った各方面の人材の数を明治末の資料からあげており、これも義塾の役割をみるためには広く検討されるべきところである。マックレーの本の中に八〇名の学生全員が侍の子だったとあるが、はたしてそうか、出身階層の問題も課題だろう。

 第二節では津軽の「洋学受容」のまとめとしてこれまでの要点をまとめ、その過程は「文明開化期におけるキリスト教受容の問題」(二四二頁)だったとしているが、これは著者のものであり、人材の輩出をみても、より一般的に同地方の中等教育成立史、西洋的知識の浸透過程としてみる必要もあろう。なお義塾が「あくまで官の援助によらず独自に近代化への道を切り開こうとしていた」(二四二頁)点は、現代にも通じるものがあるとしているのは共感できる。

 六〇頁以上になる巻末資料、参考文献は原文を含む丹念なものであり、今後の研究に役立つことだろう。

 文中イングが前任地の中国からつれてきていた中国人青年黄藩之に何カ所か触れている。黄は義塾で一緒に学ぶが、デクラメーションは一、二を争ったという。イングは自分の費用で留学させようとしたほどだった。同人のその後を知りたいところだ。黄は「The Mandarin of Central China」(二七四頁)を使っていたというのは、中国の南北の官語についての材料を提供するものかもしれない。なお訳文はこの部分を「中国中央部の標準中国語(北京官語)」(一五七頁)としているが、「(北京官語)」は疑問である。
(たさき・てつろう 愛知大学文学部教授)


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