池田 昭著『ヴェーバーの日本近代化論と宗教』
評者・姜 尚中 掲載紙 週刊読書人(2297 99.8)


本書は、これまでウェーバーのアジア宗教論などの翻訳などを手がけ、また『ウェーバー宗教社会学の世界』(勁草書房)などの著作を発表してきた碩学による論文集の形を取った研究書である。
長年にわたる著者のウェーバー研究の問題関心は、一貫して変わらず、それはウェーバーの日本近代化の基本構想を、より具体的に深めつつ、それを宗教と政治との関係の分析枠組みに基づいて主に江戸時代の体制と村落の宗教・社会・政治の事象に特定して浮かび上がらせようとする課題に注がれている。
著者は、『宗教社会学論集』第二巻の「ヒンドー教と仏教」のなかの明治以降の日本資本主義の成立に関するウェーバーのまとまった指摘を手がかりに、そうした課題に取り組もうとしているのである。ウェーバーの診断は、要するに、日本の資本主義化は、「内発的」ではないが、しかし資本主義的な文化を導入し、それを受容できる経済的な生活態度を備えていたというものである。著者は、それを宗教的な「習合能力」と解釈し、その核心を、神道的な呪術カリスマとその「相対的な目的合理性」に求め、さらにそれを取り巻く社会・政治的な構造とエートスとして幕藩体制の従士的封建制をあげている。それらは、〈西洋〉とも、そして中国や朝鮮の宗教意識や家産制的な社会構造ともことなる近世日本の宗教意識と社会構造の「独特の」位置価を示しているとされる。
具体的には、第二部の第一章「前近代と近代の日本社会における宗教集団と宗教意識」の冒頭に簡潔に要約されている通り、将軍と天皇の関係が「双頭」的な関係をなし、救済者宗教意識と組織が柔軟性に富むとともに、西洋の教会(キルへ)と教派(ゼクテ)と違い、また中国の皇帝教皇主義とも異なる「秘教的な宗教ゲマインデ」としての新宗教と村落・町人社会の祭祀集団の存在、さらに呪術的な「神強制」の実践と神―人関係が、先に述べたような現世的な相対的目的合理性のエートスを近世日本社会のなかに浸透させる決定的なモメントとなったというわけである。
だが、アジアのなかでそうした「早熟的な」資本主義化を遂げた日本が、その現世的な合理性のゆえに、昭和ファシズムのなかでどんな問題をはらんだ都市中間層のエートスとなって表出されるようになったのか、この問題をPL(パーフェクトリバティ)の戦前における宗教ゲマインデである「ひとのみち教団」について分析した「日本ファシズム形成期における都市中間層のエートス」という論文は、興味深い内容を伝えている。この本書の最後をかざる力作は、もっと発展させてもらいたいものである。
(カン サンジュン 東京大学教授・社会文化論専攻)
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