吉川 祐子著『遠野昔話の民俗誌的研究』
評者:大石 泰夫
掲載誌:静岡県民俗学会誌23(2002.12)


 私が岩手県に住むようになって、早いもので十二年の歳月が流れた。岩手県に移るときには、もちろん柳田国男の『遠野物語』が頭の中にはあったが、『遠野物語』および遠野という地域を自らの研究対象にしようと考える意識はほとんどなかった。というのは、私自身が口承文芸研究とは遠いところにあったということもあるが、吉川氏も指摘するように「現在、昔話を好んで聞くのは、残念ながら記録を目的とした調査者や、聞くことそのものを楽しみとしている趣味の人々、そして教育目的の人々が大半である。」(二五九頁)という状況が大きな理由だった。また、吉川氏が詳述するように「罪作りな『遠野物語』」(第二編第四章参照)という現象が起こっていて、『遠野物語』の存在が自由な語りを制約しているということが実感できていたからである。つまり、私が囚われていたのは、「遠野で民俗調査をしても人々の生活が見えてこないのではないか」という先入観である。正直なところ、そうした観念を持って遠野という地域を眺めていたので、遠野で聞き書きをすることはほとんどなかった。

 しかし、本書を一読して、「遠野はこれほどまでにフィールドとしての可能性を持っていたのか」ということに驚かされた。第一篇第一章「遠野プロフィール」では昔話によって遠野の民俗世界を描き出し、それ以降第一篇では、白幡ミヨシという一人の話者の生き様を通して生業・人生儀礼・信仰そして口承文芸に至るまで、あらゆる民俗伝承を生き生きと描いていく。ここには項目主義によって整理された民俗誌をはるかに凌駕する正確さと現実性を持って読み手に遠野の民俗社会を突きつけてくる。また、そうした記述に盛り込まれた白幡ミヨシの昔話は、実に生活に密着した形で息づいているのである。従来からライフヒストリーを描くという記述の方法があるのだが、その軸に昔話を置きながら、さらに網羅的に記述していくという方法は、客観的な項目主義に基づいた民俗誌に比して記述のリアリティーという点で圧巻である。この吉川氏の方法は、ご本人自身「口承文芸民俗文化誌」と呼んでいるが(三二九頁)、口承文芸研究の在り方だけではなく、民俗誌の在り方としても評価されるべきであろう。

 第二編については、語りと記述、語りの生成と変容といった問題を、吉川氏の本来のテーマである宗教民俗学の視点を交えて論じた論文集となっており、最後に「遠野への提言」という章が置かれている。この提言は、本稿において私自身の問題として冒頭に述べたことと呼応している。これは遠野の人々に対する提言という形をとっているが、実はフィールドをこよなく愛し、大切にする吉川氏が、遠野研究を行ってきた研究者に対する厳しい批判の眼を向けていることに気付かされる。つまり『遠野物語』を発信源とする民俗の変容は、研究者によってもたらされたという側面があるということである。それは遠野の民俗世界をきちんと把握することなしに『遠野物静』を一人歩きさせてしまったということなのであって、岩手県に住む研究者として自戒を込めて重く受け止めたいと思う。


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