長野 ふさ子著『女たちのちょっと昔』
評者:野村 敬子
掲載誌:女性と経験27(2002.12)


 著者は昭和四十年代から「国学院大学民俗文学研究会」会員として、口承文芸の聴き取り調査研究を続けておられる。本書を貫流する方法には、その軌跡が記憶される。話者との人間関係の構築、そこから滲み出る心情的な民俗伝承が著者の語り口で綴られる。民俗を全て網羅するというより、聴く主体としての著者の口承を記録する。読後の刺激は強い。「女たちの」と冠するタイトルが示す意図は第二部の論文で明確化される。第一部の浦安民俗が俄然気色ばむのだ。文化人類学やジェンダー論の今日的文脈も取り込んで、男が女に抱いた家庭幻想からの脱却を目論む。

 その意味では市町村が作る、所謂民俗誌と機柚を異にする。一見、穏やかでガラス絵を思わせる民俗事象に、周到な伏線を格ませて女たちのシステム解明へと向かうのである。(中略)これら本書の構成は第一部で著者の経験に無い、漁村民俗の聴き取りに驚きつつ歩む姿から出発して、第二部の論考に移行していく。その進展を具に記す「町・浦安」冒頭部分は感動的である。「遠い世界の出来事が次第次第に話のおもしろさに興じることができるようになり人が生活することの意味といったものに浦安を通して関心を深くすることができたように思え」、著者はそこで新しい世界を発見したのであった。都市では失われた共同体に寄せる明快な見地がある。すなわち、多様な単位を抱え、連動する小宇宙としての共同体を漁村・浦安に再発見し、近代の家庭がマイホームとして、小さく完結する思考への批判としている。そこではムラ全体で家をも包みこむ一つの世界を共有する秩序の存在に注目している。著者の視点はこれを共同体が男も女も含めた一つのシステムとして働く実態としてとらえ、差別とは異質のそれぞれの領分があったとする。著者の聴き耳に女たち「悲惨さ」や「惨めさ」が時代に関わる相対的な言葉として認識された結果である。

 聴き取りで、風聞と実態の「落差」を知り、ムラのシステムとして別々の領分確立へと対照的な世界観はないとしても、おばろげな独立ぐらいはと併存の思考を展開している。これらの問題は、著者も読者も今後、よほど心して取り組むことになろう。ケガレ言説は「女世間・男世間」が各自維持する質的な違いとして受け止め、その関係性が問題だとする興味深い視点がある。


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