八木康幸著『民俗村落の空間構造』
評者・市川秀之 掲載紙 日本民俗学218(99.5)

民俗学の研究者が空間という言葉を多用しはじめたころ、地理学では主観的な空間に対する関心が高まっていた。この人文(人間)主義的地理学と呼ばれる地理学のある種の革命によって、地理学者の中には民俗に関心を示すものが増えたが、民俗学における空間研究は、もっぱら世界観研究と空間の静止的なモデル化に向かい、人文主義的地理学に対する関心はそれほど強くはならなかった。八木康幸はこのようなふたつの学問の流れのなかで、その境界領域に身を置き、研究を進めてきた研究者である。このほど岩田書院から刊行された『民俗村落の空間構造』はこれまでの八木の論文のうち村落空間と墓制を対象にしたものを収録したものである。内容は以下のとおり。(目次省略)
このうち第三章や第四章、第七章など、初出論文の発表以来、民俗学の研究者にもよく読まれその影響も大きいものもあるが、大学の紀要などに発表され手にしにくい論考が多く、このような形で一冊の本に収録されたことは今後の空間研究に益するところが大きい。八木が本書の緒言や第十章で述べているように、地理学と民俗学はほとんど同じ対象を扱いながら互いに学問的刺激を与えあうことは稀であった。本書に収められた八木の一連の研究が、現在停滞ぎみの空間研究に与える影響は大きいものがあろう。以下、若干の私見をまじえながら本書の内容を章ごとに紹介していきたい。なお緒言は空間研究について、また第十章は地理学と民俗学の関連についてそれぞれ研究の流れを述べたものであるため、本書評の対象には含めなかった。
第一章から第三章までは特定の村落を選択し、その空間の構成原理を叙述したモノグラフである。第一章では五島列島福江島の大川原集落がとりあげられている。この集落はその中央を走る道によって二分され多分に双分的な性格をもつ。当地の生業、隠居慣行、本分家関係(分家はバッケと呼ばれる)、親族組織、年令集団などについての八木の叙述は詳細をきわめる。ついで祭祀、年中行事の様子が説明される。このような詳細な叙述が何を明らかにするのか。この論考においては八木の視点は近年の変化にと向かう。大川原では家レベルや年齢集団レベルでの行事が消滅していく一方で、村レベルでの行事は維持されているという。八木はこのような動向を、大川原の分節化しない空間の構成と関連づけながら論じる。著者の関心は明らかに空間と社会の関係にあるが、そこに近年の変化という時間軸を導入することによって、その関係を明確化しようとする。
第二章では同じく福江島の幾久山集落の正月綱引行事が取り上げられる。綱引行事が二元的な社会組織を前提にすることはおそらくは調査以前から予想されたことであろう。しかしながら八木氏の綱引行事やそれをとりまくさまざまな社会組織についての分析はそのような予想を安易に肯定しない。同地の綱引行事は上方(アタマ)を男性が引き、下方(ネ)を女性が引くなど、行事の全体を男性優位が貫徹しているように見える。しかし過去の例では女性が勝利することが多いなど、その優劣の関係は必ずしも固定的なものではない。また綱引行事以外の鬼火たきなどの行事では、行事ごとに集落が二分されるが、この分割法は行事によって異なるという。このように八木の分析はこの研究の前提になったと思われる双分的な社会というイメージを頑固にも思えるほどに拒もうとする。フィールドでの分厚い叙述を重視し、主体を考慮しない安易なモデル化を拒むことはこの著作を貫徹する八木の基本姿勢である。そこに八○年代以降の民俗学の空間論に対する強い批判が感じられる。
第三章において、八木の方向性は明確に示される。この章では滋賀県信楽町宮尻の宮座が取り上げられるが、そこでの八木のモノグラフの最終的な目的は、空間の象徴レベルでの分析に置かれている。本書のなかでもとりわけ注目される論考といえよう。八木は同地の宮座の儀礼・組織のなかでも右と左の問題に着目する。右と左については人類学での研究の蓄積があり、人文主義的地理学の立場からはトウアン(1)などの論考がある。右と左の問題は身体性に深くかかわり、左右に分割される祭祀組織を持つ社会では、当然のことながら双分制の存在、あるいは一方の優劣の存在が想定できる。八木の基本的な視点は先にも述べたように空間と社会の関係に注がれるが、ことに象徴空間への関心が強く示される。宮座と社会組織に関する叙述は、他の論考と比較してもさらに詳細である。宮尻は大きく野尻と桶井に分けられる。野尻の住民は大座と和田座、桶井の住民が桶座に加入し、それぞれの宮座がさらに左右に分けられている。そして宮座儀礼においては順序や配列の面で右座の優越が強く表現されている。このような宮座内での構成原理をふまえた上で、八木の分析は宮座と関連した社会組織全体に向 かう。そこでは上と下という二分秩序が示され、上→右、下→左という対応関係も明らかになる。宮尻においては宮座内のみならずそれをとりまく全体社会において、右と左という双分制、および右の左に対する優越という構成原理はほぼ貫徹しているかのようである。しかしこの論考においてもこのような予定調和的な結論を八木は簡単には容認しない。一見優越と思われる右方が劣性に点じる事例をいくつか示し、そこに均衡化の論理を見いだそうとしている。ここには先にも述べたように空間の安易なモデル化を避け、村落空間の各局面において象徴レベルでの構成原理を求めようとする八木の基本的な姿勢がみられる。モノグラフの叙述から一般化に転じる際、象徴レベルでの分析へと向けられる視線には構造主義人類学の強い影響が感じられる。
しかしながら第三章については、詳細な事例の叙述と象徴論に立脚する結論の間にいささか不安定なものを感じざるをえない。恐らくそれはこの章で扱われた宮座という題材の歴史的な性格に由来するものと思われる。八木の視点が宮座あるいは村落の歴史性に向けられていないのは明らかである。そのような立場を認めた上でなお、宮座のように深い歴史性をもつ対象には歴史的考察が不可欠なこともまた確かであろう。たとえば八木の叙述を読むかぎり野尻と桶井は近世以来一村をなし、ともに大宮神社を祭祀しながらも、互いの宮座の性格には大きな差が見られる。たとえば宮年寄という宮座内の役職は、野尻の大座や和田座では特定の家で世襲されるのに対して、桶井の桶座では年齢順に選ばれている。また山の神や地蔵などの祭祀も別々に行われているという。本書からの情報によるがぎりでも、この二つの地区はかつては独立した村としての性格を有していたことが予想される。あるいはともに独立した村の神を保有し宮座を形成していた可能性も否定できないだろう。このような村落の歴史性は当然現在の宮座儀礼や社会組織にも大きな影響を与えていると考えられる。しかしながら八木の考察は 宮座および村落の歴史には注がれず、現状の調査から宮座の構成原理を説明することのみに注がれている。ふたつの地区の宮座の性格の違いは、現状の宮座の分析がいかに詳細をきわめたものであっても、それを明らかにすることのできない問題である。歴史的に形成されたものは歴史的な解明を待たざるをえないだろう。象徴レベルでの分析の重要性は十分認めながらも、その結論にやや不安を覚えるのはこのような歴史的視点が本章にやや不足するためであろう。
第四章は柳田国男の『石神問答』以来、民俗学が深い関心を抱き続けてきた境界空間の問題に真っ向から対峙した論考である。八木は境界空間での祭祀装置や信仰対象物への拘泥が、境界空間自体への本質的な解明を遠ざけていると述べ、場の性格にかかわる包括的な「境の場所」という概念を提示する。「境の場所」の性格の分析に八木が援用するのは大貫恵美子のアノマリー(あいまいさ)の理論である。八木は「境の場所」を空間のアノマリーとして把握する。大貫はアノマリーを五つの類型にわけて説明するが、八木はこれを整理し、複数のカテゴリーにかかわり属性を特定できないものと、どのカテゴリーにも含まれず属性を欠くものの二つを空間のアノマリーとして示している。このような理論的準備はもちろん八木が指向する空間の象微レベルでの分析に向けてのものである。「境の場所」に対する以上のような理解に立って、八木の叙述は境界でのさまざまな民俗事象の説明へと転じるが、とりわけ重要なのは地蔵や勧請縄などのイコン化した祭祀対象は象徴化過程の最終段階のものであると述べられている点であろう。民俗学における境界空間の研究は決して少なくないが、いずれも信仰対象 物など表象の叙述、分析にとどまり、境界空間の特性を摘出するまでにはいたっていない。その意味で第四章は今後の研究に大きな示唆を与える。
これまで述べてきた各章においても八木の論考が全体として民俗学の立場からの空間研究に対する痛烈な批判を形成していることは明らかである。第五章の冒頭でこの批判は強く表現されている。福田アジオが三重の同心円モデルを提唱して以来、それに沿った形で多くのモノグラフが提出され、一様に村落空間のモデル化が試みられてきた。これらの研究を八木は二次元モデルへの依存、異質なレベルでの分類の無前提な組み合わせと批判する。このような研究史の理解については評者もほぼ同感であり、その克服にむけてささやかな試みを続けてはいるものの、同じ場所をグルグルとまわり続ける迷子のような状態にとどまっている。最大の問題は社会と空間が構築するさまざまな位相を統合するための理論の欠如であろう。
八木は本書において空間論の目的が実態レベルでのモデル化ではなく、より抽象度の高いレベルでの分割原理の解明にあることを繰り返し提唱する。そのひとつの事例は先に紹介した第三章に示されているが、このような八木の言説によって示される空間の分類は、当然のようにこれまでの民俗学が追求してきた村落空間自体の分類とはまったく異質なものとなる。八木は村落空間内のささやかなスケールにおいても「境の場所」は存在すると述ベ、その一つの例として滋賀県湖北の菅浦における葬式道や惣門などを取り上げる。ここでは場所の問題が儀礼などの時間との関係で述べられている。民俗学ではハレ―ケの関係などが時間論の中だけで議論されてきており、一方で空間研究は時間の概念を欠落した静止的で平板なレベルのモデル化にとどまっている。その意味である空間が特別な時間に場所化するという八木が示した視点は今後の民俗学にとっても非常に重要な意味を持つ。静止的なモデルに満足してきた民俗学の空間研究も、時間軸を導入することによってあらたな局面が開かれる可能性がある。「場所」概念がその際には一つのキーワードとなる。
第六章では場所としての道が取り上げられる。滋賀県守山市木浜では「旧道」と呼ばれる道があり、葬式などの特別な時だけに使用されている。このような特別な道を八木は儀礼の道としてとらえる。特別な時間に対応して、同じ道の利用が繰り返されるという点では、先の時間に対応して場所化するという八木の視点が再び示されたものといえる。儀礼の道の機能について八木はまず告知をあげる。また道に面する家が一つの社会集団を形成しているという指摘も重要であろう。このような機能面での儀礼の道のとらえ方を超えて、八木が注目するのは儀礼の道の存在の前提としての超越的な現実の存在である。この点において儀礼の道は機能的側面に加えて、象徴空間としての性格を与えられることとなる。
第六章までの論考では詳細な調査に基づきフィールドの空間の象徴レベルでの構成原理が述べられているが、ある地点における空間構成の秩序を他の地域のそれといかに比較し、より高次の一般化へと向かうのかについては明確に示されていない。個別化の一方で全体をどう描くのかは、八木のみならず空間研究にかかわる者すべての共通の課題となるだろう。
第七章から第九章までは、兵庫県淡路島の墓制を扱った論考である。墓制の研究は数多いが、これらの論考は地理学的な分布論を基本とした方法面で特色を持つ。第七章では淡路島中部の村落墓地の悉皆調査を基本にしている。八木は当地の墓制を両墓制完全型、両墓制隣接型、両墓制不完全型、単墓制完全型、単墓制不完全型の五類型にわけ、その分布を論じる。八木の分類のうち両墓制完全型、両墓制隣接型、単墓制完全型などは新谷尚紀が『両墓制と他界観』(2)で示した分類と重なるが、両墓不完全型は墓地内で埋め墓と詣り墓が混在している状態、また不完全単墓制は埋葬場所の直上に石塔などを建てるものと、少し石塔がずれているものが混在している状態を指している。これは村落内における墓制のばらつきを重視した類型の設定であり、フィールドの実情に即した類型といえる。八木はこのような墓制のほか、墓地の呼称や墓地の形態などの分布を論じているが、墓地の形態や呼称が集落の立地に対応しているという指摘は重要であろう。つまり小墓地を持つ集落は内陸山間部に立地するものや新田集落であり、また共同埋葬地を持つ集落は平野部や海岸近くに所在しているという傾向がみられ るのである。しかしながら地理的な考察でありながら、集落と墓地の位置関係などの点に触れられていないのはやや残念である。また八木は埋め墓が集落単位で設置されるのに対して、詣り墓に石塔をたてる習俗の背景に強い家意識を想定し、両者に相反する性格を認める。さらに先にあげた墓制の各類型の分布と変遷に関する考察も興味深い。八木の分布図によると淡路島中部では近世に城が置かれ最大の都市であった洲本を中心に、完全単墓制の地域が広がり、洲本から離れるほど完全両墓制の分布が濃厚になっている。民俗の周圏的な分布と、変遷の関係が限定された地域では成立する可能性を示す貴重な事例であろう。このような分析が可能となったのも地域内における地道な悉皆調査の成果であるといえる。しかしながら八木が第八章でも述べているように、両墓制の分布をめぐる最大の謎はそれが古い形態のものといわれながら、先進地であった近畿地方を中心に分布しているということにある。両墓制と単墓制をめぐっては研究史の中で、両墓制から単墓制へと変遷したという前提がほとんど未検証のまま存在し、八木もこの前提を基本として淡路島の墓制研究に向かっている。とすれば古いと思わ れる両墓制が近畿を中心に分布するという全国的な動向と、新しいと思われる単墓制が洲本を中心に分布する淡路島の局地的な分布状況の間にどのような整合を求めればよいのかやや疑問を感じる。また単墓制と両墓制はともに無石塔墓制から派生した形態であるという新谷などの説にたてば、単墓制と両墓制の間に一元的な前後関係を求めることには慎重にならざるをえないだろう。民俗事象の分布と変遷の関係を解明する作業は民俗学と地理学のもっとも基本的な共通領域と思われるが、この魅力的な課題について民俗学の研究者はどうも及び腰である。この論考が発表されたのは随分以前のことであり、八木が自ら述べているようにその後の墓制研究の進展によって詣り墓、埋め墓という用語の問題を含めて再検討の必要が生じている。その上で新たな目で八木が明らかにした墓制の分布の意味をいま一度見直す作業が望まれよう。
第八章は、淡路島の南海岸、灘地区における墓制の考察である。第七章では広い範囲が対象となったために微細な地域的考察は行なわれていないが、この章ではミクロな地域における墓制の多様性が取り上げられる。まず各集落の墓制、墓参習俗が説明され、ついでそれらの比較による考察が墓制の変化を中心に行なわれる。その中で調査地域の中でも灘地区東部に古い形の両墓制が残存していること、また両墓制が卓越するこの地域の中で例外的に三集落でみられる単墓制は、峠越えの交流によって諭鶴羽山地の北側の集落の影響をうけて成立したことが述べられる。村落史との関連で墓制のバリエーションを理解する視点は注目に値しよう。民俗学における墓制研究は、墓制の中で完結するか、あるいは霊魂観、祖霊観との関わりに結論を求めるものが多いが、モノとしての石塔の分析はまず村、家との歴史的な関わりにおいて行われるべきであろう。また埋め墓についても集落との位置関係や土地の所有関係といった地理学的視点、あるいは発掘調査による考古学的視点を導入することによって、村落史、家族史との関わりでの考察が可能となる。
第九章は淡路島全域を対象として埋葬墓地の規模を考察したものである。埋葬墓地とは両墓制の場合埋墓を意味し、規模とはその墓地を使用する主体の広がりを指している。八木は墓地の規模について六つの類型を示し、分布図を作成しているが、その結果はきわめて興味深い。つまり入会墓地や村単位の墓地のような規模の大きな墓地が海岸部や平野部の村落にみられ、家別や数軒単位の規模の小さな墓地は内陸の丘陵部に多いという。八木はこのような墓地の分布状況を淡路島内の集落形態の地域差と関連づけて説明する。すなわち平野部・海岸部→集村→大規模墓地 内陸丘陵部→散居村・小村→小規模墓地 といった関係である。民俗調査の場数を踏んだ研究者であれば、このような村落の立地や規模と、墓制の関連を印象として持つ者は多いだろう。ただそれを実証的に示したことの意義は大きい。印象論からどのように結論を昇華させるか、民俗学の課題の一つがここに示されている。また第九章で述べられた墓地の規模の問題は、第七章で述べられた墓制の分布と密接に関連する。すなわち淡路島では大規模墓地分布地域は両墓制の分布と重なり、小規模墓地の分布範囲は、ほぼ単墓制の分布範囲と同一である。八木はこのような墓地規模と墓制の分布の相関を「島中央部に単墓制が広く受容されたのは、卓越する小墓地の規模の小ささと、これを使用する単位集団の規模の、これまた小さいことが、ともに単墓制への転換の意志決定を容易にしたものだろう」ととらえる。つまり小規模墓地の分布範囲がまず存在し、単墓制の普及はそれに規制されたものと理解するのである。このような結論は一面で納得できるものではあるが、別の見方をすればまったく逆の推論も可能となるだけにその前提となる両墓制から単墓制へという変遷論の再検討が必要であろう。
第七章から第九章までの墓制研究は徹底した悉皆調査に基づく分布論が基礎となっている。ともに墓制の変遷が大きなテーマとなっているが、分布から変遷を説く際の前提が最上孝敬などによって唱えられた仮説的なものであることが少々気になる点である。分布状況から変遷を説く際には、何か所かでのインテンシブな調査によって変遷をとらえる方法との併用が必要となろう。また本書に収録された墓制研究は一九七〇年代の調査に基づいており発表年次も古いということもあって、分布論から墓制の変遷を論じたものが中心となっている。またその分析も非常に実態的なレベルのものに終始している。墓地は村落空間の中でいかなる象徴的な意味をもつのか、八木が第六章までに展開された構造論的な立場からの解釈を墓制研究にも望むのは評者のぜいたくな希望であろうか。
以上思いつくままに、評者なりの『民俗村落の空間構造』の読み方を述べてきた。力不足のために、読みの浅さや誤解があることと思うがどうかご寛容いただきたい。
本書は民俗学と地理学との境界領域での成果であるが、対象は民俗学に、方法は地理学に依拠したものが主となっている。(3)その意味で、空間や墓制といった研究対象の問題とは別に、今後民俗学方法論の再検討を行なう上でも必読の書となることは間違いがないだろう。
なお八木には本書に収められた論考のほかに、太鼓などの芸能や祭りを通じた町おこし、村おこしを題材とした一連の論考がある。民俗学の今日的な関心との関連も深いのでこちらも是非一読されることを希望したい。
(1)イーフー・トウアン 一九八八『空間の経験』筑摩書房
(2)新谷尚紀 一九九一『両墓制と他界観』吉川弘文館
(3)八木康幸 一九九四「ふるさとの太鼓」『人文地理』四六巻六号
八木康幸 一九九八「祭りと踊りの地域文化」『民俗の思想』朝倉書店 など
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