笹本 正治著『山に生きる―山村史の多様性を求めて―』
評者:米家 泰作
掲載誌:史林86-1(2003.1)


 日本史の研究者によって、「山に生きる」という題目と「山村史」という副題をもった本が刊行されるのは、まだ十年は先のことだろう。歴史地理学の立場から山村に関心をもつ評者は、つい最近までそう思っていた。そもそも「山村史」という言葉は、歴史地理学では用いられてはいるが、日本史の一分野として定着しているとは言えないものがある1。そのため笹本氏の「山村史」も、既成の「山村史」の学説史を継承するというよりは、歴史研究の現場から問題提起的に投げかけらたもの、という性格を帯びることになる。そこで本書評では、「山村史」という言葉に込められた著者の問題意識に注意して、読み進めていきたいと思う。笹本氏は、武田信玄や鋳物師研究にウェイトをおきながらも中世から現代におよぶ幅広い守備範囲を持ち、すでに一五冊以上の著書をもつ多作家でもある。その多くの著書のなかで、山村を中心にまとめられたの今回が初めてとなるが、著者にとって山村が二次的なテーマだったわけではない。むしろ本書からは、現代社会に生きる歴史研究者として、山村と向き合う意義を強く意識されていることが伝わってくる。

 最初に目次を掲げておこう。

 第一章 林業に生きる
 第一節 甲斐における近世初頭大鋸・杣制度の一考察 第二節 旧巨摩郡北山筋山中十二箇 村共有文書 第三節 敷島町と武田氏
 第二章 金山に生きる
 第一節 戦国時代から近世にかけての湯之奥金山 第二節 中世・近世の湯の奥金山関係年 表 第三節 門西家所蔵の金山関係を中心とした文書 第四節 武田氏と金山―古文書から見た金山衆
 第三章 交通運輸・商業に生きる
 第一節 九一色郷の成立について 第二節 近世九一色郷商人の展開概要
 第四章 山村の家伝記と芸能
 第一節 『熊谷家伝記』の成立 第二節 雪祭りと『熊谷家伝記』の村々 第三節 榑木踊りをめぐって
 第五章 山村の食文化
 第一節 戦国時代の甲斐の芋 第二節 大滝村の食文化 第三節 神戸堰
 山をめぐる諸問題―おわりにかえて―

 右のように、第一章から第五章までは各論的内容であり、最後の「山をめぐる諸問題」が総論的議論となる構成をもつ。本書の副題「山村史の多様性」のいう「多様性」に関して、まえがきには特に説明がないが、林業・鉱業・商業・芸能・食文化という章構成それ自体が、単一の生業や産業のみからでは理解しえない山村の多面性、つまりは多様性を物語っている。ただ、その事例の多くは、戦国期〜近世の甲斐国から選ばれており、第四章と第五章二節のみが信濃国となる。著者の意図は、全国から多様な事例を選び、さまざまな形の「山村史」のあり方を示す点にあるのではなく、比較的限定された事例から山村の性格を多面的に解き明す点にある。

 第一章「林業に生きる」は、山梨県敷島町を事例としている。その中心的な史料となるが、二節で翻刻・解説されている「旧巨摩郡北山筋山中十二箇村共有文書」である。これは、天正・文禄年間に「杣」・「大鋸」に与えられた諸役免除の「御黒印」と、その由緒を主張する関連文書を中心とする史料群で、近世初期の甲府城築城における職人の動員と組織化、さらに近世を通じて彼らが「御用職人」あるいは「御用杣」として特権を有したことを物語る。
著者はここから幾つかの指摘を行っている。その一つは、「山村の住民は杣や大鋸といった職人として位置付けられて材木伐採に動員され、地域の樹木を根こそぎ伐っていた」とされるように、近世初期に禿げ山化が進んだ木曾山に似た現象が、甲斐国北部にも生じたとの想定である。ただしその傍証として、現在の森林資源の貧弱さを挙げるだけではなく、史料的な検証も欲しいところである。

 二つ目は、職人の組織化が戦国大名武田氏の支配のもとですでに進んでおり、その遺制が近世に引き継がれたとみる仮説である。武田氏研究と職人研究というバックグラウンドをもつ笹本氏ならではの着眼点である2。著者は第三節では、武田氏時代の豪族や武田氏滅亡後の知行配分などから、戦国時代における山村の経済力は必ずしも低く認識されていたわけでなく、山村の人々もまた「武田氏権力の大きな担い手」であったと評価している。山村の多くは近世初期以前の状況が全く分からないところが一般的であるが、戦国時代史のなかに山村の存在感を浮かび上がらせた著者の手腕は、続く二章・三章とともに、本書の最大の特色となっている。
三点目として、近世における「御用杣」は、領主から見れば職人支配でありつつも、山村の側からみれば特権の源泉であり、宝暦年間に高掛かり三役の免除を嘆願する武器となったことが強調されている。それゆえにこそ「旧巨摩郡北山筋山中十二箇村共有文書」は、十二ヶ村の宝物として伝承されてきたという。評者は、主張の武器は異なるものの、増税に対抗すべく自ら特権地域として「由緒」を活用した山村の例を論じたことがあるが3、領主との交渉過程のなかで、山村地域としての性格と機能を強く意識し、その論理的活用を意図していくという、近世山村の指向性の一つがあるようにも考えられる。

 続いて、第二章「金山に生きる」では、富士山の西方に位置する湯之奥金山(山梨県下部町)に事例が移され、戦国期甲斐の金山の実態、とりわけ武田氏との関係が議論される。著者は第一章と同様に主要史料を翻刻・解説し(三節)、金山と金山衆の性格をめぐる通説の批判を行っている。その通説とは、戦国大名武田氏が甲斐国各地に直営金山を持ち、それが信玄の勢いを支えたと見るもので、湯之奥金山もその一つとして位置づけられ、地元の門西家が金山の「代官」を務めていたとされてきた。著者の批判は、その門西家文書の調査と丁寧な史料批判に基づくもので、通説とはかなり異なる戦国期金山の姿が浮かび上がってくる。

 著者はまず武田家朱印状などの文言から、湯之奥金山が武田氏の支配領域でなく穴山氏の支配下にあり、かつ穴山氏は湯之奥金山経営者を「職人」もしくは「名主」として位置づけていたと推測する。さらに四節では、他の金山の例にも目配りし、やはり武田家朱印状の書式や格式などに着目しつつ、戦国期甲斐の金山衆は武田氏の被官=武士ではなく、武田氏や穴山氏がむしろ彼らを保護する側にあったことを論じる。従って著者の結論は、戦国期の金山は「規模が小さく、領主の力を媒介としないで掘られた鉱山の方が多い」というもので、信玄の「隠し金山」という通説的イメージは、政治史から組み立てられていたに過ぎないとする。著者の議論が示唆しているのは、彼ら金山衆が戦国大名の支配からはかなり自由な職人あるいは経営者であったということである。

 また、金山の代官とみなされてきた湯之奥門西家の文書によれば、同家は「棟別諸役」を免除されつつ穴山氏に掌握された「山作」(林業)の棟梁だったという。なお三節の史料紹介では、狩猟や焼畑の実態を窺わせる史料が紹介されており、むしろ一六〜一七世紀の山村の多角的な生業のあり方をみる上で格好の素材と思われるが、残念ながら解説に止められているのが惜しい。

 第三章「交通運輸・商業に生きる」では、富士山の北東山麓に位置する九一色郷(山梨県上九一色村)を事例として、戦国期の九一色衆と近世期の九一色郷商人が検討される。本章のポイントは、第一章における諸役免除の「御黒印」と同じく、戦国末期〜近世初頭に支配とひきかえに領主から与えられた特権が、近世以降、地域の特権として重要な意義を帯びるという現象が見られることで、戦国大名と山村、その由緒の近世的展開という2点が問題とされることになる。
 まず著者は、森林に恵まれた九一色郷の起源を、柳田国男説を援用して木地屋の村だったと推測する。ただし著者が傍証とした近世の林産物には、轆轤を使用する椀物が見あたらないため、轆轤師としての木地屋が存在したのかどうかは判断しがたい4。ともあれ、林産物の生産・加工と甲府と駿河を結ぶ街道・中道の存在が戦国期のこの地域に強く影響したことは、武田氏が九一色衆に対して国境警備や「材木等奉公」、伝馬勤を求め、代わりに関所の自由通行や諸役免許を与えたことに窺える。彼ら九一色衆の性格については、従来「武士団」とする理解があったが、著者は第二章と同様に武田氏発給文書の書式と格式に着目し、武田氏の被官としての武士ではなく、「地域の名主層」であったと見る。

 そして武田氏滅亡に際して徳川方についた九一色衆は、「諸商売免許」の家康朱印状を獲得し、元禄年間以降、これを根拠として諸商売免許の鑑札を交付され、天保に至るまでの様々な訴訟でこの事実が持ち出されることになる。その一部についてはすでに研究があるが、第二節で笹本氏は精進区有文書と西湖区有文書を中心に一二の係争の概要をまず確認している。その上で、九一色郷商人の活動範囲を甲斐・駿河の両国としつつも、江戸伝馬町との争いに表れているようにもう少し広い範囲においても、駄賃稼ぎを行っていたことを指摘している。ただ、最初に鑑札を交付された元禄期の状況や九一色郷商人の内部組織など、多くの問題が課題として残されていると結ぶ。

 以上の三章では、林業・金山・流通という生業の違いはあるものの、いずれも戦国大名武田氏と甲斐国の山村地域との関係に焦点が当てられている。笹本氏の分析の特色は、かつて暗に前提とされていた武田氏による一方的な開発と支配という見方を退け、山村側の居住者を自立的な職人もしくは「名主層」として捉えなおし、彼らを保護し、掌握することが武田氏にとっても有益であった、という構図を提示する点にある。繰り返しになるが、戦国時代の山村の存在感を浮かび上がらせたという点で、笹本氏のアプローチは十分先駆的な意義をもつものと評価したい。ただ、戦国時代を研究のメインに据えておられる著者にとっては自明に過ぎるのであろうか、本書のいう「山村史」のなかでの戦国期の位置づけについて、著者の見解を提示して欲しかった。

 残る第四章・第五章は、戦国大名武田氏との関わりから離れ、事例も信濃と甲斐の両国から選ばれている。第四章「山村の家伝記と芸能」の舞台は信濃国の最南端(阿南町や天龍村)で、一節と二節では天龍村坂部の旧家、熊谷家の当主が明和年間に完成した『熊谷家伝記』の性格が論じられている。中世後期の山村形成に関わる記述をもつ『熊谷家伝記』は、民俗学や地理学で着目され、その内容がおおむね事実としてみなされてきたという経緯がある。対して笹本氏は、『熊谷家伝記』の虚構性をあばき、熊谷家の地位を高めるために由緒を脚色した「民衆文学」あるいは「歴史文学」として位置づける。その結果、『熊谷家伝記』にもとづいた中世山村像は再考を余儀なくされ、例えば評者は笹本氏の指摘を踏まえて、近世山村民が構想した落人開村伝説として捉え直す作業を行った5。この視点をさらに進めれば、近世山村における中世の「由緒」という点で、本書第一章や第三章とも視角が重なる所が出てくると思われるが、笹本氏が二節・三節で注目していくのは、虚構性の強い「文学」ではなく、それよりも「地域の中世末の歴史が凝縮された形で示されている」祭りである。

 南信濃から奥三河にかけての山間部は、花祭り(奥三河一帯)、冬祭り(天龍村坂部)や雪祭り(阿南町新野)、霜月祭り(南信濃村)といった神楽と舞を伴う中世的な祭礼がよく知られており、民俗学や芸能史からの研究蓄積も厚い。二節で笹本氏が歴史学者として着目するのは、『熊谷家伝記』が敢えて誤った記述を行っている雪祭りの成り立ちであり、雪祭りのなかに代参者という形で登場する中世末の領主が、本来の祭りの起源を示唆すると見る。ただしここでは概説に傾斜した内容となり、祭りの形態についても現状の紹介が中心となっている。それに対して三節では、長野県泰阜村の榑木踊りの様式や文言の分析に踏み込み、本来は念仏踊りであったものが、近世前期のこの地域の特色であった榑木年貢と結びつけられたものと推測している。

 山村に中世的な芸能が伝わっているケースは少なくない。笹本氏が意識したように、単に民俗芸能の記録に終わるのでなく、間接的にでせよ歴史的事実に迫ろうとするアプローチは、十分に意義あるものと評者は思う6。ただ、祭りの様式や所作の詳細、社会的な位置づけそれ自体は不変のものではない。そこから祭りの変容についてもある程度の推測は可能であるが、祭りの歴史的変化それ自体を実証的に復原するのが困難であることが、一つの壁となって立ちはだかっている。

 最後の章、第五章「山村の食文化」は、三つの地域を取り上げる。第一節「戦国時代の甲斐の芋」で著者が検討するのは、戦国期の富士北麓の状況を伝えるとされる『妙法寺記』にあらわれる作物、特にサトイモである。『妙法寺記』が触れた作物として頻度が高いのは、大麦・小麦・粟・稗とともに芋であり、中世後期の他の記録例、例えば『庭訓往来』や『色部氏年中行事』と比較すれば、明らかに畑作地帯の特色が出ており、食生活の地域差が表れていると著者は指摘する。また興味深いことに、物価や年貢としての言及が多い米・麦・粟・稗とは対照的に、芋についてはそのような言及がないという。ここから著者は、サトイモが保存しにくく、流通に不適であり、年貢としても重要視されない民衆の作物であったことを推測している。

 第二節「大滝村の食文化」は、御嶽山の南麓、長野県木曽郡大滝村の伝統的食文化を概観し、近世の諸記録でその実態を確認したものである。著者は、食物の種類が多く、堅果食や昆虫食を含めた採取と畑作物の比重の大きい食文化として位置づけた上で、このような食文化を低く見る価値観を批判して結ばれている。全く同感であるが、近世の紀行文か地誌がこのような食文化を記録として留めたのは、そこに珍しさや貧困を見出したからであることを考えれば、食文化をめぐる価値観それ自体が歴史的に根深く形成されたものであることにも気づく。

 第三節「神戸堰」は、第一章が事例とした敷島町の神戸における天保年間の用水建造のあらましを復原したものである。近世山村における水田開発は決して珍しい現象ではないが、著者はそこに「林業は一段低く、米生産は一段高い」といった価値観が村民の意識に影響したことを推測している。
 
 以上が各論だとすれば、最後に置かれた「山をめぐる諸問題」が山村に対する方法論を総説する役割を果たしている。ここで著者は、山村を研究する際のテーマを次のように列挙している。林業、交通運輸業、職人、商人・市・町、鉱業、音(例えば山寺の鐘の音)、芸能、災害、信仰、山城と山小屋、戦国大名権力、生活(家伝記や食生活)、自治体史。これらは、おおむね著者の関心の広がる順に並べられているが、全体として広いパースペクティヴを構成している。これはそのまま山村のもつ多面的な性格と複合的な経営のあり方、そして開かれた流通経済を反映するものであることを著者は強調し、例えば焼畑という一つの側面だけから捉えることはできないと言う。全く同感であり、多様な生業、開かれた流通という点では、地理学の山村論と共通の認識を持っているといってよい。

 ただ、この稿は、信州大学での日本民俗学会の大会講演であったためか、山村の多面性と経済力を強調するあまりに、山村の歴史的展開や甲信以外の地域への言及が弱く、総花的な議論となった憾みがある。繰り返しになるが、「山村史」という視座からみて本書のなかで最も独自性が高いのは、甲斐国に限定されてはいるが、戦国期の山村、とくに戦国大名と山村との関係性に明確に焦点を当てた点だと評者は思う。この時代への著者のこだわりは、『熊谷家伝記』や祭り、サトイモの検討にも表れているところである。また、若干は示唆されているが、時代を通じての流通経済の発展が山村の生業に与える影響について言及が弱いまま、多様性ばかりが強調されていることも気になる。戦国期から近世全体のおよぶ著者の視野からは、生業の多様性それ自体がどのように変化をとげるか、必ず問題となってくる筈である。

 右の研究上の方法論を別として評者が強い印象を受けたのは、研究者の社会的意義をめぐる著者の主張である。笹本氏のお生まれは、第一章や第五章三節の舞台となった山梨県敷島町であり、「山に生きる私の父のような、山の民が歴史に果たした役割を確認しよう」という問題意識があったという。いわば自己のルーツとして山村史に取り組む姿勢であり、これが、現代山村社会のための研究を希求する姿勢へとつながっているよう拝察される。そのことは、山村の現地における講演が収録されている(一章三節・二章四節・五章二節)ことにも見て取れる。これらは、山村という地域の歴史的アイデンティティを、その地域とともに確認し、描いていく作業といってもよい。『山に生きる』という、一見、歴史学らしからぬ書名は、その表れでもあろう。評者にとっても、多くの宿題を与えてくれた一冊となった。(愛知県立大学文学部助教授 愛知県長久手町熊張茨ヶ廻間一五二二―三―A二〇一)


1 白水智「文献史学と山村研究」日本史学集録一九、一九九六。米家泰作「前近代日本の山村をめぐる三つの視角とその再検討」人文地理四九―六、一九九七(拙著『中・近世山村の景観と構造』校倉書房、二〇〇二、に所収)。
2 笹本正治『戦国大名と職人』吉川弘文館、一九八八。同『戦国大名武田氏の信濃支配』名著出版、一九九〇。同『戦国大名武田氏の研究』思文閣出版、一九九三、など。
3 米家泰作「近世大和国吉野川上流域における『由緒』と自立的中世山村像の展開」地理学評論七一―七、一九九八。前掲拙著に所収。
4 近世のいわゆる氏子狩においても、当地域の木地屋は検出されていないようである。永源寺町史編さん委員会『永源寺町史 木地師編』二〇〇一。
5 米家泰作「『熊谷家伝記』にみる開発定住と空間占有」史林八〇―一、一九九七。前掲拙著に所収。
6 藤田佳久は奥三河の入り混じり村の形成と花祭りの関係を示唆している。藤田佳久『奥三河山村の形成と林野』名著出版、一九九二。また、秋葉弘太郎「遠山土佐守伝承と霜月祭り」信濃四五―九、一九九三、は祭りの解釈それ自体の変容を論じている。


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