小林 清治編『中世南奥の地域権力と社会』
評者:小国 浩寿
掲載誌:日本歴史656(2003.1)


 本書は、喜寿を迎えられた福島大学名誉教授小林清治氏を囲む研究者九名に氏自身の論考を合わせて編まれた論文集であり、タイトルが示すように、中世南奥、すなわち現在の福島県地方を中心とした中世南奥州地域に関する諸問題を対象としたものである。まず、全体の構成と執筆者を左に掲げる。(中略)
  
 右の執筆者群を見てまず気づくことは、その多くがかつて福島地方史(特に中世後期)発展の起点となった『福島県史』六(一九六六年)の刊行に直接間接に関わってその後の礎を形成し、一九八五年には、当時の到達点を示すべく『福島地方史の展開』を発刊した小林清治還暦記念会に集ったメンバーということである。つまり本書は、様々な意味でその続編に位置づけられるものと言えよう。

 ではその内容を問うべく、以下、各論文を順に紹介していく。

 遠藤論文は、官務家領として立券された安達荘について、その成立過程における折々の立役者を揺り動かした中央の政治事情に着目し、当時の奥羽社会が、全国的な荘園公領制社会の動向と隔絶したものでなかったことを示唆する。

 伊藤論文は、常陸合戦時の北畠親房発給文書の分析から当時の「親房の権限」を抽出し、次にその足元を揺るがした「藤氏一揆結成計画」を取り上げた上で、両事項に関するキーパーソンである結城親朝の当時の動向に着目し、それを規定したものとして下野北部・仙道南部を中心に組織された「那須・白河一揆」の存在を措定する。

 渡部論文は、石塔氏関係の文献・史料を総攬した上で、石塔義房および子息頼房・義基の動向を詳細に跡づけた一篇であり、その中で、文和二年における義基の奥州下向が将軍の命令によるという新説を提示する。

 小豆畑論文は、稲村・篠川南公方の関係史料の分析から、直轄地・直臣(高南朝宗等)といったその存在基盤のあり方と白川氏および南奥中小国人との諸関係を炙り出す一方で、稲村から篠川への権力移行の様相を描く中で、特に後者が南奥の中小国人達の利益を代弁する役割を担っていたことを強調する。

 若松論文は、中世の田村氏について、庄司系=藤原姓、三春系=平姓という通説を補強した上で、応永期における庄司職の奪取掌撞を画期とした後者による前者圧倒のプロセスを具体的に述べ、さらに十五世紀以降に顕現する平姓田村氏と白川氏との提携に、政治・軍事的要請だけでなく、熊野信仰を媒体とした宗教的な意味をも見出す。

 菊地論文は、天文七年(一五三八)成立の『段銭古帳』に見える郷村の内、出羽国置賜郡内のそれの所在状況の復元を試みたものであり、伊達領国の範域を知りえる貴重な同史料に対して領域ごとに歴史地理的考察を加えてきた筆者連作の続編である。

 佐川論文は、戦国期白川氏最後の当主義親の家督経承のあり方をめぐつて、近世編纂物を基に構築されてきた纂奪説に対し、それに疑問を呈する近年の研究動向を踏まえた形での関係文書の総合的な分析により義親の家督継承の正当性を再確認する。

 高橋健一論文は、伊達氏史料の中に見える使者と飛脚に関する記事を駆使し、通説を踏まえながら、特に使者となった商人武士や飛脚の夫丸・中間といった比較的軽輩なそれぞれの担い手に注目し、豊富な具体例を以て彼らの実態の一端を描出する。

 高橋充論文は、永禄期に葦名盛氏が築いた向羽黒山城を詠った漢詩文「巌館銘」について書誌的情報や作者のことなど基本的事項を明らかにした上で、その内容把握を以て当城の再評価を目したものであり、『性霊集』の影響や作者覚成と盛氏との交渉を想定し、さらに宗教性、築域背景、景観等から当城の存在をより積極的に評価する。

 小林論文は、戦国期南奥武士における芸能のあり方について考察したものであり、多くの具体例を提示しながら伊達・白川・葦名・岩城氏らの蹴鞠・連歌・能・茶の湯等に対する熱心な取り組みを描出した上で、伊達氏における能・乱舞と茶の湯が帯びる政治・外交性に説き及び、さらに政宗の千利休への接近をその延長線上に位置づける。

 以上のように、南奥州の中世史について政治史的視角を中心としながらも、その他に歴史地理・城郭・芸能と様々な角度からのアプローチが試みられている。さらに、最近の研究動向を積極的に取り込むとともに、新進研究者からの重要な批判に対しては真正面から反批判を展開するなど、そこには通説を形成してきたプライドはあっても後学に対する侮りなどは微塵もない。この真摯な姿勢は、学風なのかも知れない。

 一九六〇年代後半を起点とした地方史・地域史の隆盛の中で、関東史と奥羽史とが内向きに分化・深化運動を繰り替えしてきた中世後期の東国史も、ようやく新たな段階を迎え、さらなる深化の必要とともに、全体史を見通すべく俯瞰的な視点をも要請されてきている。そのような今だからこそ、関東と奥羽との結節点として常に東国史の流れを規定してきた南奥は改めて注視されるべさ地域であり、この地域の歴史を開拓し、今なおその歩を休めようとはしない先学たちの仕業を私は重く受け止めざるを得ない。


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