横山 篤夫著『戦時下の社会 大阪の一隅から』
評者:戸高 一成
掲載誌:日本歴史656(2003.1)


 世の中の事象は、一体いつから歴史になるのか。太平洋戦争はすでに歴史になっているのか。昭和の歴史を調べるとき、いつも頭にまといつく問題である。

 極めて大雑把に、当事者が生きているうちは歴史ではない、と言うような考えもある。関係者が、まだ秘している証言・資料が出てくるかも知れないからであろう。

 しかし、証言・資料は、待っていれば都合よく出てくるものではない。歴史たり得るかどうかの詮索の前に、積極的な資料の発掘が求められるのが現代史なのかもしれない。しかも、資料は文書・文献だけではない。当事者が現存すればこそ、文書・文献のない部分を追究できるのではないか。いや、文書・文献に記録されない部分にこそ、生きた歴史が潜んでいるのかもしれないのである。

 近年オーラルヒストリーの重要性が加速度的に認識されるに至っている背景には、このような歴史資料に対する積極的な姿勢が見られるのである。

 さて、本書は、大阪を中心とした太平洋戦争下の生活記録を、日米戦争の推移とはまったく別の次元、つまり極めて一般的な生活記録に関して、基礎資料の収集と、当時の実体験者からの丹念なインタビュー調査で構築している。

 著者は一九四一年生まれ、現在大阪府立岸和田高校教諭。国立歴史民俗博物館共同研究員として、研究活動をしている。著書には、『朝鮮人強制連行調査の記録・大阪編』(分担執筆、柏書房、一九九二年)、『岸和田高等学校の第一世紀』(分担執筆、岸和田高等学校、一九九七年)などがある。

 内容は、四章に分けられ、一九九三年から一九九九年にかけて発表された論文をまとめたものである。

 まず、概要は、(以下中略)となっている。

 第一章は、米軍の都市爆撃における実態の一部を、大阪南部(泉南地区)に絞って記録している。原爆や東京大空襲の被害の大きさに圧倒されて、その他の地方の空襲被害が忘れられてはいけない、との観点から、資料と証言が集められている。特に昭和二〇年七月一〇日の空襲については、当時一七歳で、焼夷弾の炎を全身に受けた女性の証言が取り上げられている。全身黒焦げに焼け爛れた姿を見て、助けた漁師は、「どこの娘やな?」「こんな真っ黒だからわからへん」と話す。このような凄惨な体験が、淡々と語られる。

 次いで、戦時下岸和田の地車(だんじり)祭り、被差別部落と空襲が纏められている。

 第二章では、戦時の教育機関が、どのように軍に協力したかを、太平洋戦争で最も激しい戦いの一つに直面した船員の養成を中心に、資料の分析と、証言の採集を行っている。高等商船学校の卒業生は、海軍予備士官として、一定の待遇が保証されていたが、大多数の下級船員は、徴用船員として劣悪な環境で働いたのである。太平洋戦争で失われた民間船舶は二七〇〇隻を超え、戦没船員は三万名を超えている。この激しい損耗の実態が、実のところいまだ充分に明らかとはいえないのである。

 次いで、「明野陸軍飛行学校佐野分教所と陸軍佐野飛行場」、「旧制岸和田中学枚の勤労動員の犠牲者」では、戦時下、どのようにして軍事施設の用地買収がなされるのか、また、中学生の勤労動員の実態について、問題を追究している。

 第三章では、真田山陸軍墓地をめぐって、兵士の死と招魂社・招魂祭という構造を検討している。その比率を問わないまでも、戦死という現実を前提とした組織である軍が、どのように兵士の死に向かい合おうとしていたかを、明治三年の大政類典に遡って調査している。この問題は、遺族という形で、今日までその影を引いているのである。

 第四章では、大阪南部における在日朝鮮人の問題を取り上げている。この問題については、著者は特に力をいれて調査し、その居住地域、住宅問題、生活環境、そして強制連行の記録をまとめている。

 いずれも多数の統計を駆使して、説得力のある内容となっている。

 話は戻るが、これら困難な聞き取り調査を積み重ねた資料は、真に貴重であるといえよう。しかし、聞き取り調査、いわゆるオーラルヒストリーの採取、つまりインタビューは、易しくはないのである。著者は、地元岸和田の高校教員として、地元の歴史の背景を十分に知った上でのインタビューであるから、核心を外さない記録を得ている。著者は、やや証言者に感情移入過多の嫌いもあるが、収録された的確なインタビューは誰もができることではない。聞き手は、語る人と同等、あるいはさらに詳しくインタビューの内容と、歴史的背景に通じていなければならないからである。

 また、オーラルヒストリーの対象者が、質問に対して、答えうる立場にあったか、また、どのような証言背景を有しているか、そのような人定質問的な記録も合わせて必要なのである。そして、証言内容の厳正なチェックも忘れてはならない。

 言わば、本書は、「歴史になりかかっている」事象を、「歴史へと導く」作業のように思える。間もなく太平洋戦争後六〇年が過ぎようとしている。終戦時二〇歳だった若者も八○歳である。そして、さらに二〇年が経過したとき、残されるものは記録のみなのである。文書は残ってさえいれば一〇〇年、二〇〇年後に発掘されることもある。しかし、証言はそうではない。今日インタビューを行い、文字にしておくことは、かけがえのない「歴史に参画する作業」なのである。

 このような意味から、著者は、証言者と同じ重さで、歴史に係わっていると言えるのではないだろうか。まさに労作と言ってよく、さらに貴重な証言の蓄積を期待したい。

 最後に、難点と言うわけではないが、書名は一般論的に過ぎるのではないか。副題は有るものの、もうすこし内容に沿っているほうが良かったように思われる。(昭和館図書情報部長)


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