山崎祐子著『明治・大正 商家の暮らし』
評者・粥塚 伯正 掲載紙 いわき民報 (夕刊 99.9.8)


嘗て、平の本町通り・一町目からの突き当たりに、『塩屋呉服店』(大正十五年廃業)があった。
塩屋とは屋号であり、『塩屋呉服店』は、塩屋の木家(味噌醤油醸造業)からの分家として、呉服店を明治六年に創業した。明治から大正にわたる『塩屋呉服店』の歴史の流れを、二代目の当主の娘である、山崎サトさんの語りを基に、纏められたのが、この五月に岩田書院から刊行された、『明治・大正商家の暮らし』である。
著者の山崎祐子さんは、サトさんのお孫さんにあたり、民俗学に深く関わっておられ、平塚市史、多摩市史等多くの民俗編の執筆を続けている。
本著を、大きく分けると、山崎サト(一九〇一〜一九九三年)の語りを基に著された【サトの語る年中行事】と、サトの祖母にあたる、キンの記載した金銭出納簿を紹介した【キンの金銭出納簿】とに分けられる。
サトの話を録音したテープを基に、その語りを翻字した【サトの語る年中行事】は、正月からお盆、そして月見から年の暮れにかけての、一年にわたる、商家のくらしぶりや人間模様、そして平の町を中心とした、町そのものの息づかいといったものが、明治・大正の体温とともに、サトの口を借りて伝わってくる。
平弁(水戸出身の母の影響も入っているが−)で語られる話の語り口は次のようである。
「それから大嵐(おおあらし)だなんていうと、大嵐で、また、塀だん何かだのね、そこいら見回りに必ず来て、うちと本家は必ず、来い来いしたの。そういうとき、来っときには、うちへ来っときには、うちのカンバン(印半纏)を一番上さ掛けて着てやってくるの、親方が。−」
火消しの親方のキッツアンが、風の強い日などに出入りの店に火の用心にやってくるときは、印半纏を数枚着こみ、一番上にはその店のものを着てやってくるという話だが、着こんだ印半纏の数が多いほど出入りの店も多く、自慢できるというわけだ。
キッツアンのような人は昔は町内に一人はいたもので、懐かしい人格である。
「そう、そうすると、みんな公園(松ケ岡公園)に行って、公園から見るわけ。だから公園、大変だったわ。また、見にきて、よその土地からもきて。―」
お盆の十五日に松薪(まつまき)を井桁に組んで焚くのだが、それが高いほどいいといって、その炎は庇に届くほどだったらしい。
どこの店でも焚いたという松薪の燃え上がる炎を見るために、松ヶ岡公園に行ってみたという、今はなくなって風習も語られている。
サトさんの人柄にもよると思うが、サトさんの語り通りに翻字した語り口(平弁)は、実に軟らかく、生身の温かさを持って著者により再現されており、句読点が、うまく言葉にリズムを与え、実際その場に身を置いて聞いているようであった。
【キンの金銭出納簿】においては、著者はお金の出し入れのなかから、祭礼や年中行事に関わる項目を拾うことで、先のサトさんによる年中行事の語りとは別の角度から光を当て、当時の空気を再現させている。
日々の食費についても同様に、その購入先などから町全体の生業が推測され、その頃の平の町全体の生きの良さがひしひしと伝わってくる。
民俗学に深く関わっている著者の眼が、故郷である平の町に熱く向けられ、自分の原点を体験することで、この本を実現させたのだと思った。
(かゆつか・みちまさ)
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