松本 一夫著『東国守護の歴史的特質』
評者:峰岸 純夫
掲載誌:歴史学研究773(2003.3)


 本書は中世の東国守護についての総合的な研究である。まず序章で東国守護の研究史を総括し、研究の課題を設定している。すなわち、永原慶二・佐藤進一・勝守すみ・峰岸などの1970年以前の研究と、その後1980年以降の市村高男・山田邦明・岩崎学・小国浩寿の研究の特徴点と問題点を指摘し、東国守護の多様性を前提にして、@東国守護の類型化 A東国守護の歴史的特質の解明、B東国守護と鎌倉府との関係の解明、以上三点を課題とする。

 第1編「東国守護の淵源」は、1章「小山政光の立場」において、中世における下野守護小山氏の祖小山政光をとりあげ、守護の前提として下野支配の淵源となった諸関係を考察する。すなわち相伝の職とされる権大介職と押領使を分析し、両者は同一のもの(兼帯)として認識されていたことを指摘し、また知行分国主としての院との関係、律令官制の国司制との関係、公役・内裏大番役の勤仕などを分析し、それは平家家人として勤仕したものではないとしている。ここでは主として義江彰夫が提起している国衛守護人制を鎌倉期守護の前提として把握する説を批判している。また、下野における支配権を相対化し、宇都宮氏や藤姓足利氏などをその下部に包摂するものでなく、野木の宮合戦の動員も小山一族に限定され、それを超える部分は源頼朝の指令によって成されたと指摘しており、小山氏の権力の強大さを一義的に説く論者に対して批判を加えている。

 2章の「鎌倉初期における守護の類型化」では、「鎌倉期の多様な守護のあり方の整理が必要」という大山喬平、東国・西国と分類して東国は主に出陣の場合の守護の統率権がなく、東国守護は本領安堵的、西国は新恩給与的で、西国に守護制度の発達が見られたとする上横手雅敬の指摘をふまえて、a東国の守護の典型で「自然恩沢の守護人」といわれる小山・三浦・千葉三氏の有力在庁・守護と対比して、それ以外の東国守護、東国以外の西国守護の検討を行う。その桔果、西国守護は安堵型を基本とするが、梶原景時・土肥実平・比企朝宗らの広域守護人との権限の重層性が見られること、東国守護では、@安堵(追認)型(上総・遠江・駿河・甲斐・下野・相模・下総)、A新恩型(常陸・上野・信濃)、B幕府統治(武蔵・伊豆・甲斐・駿河、三浦氏滅亡後の相模)の三種に分類されると指摘している。総じて、守護の歴史性に目配りし、多様な守護の存在形態を事実に即して解明しようとする姿勢が見られる。

 第2編「下野守護小山氏」は、この論文の中核をなす下野守護小山氏に関する考察である。1章「南北朝期における小山氏の動向」では、小山秀朝が建武政権下で、守護・国司兼帯となり、北条時行の関東侵攻を武蔵女影原に迎撃して討死し、その跡をついだ朝氏(朝兼)も北畠顕家の奥州からの上格作戦を小山で防御して捕虜となり、同族の結城宗広の嘆願で助命されて以後、南朝・足利両軍に対して中立的な立場を取らざるを得なくなり、一族の小山五郎左右衛門秀政は南朝方に荷担し、弟の氏政は足利方に立っという複雑な政治状況を叙述する。この背景に、朝氏と足利方の高師冬との不和、後醍醐天皇皇子興良親王の小山入城、近衛経忠の藤家一揆の謀略などの状況が、先行研究を批判的に検討を加えながら叙述されている。これを受けて2章「小山氏の守護職権の特質」では、南北朝期に小山氏の守護職は改補されたという佐藤進一、在職説の市村高男、宇都宮氏との半国守護とする磯貝富士男などの諸説を検討する。まず佐藤説についてでは、高師直・仁木頼章の守護職在任の根拠とされる文書は、師直の河内・大和での合戦の軍事催促であったり、御料所足利荘に関する頼章の幕府執事権限に属するものとする磯貝説を援用して批判している。その一方で、磯貝の小山義政の半国守護説を批判している。磯貝が下野守=守護とし、小山・宇都宮氏とも下野守に補任されていることから半国守護とする主張に対して、下野の守護と守が不一致の事例をあげて、また宇都宮氏に対する棟別銭の徴集の鎌倉府の命令は、有力豪族の宇都宮氏が守護支配から相対的に自立し直接納入の慣行があったと理解し、磯貝の半国守護説が成立しないと主張している。補論「小山義政の乱に至る小山氏・宇都宮氏の関係では、小山・宇都宮両氏が婚姻関係によって協力関係を維持している反面、両氏の支配地域が下野に集中し、その支配領域も河内郡(思川・鬼怒川地域)や芳賀郡(大内荘)などで錯綜しており、これが紛争・内乱の原因となったと推定している。3章「小山義政の乱後における下野支配の特質」は、小山義政の乱後の下野の守護支配について言及したものである。ここでは、木戸法季を守護(守護代は木戸修理亮元連)とするか、上杉憲方を守護、守護代を木戸法季とするかで見解が分かれているが、木戸氏の出自や経歴(足利荘木戸郷が本拠地、足利氏根本被官、鎌倉府の近習・宿老)と諸史料の検討から木戸氏の守護支配を認定する。応永6(1399)年以降については、結城基光が守護(守護代水谷出羽入道聖棟)となるという。

 第3編「南北朝・室町前期の東南守護」は、下野以外の東国守護についての下野と比較する視点での個別研究である。T章「常陸国における守護及び旧族領主の存在形態では、佐竹氏は奥7郡を拠点にしているが、その他の5郡・2荘・小栗保などの地域は、大掾氏・小田氏の直接支配下にあり、佐竹氏の守護権限の及ぶ範囲を限定的に把握している。補論「上杉憲顕常陸分郡守護可能性──伊藤喜良説の再検討──」では、上杉憲顕が常陸分郡守護であったとする伊藤善良説を検討し、常陸合戦中の将軍執事(高師直)の高師冬・上杉憲顕宛の連行命令は、鎌倉府両執事宛と考えられるので、これをもって守護とすることはでさないと退けている。

 2章「千葉氏の下総支配の特質」では、下総の千葉氏を扱い、千葉氏庶家所領と併せて康永・貞治年間(14世紀第3四半期)千葉氏の侍所兼守護代の竹本氏の検討を行い、この支配体制は香取社領の横領をめぐる千葉氏本宗と庶流の争いである応安の大争論を契機に大きな転換を遂げることを指摘している。総じて庶家との関係で相対的に脆弱な守護権力であることを浮き彫りにしている。3章「甲斐守護についての二、三の問題」では不明な点の多い甲斐の武田氏を扱い、暦応・康永期に守護代高江左近大夫経兼の活動が見られ、この頃から守護武田信武の在職が確認されるとしている。4章「上総守護の任免状況とその背景」では上総について考察し、内乱初期の佐々木秀綱やその父道誉、千葉氏胤・世良田義政・大島直明などを経て、応安期に犬懸上杉朝房・氏憲(禅秀)が補任され、守護代千坂氏の活動が見られるとしている。上杉禅秀の乱後、上杉定頼と宇都宮持綱の半国守護を主張する説を史料に即して逐一検討し、結論として鎌倉公方足利持氏はいったん認めた宇都宮持綱の守護を撤回して上杉定頼に与えたので、宇都宮氏は幕府に訴訟し、両者併任の状況が一時出現したものと結論づけている。

 5章「伊豆守護代祐禅」では、伊豆について、守護代兼目代の祐禅なる人物を考察し、この人物が石塔義房・上杉重義2代の守護の元で伊豆北部の田方郡などで紛争の処理などに当っていたと述べている。ただし、この祐禅については吉井功児が伊東氏とするもののその根拠が不明確で特定できないとしている。6章「上杉氏の上野支配の特質」では上杉氏の上野支配を守護代長尾氏の活動と関連させて考察する。ここでの主要な論点は、観応の擾乱後に一時宇都宮氏綱に守護が交替し、上杉派の武士たちによる抵抗の状況を解明すること、および東上野の新田荘を根拠地とする伝統的豪族でかつ足利氏の一門でもある新田岩松氏が、どの程度の相対的自立性を有していたかという問題の解明で、この点に関しては下野における宇都宮氏とは異なり上杉氏の支配下にあるとする。

 7章「武蔵武士と守護」では武蔵について考察し、まず阿部哲人の研究、すなわち南北朝期の武蔵は鎌倉府の直轄の「御料国であり、末期の至徳年間(14世紀80年代)に至って守護・守護代の機構が成立するという見解に検討を加える。そのため、平安末・鎌倉期に遡って武蔵国の歴史的特質について考察し、「高家」といわれる秩父系氏族が武蔵国留守所惣検校職を掌握して指導的位置を保持し、その元で武蔵七党といわれる中小武士団の党的結合が存在したが、仁冶元(885)年以降は北条北條得宗家の支配下となり、全国の御家人中で武蔵御家人は量・質ともに重要な位置をしめる。これを引き継いだ足利尊氏は、内乱初期に腹心の高一族を守護に配置し武蔵武士の組織化に努力した。南北朝後期には、仁木頼章ついで畠山国清が守護となったと考えられるが畠山氏の守護在任は確認できない。畠山氏の没落後には鎌倉公方足利基氏は守護を置かず直接に管轄し運行使節に武蔵武士を登用している。基氏没後に関東管領上杉憲顕・能憲の守護支配となるが、氏満の直接支配が復活したらしく、上杉氏の本格的守護支配が定着するのは永徳3(1383)年以降であると指摘している。また、阿部氏の提起した郡使についても検討を加え、武蔵では守護使ではなく郡使が棟別銭の徴集を行っており、阿部氏の指摘する郡使の存在を認めつつも、守護使・郡使の併置を一般化するのではなく、守護権力の不安定な状況下で在地性の強い郡使を実状に応じて派遣したとしている。

 8章「安房守護と結城氏の補任」では、安房守護の結城氏について考察し、前史をなす鎌倉期については不明な点が多いが、三浦氏・和田氏・北条大彿氏などが想定される。南北朝期には斯波家長・高師直・高南宗継などの可能性が認められ、足利尊氏の直轄支配をはさんで上杉憲顕、さらに鎌倉府の直轄支配をはさんで応安2(1369)年〜至徳2(1385)年まで桔城直光の守護在任が確認され、鎌倉府は旧族大名の中でもっとも信頼する結城氏を重要な安房に配置したとしている。結城氏は下野佐野荘内杤本出身の杤本上野入道を守護代に任じその支配に当たらせたとしている。9章「相模守護の特質」では、佐藤進一・佐藤博信・田辺久子などによって成されている既往の研究を検討し、さらにその後に守護三浦氏の研究を深化させた山田邦明が、鎌倉府膝下の特殊性ゆえに、管国の武士の組織化が困難で支配領域が三浦半島南端部に限定されたという指摘を受けて、山城国の場合と同様に鎌倉府侍所を三浦氏が担当したことを中心に考察する。まず鎌倉期においては三浦氏が滅亡後、守護は不設置で侍所の所管となった。建武政権期には国司制復活の元で相模守の足利直義が権限を行使しているが、これは佐藤進一の指摘の通り鎌倉将軍府の直轄領支配と考えてよく、その後も室町幕府成立後も同様な初期鎌倉府の直轄領と考えられるとしている。観応2(1351)年に三浦高通の守護在職を示す史料が見られるが、その後観応の擾乱によって、足利直義あるいは足利尊氏の直轄支配となり、文和2(1353)年〜貞治2(1363)年の間は尊氏派の河越直重が守護に補任され、河越氏の滅亡後は三浦氏が復活する、という展開を明らかにしている。また相模国においては、鎌倉中は侍所、その他の地域は守護の検断権が行使されていると指摘している(遵行に関しては一括守護権限と推定)。ただし、軍勢催促に関しては、かならずしも守護がその権限を行使したとはいえないとしている(相模国の特殊性)。

 第4編「鎌倉府軍事体制と東国守護」は、鎌倉府の軍事体制と東国守護の関係を時期を追って考察する。1章「南北朝前期」では、漆原徹の「一門大将」の研究を検討しつつ、鎌倉府執事と守護の関係を考察する。建武政府の元で構成された関東に治安維持の役割を担う関東廂番六番の頭人のすべてが足利一門であり、それを継承した初期鎌倉府においては斯波家長が執事となり、家長や石塔・桃井などの足利一門の侍大将の活躍がみられる。これとは別に、下野の小山氏、常陸の佐竹氏が守護に補任されるが、その権限は一国内すべてに及ぶものではなく、また軍忠を賞する場合、侍大将と守護の両方から証判をもらうこ重証判制度が採用されていたと指摘している。この部分の花押による人物比定は優れた分析となっている。このような二重証判制度は高師冬(鎌倉府執事)の常陸合戦(北畠親房軍との戦い)のなかで解消され、師冬のもとに両権限と軍事指揮権が統括されて守護・国人を指揮して戦う体制が構築されたとしている。2章「南北朝後期」では、観応の擾乱に足利尊氏が宇都宮・河越・畠山三氏に支えられて勝利した後、この三氏を中心の関東の執事・守護の配置を行い支配体制を固めた(薩土垂山体制)。この体制の元で宇都宮・河越氏などの旧族守護の軍事指揮権が伸張したことを指摘している。

 最後の「終章」は、以上の検討をふまえた上で峰岸純夫の示した関東の地域区分に検討を加えている。峰岸は大きく利根川を境として東西に区分し、西の西上野・武蔵・相模・伊豆をB地域として、おおむね上杉氏の支配の元で中小の国人が一揆形態をとって存在する地域、東の東上野・下野・下総・上総・常陸は伝統的(旧族)豪族が根を下ろしその守護支配が行われるなど、異なった様相を示すことを主張している。これに検討を加え、相模・伊豆・上総について修正して、A地域(下野・常陸・下総)、Bl地域(上野・伊豆)、B2地域(相模・安房・武蔵・上総)に3区分している。B2は鎌倉公方の権力が強く及び、上杉氏の支配力が強い時期とその権力が排除された時期があることをも指摘している。また、「関東八屋形」と称せられる旧族領主は守護でなくとも自己の支配領域に関しては守護並の権限が与えられており、一見半国守護のような権限を行使することもあるが、半国守護とは認められないとする。国人一揆については、守護などの軍勢催促に応じた臨時的な軍団編成であり、恒常的な組織とは認められないと指摘している。守護代に関しては、上杉氏の場合は長尾・大石・寺尾氏などの守護にとって忠実度の高い国人を登用し、旧族守護の場合は一族やこれに準ずる国人を登用したとする。

 以上、この論文は南北朝期を中心とした関東の守護について、室町幕府・鎌倉府、および管国の国人支配との関係などを南北朝の諸段階に即して考察した実証論文であり、先行論文の徹底的な批判的検討の上に立って、慎重に自説を対置しており、その点ですぐれた内容となっている。とりわけ、1960年代に達成された佐藤進一『室町幕府守護制度の研究──南北朝期諸国守護沿革考証編──』(上巻、東京大学出版会、1967年)の成果とその後の研究の進展をふまえ、自説を展開したもので、現時点の達成を示している。その点では、東国守護の補任一覧表をつけて欲しかった。

 南北朝期の政治史研究においては、a初期鎌倉府の実質的不存在論(磯崎達朗説)、b下野小山氏の半国守護論(磯貝富士男説)、c関東の東西二つの地域論(峰岸説)などの、主張・論争点がある。これらについて松本論文は以下のような結論を対置している。aについては戦乱の中で権力としての確立は不十分ではあるが、その存在自身は否定できないこと、bについては一見半国守護のように見られる点はあるが、それは旧族領主の非守護を上部権力が特定の権限についてその既得権を認め、支配領域について守護並の権限を認めているからであるとする、cについては基本的に承認しつつもその不十分な点を指摘し地域区分の再編成を行っている。総じて松本氏の守護理解は、その権限を相対化して一国全体に及ばねばならないということを前提としていないという特徴を持っている。これらの指摘は、研究史上で重要な位置を占めると思う。また、史料操作、論証の手続などは手堅く、長年の研究蓄積が色濃くにじみでている。

 しかし、史料の遺存状況からやむを得ない面もあるが、各国守護の研究に精粗があり下野が中心で下総・常陸がこれに次いで充実しているが、その他の国については必ずしも十分で全面的でない観がする。下野については、もっとも重要な政治的事件と考えられる小山義政の乱の正面からの検討を欠いているので併せて今後の課題にして欲しいと思う。

 この論文の中で批判された私を含む各氏の反論を期待し、それによってさらに豊かな東国政治史研究の進展を期待したい。


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