福江 充著『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―』
評者・岩鼻通明 掲載紙 日本民俗学 218(99.5)

本書は、京都に事務局を置く日本宗教民俗学研究会の会員活動の成果を収める「日本宗教民俗学叢書」の第四冊目として刊行されたものであり、越中立山の山岳信仰と、立山信仰の布教のために作成された絵画史料である「立山曼荼羅」の調査研究を主題としたものである。
著者の福江充は、一九九一年十一月に開館した富山県「立山博物館」の主任学芸員を務めるが、開館以来の学芸員としての調査研究活動の成果を世に問うこととなった初めての著書が本書である。
本書には、立山信仰研究の泰斗である廣瀬誠の手による序文が巻頭に付されており、本書の評価については、その序文で語り尽くされている感もするが、山岳信仰研究を続けてきた中で、葛川絵図研究会の研究活動の一環として「立山曼荼羅」を取り上げ、古地図の歴史地埋学的研究を試みてきた評者の立場から紹介すべく、筆を執らせていただいた次第である。
まず、本書の構成から紹介したい。巻頭には、四一点におよぶ「立山曼荼羅」の写真版が二四頁にわたって(うちカラー図版は八頁)収録されている。これらの中には新出の「立山曼荼羅」で、写真版が初めて公にされたものも少なからず含まれており、資料的価値は非常に高い。
次いで、前述の廣瀬誠の序文に続いて、(目次省略)の各章が置かれ、その後に、八○○点近い文献を網羅した立山信仰史研究文献目録と、口絵写真解説、そして、あとがきが付されている。
以下では、各章ごとに内容を要約しながら、紹介を続けたい。
まず第一章では、高野山の学侶であった龍淵が加賀藩に派遣された際に、その在地宗教活動の中で芦峅寺に一時期定住し、芦峅寺一山の建て直しに貢献したことを種々の史料から明らかにした。この龍淵なる人物への着目が、布橋潅頂会と芦峅寺系立山曼荼羅の新たな解釈へと結び付いていくのであり、まさに著者の卓見であったといえよう。
第二章では、江戸時代の立山参詣者を編年的に整理し、その質的変化を追求している。十七世紀には既に禅定登山者がみられたこと、十八世紀には廻国行者や遊行聖の来訪がみられたこと、十九世紀には庶民にまで禅定登山が拡がり、布橋潅頂会などの祭礼への女性参詣者も急増したことなどが指摘されている。
第三章では、「芦峅寺文書」にみえる布橋と布橋潅頂会についての分析を加え、橋自体が布橋と呼ばれるようになるのは十九世紀に入ってからのことで、布橋潅頂会という用語が使われるようになるのも、同じく十九世紀に入ってからであることが史料から立証されている。さらに、江戸時代後期において、布橋灌頂会の儀式内容が急速に変化していくことが明らかにされ、その変化には前述の龍淵が関与していたであろうことが指摘されている。
第四章では、立山曼荼羅の『坪井龍童氏本』について論じられているが、この立山曼荼羅の補筆・修理にも龍淵が関与していたことが裏書の判読から明らかにされ、しがも、この立山曼荼羅こそが、数々の芦峅寺系立山曼荼羅のルーツに該当することが論証されている。龍淵の関与による補筆部分そのものが布橋潅頂会の表現だったのであり、龍淵の布橋潅頂会に対する意識がうかがわれるとの指摘は正鵠を射たものである。
第五章では、立山衆徒の勧進活動を芦峅寺と岩峅寺との対比から検討し、その勧進活動の差異から、芦峅寺系立山曼荼羅が数多く作成されたのに対して、岩峅寺系立山曼荼羅は少数であったことが提示される。芦峅寺が岩峅寺との争論の中で不利な立場に置かれたことが、芦峅寺系立山曼荼羅を活用した勧進活動につながり、布橋潅頂会の儀式を強調表現した芦峅寺系立山曼荼羅の作成の契機となったとする見解が示されている。
第六章では、芦峅寺系立山曼荼羅の制作過程を、トレース図や図像比較表を手がかりとした、諸本の詳細な構図と図像の比較検討から解きほぐし、相互の系譜関係が明らかにされる。従来は、相互関係がないものとみなされていた芦峅寺系立山曼荼羅が、何段階もの模写過程を踏まえて関連づけられていく論証過程は、読者を興奮させるものがある。
第七章では、越中立山の地獄信仰と立山曼荼羅に描かれた地獄の風景が論じられる。地獄思想や地獄絵の変遷がたどられ、結論として立山曼荼羅に描かれた地獄の表現は定型化した図像であり、地獄絵の系譜の中では最後尾に位置づけられるものとの指摘がなされている。
第八章では、立山博物館に収蔵されている芦峅寺の宿坊に残されていた数多くの護符、すなわち加賀藩に対する諸祈祷や諸国での廻檀配札活動で使用された護符の諸相が紹介されている。これらの護符も、岩峅寺との争論の過程で規制を受けていく中で勧進活動の一環として活用されるが、実質的には利益を得るための商業的性格の強かったことが指摘されている。
第九章では、近世幕末期の江戸における立山信仰を、芦峅寺衆徒の江戸の檀那場での廻檀配札活動を通して論じている。岩峅寺との争論の中で不利な立場に置かれた芦峅寺衆徒が、諸国に勧進活動を拡大し、江戸の城下町においても廻檀配札活動を活発に繰り広げていた実態が、芦峅寺の宿坊に残る檀那場帳の分析から明らかにされている。この幕末期の江戸における立山信仰の勧進活動が、皇女和宮が寄進した立山曼荼羅の傑作中の傑作である吉祥坊本に結実したことも指摘されている。
第十章では、明治の神仏分離以降の立山信仰に関する考察がなされており、近代化の中で模索を続けた立山講社の活動を、檀那場帳などの分析から論じている。神仏分離にともなう神道側と仏教側との廻檀配札活動における対立関係が、明治期の作成とみられる立山曼荼羅の絵解きを織り混ぜて提示される過程は鮮やかなものがある。
巻末に収録された、膨大な数量の文献を網羅した立山信仰史研究文献目録は、今後の立山信仰研究のより所として不可欠な労作であり、口絵写真解説もまた、立山曼荼羅それぞれの表現内容や来歴などを端的に明示した貴重な資料である。
本書の全体を通じての特徴は、芦峅寺の宿坊に残る各種資料が徹底的に活用されていることである。とりわけ、未だ活字化されていない膨大な古文書史料の整理と解読を前提とした史料操作は、従来の立山信仰の殻を突き破った斬新なものとして高く評価できる。
それに加えて、檀那場に伝わる史料や高野山における史料採訪などの努力の積み重ねが、もと高野山の学侶龍淵の宗教活動を媒介項として、立山曼荼羅と布橋灌頂とを関連づけた新たな解釈への道を開いたのであった。その意味で、まさに本書は、立山博物館という舞台設定の上に、学芸員としての著者という名優を得たことによって生み出された傑作であるといえよう。
さて、そのような本書の位置づけを踏まえて、評者として、気が付いた点を若干コメントしておきたい。まず、第三章で、十九世紀以降に立山を訪れる女性や老人の参詣者が急増し、このような参詣者は芦峅寺に参詣し、祭礼に結縁することに意義があったと指摘されているが、旅日記などの史料的裏付けが十分とはいえず、より広範な史料の収集と分析を継続する必要があろう。参詣者に関する客観的な数量的データの把握はかなり困難な作業であるため、このような結論を導き出すには、いま少しの慎重さが要求されよう。
同様に、第七章での地獄谷の景観に対する意識の変化に関しても、旅日記などの史料に即した具体的な分析が行われていれば、筆者の意図するところがより明確に伝わったものと思われる。
また、第九章での江戸における檀那場の分析において、都市社会においては共同体の枠を超えて個人的な信仰の受容が行われたと指摘されるが、富士講や大山・三峰講などの場合は、都市社会の共同体レベルの信仰の受容がおそらく一般的であり、立山信仰の事例を一般化することは適当ではなかろう。むしろ、幕末期に立山信仰が江戸への布教を進めた段階で、いわば戦略的に個人レベルヘの布教が意図されたのではなかろうか。
以上の点を含めて、本書の分析面での不足点は、立山信仰と他地域の霊山との相互比較と、芦峅寺以外の史料の利用、とりわけ岩峅寺との争論過程の検討においては岩峅寺文書を、参詣者に関する検計においては旅日記などの参詣者側の史料を、有効に活用することであろう。それに加えて、本書の各章はいずれも初出時より大幅に手を加えられているものの、論文として発表されたものと図録解説として発表されたものに、若干の格差が存在する感がある。これはやむを得ない問題かもしれないが、研究史を踏まえた各章の位置づけ(「はじめに」の論述)がやや物足りない面とあわせ、今後の課題となろう。立山曼荼羅の分析についても、芦峅寺系のものは布橋灌頂との関連で詳細な位置づけがなされているが、芦峅寺系と岩峅寺系以外の立山曼荼羅の位置づけについて、立山曼荼羅のルーツを探る上でも、より積極的な提言が期待される。
もちろん、このような相互比較や外部史料の収集・分析などは、一朝一夕にできるものではなく、まだ年若い筆者にとっては、今後取り組むべき課題に包括されるものであり、さらなる調査研究の進展が大いに期待される。その意味で、本書は二十一世紀の山岳信仰研究の将来像を示唆するものであり、本書刊行後も、新たな論文の執筆に精力的に活動されている筆者の第二弾が楽しみである。
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