浦井 祥子著『江戸の時刻と時の鐘』
評者:矢島 ふみか
掲載誌:史潮(歴史学会)新52号(2002.11)


 本書は、著者浦井氏が日本女子大学へ提出された博士論文を基にして、一書にまとめられたものである。収録されている各章は江戸の「音」について研究を続けられている著者が、江戸の時の鐘と時刻制度について究明された既発表論文六本をもとに構成されている。時の鐘は現代のように時計の普及が見られなかった江戸時代においては時刻報知の中心的手段であり、全国に設置された。著者が対象とされた江戸の時の鐘は、幕府のお膝元として政権の中心地であり、また経済の中心地でもあった江戸の都市としての性格を反映した特徴を有している。事実、ひとつの都市に時の鐘が複数設置されるという事例は他の都市には見られない。にもかかわらず、従来の研究は、個々の時の鐘について論究されるものや、時刻制度の観点から概説的に言及されるに止まるものであり、江戸の時の鐘に関してはその設置場所についても十分な検討が行われてきたとは言い難い。ましてや時の鐘の運営体制や存在意義などその詳細については明らかにされてはこなかった。著者は序章で「本書では、江戸という都市、さらには江戸時代という時代を研究するにあたっての基礎的研究のひとつとして、江戸府内の時の鐘を取り上げ、さらにそこから、幕府の都市政策や江戸の都市としての性格や機能を、より明確に捉えることを目的とした」(二一頁)と述べておられるが、本音は都市機能や幕府制度との関わりから江戸の時の鐘を本格的に検討したはじめての著作といえる。以下ではまず本書の概要を紹介し、改めて疑問点・感想などを述べさせていただこうと思う。

 本書全体の構成は次の通りである。(中略)

 第一章「時の鐘の設置場所と変遷」第二節「時の鐘の設置場所」においては従来時の鐘を語るうえで基本とされた史料のほかに、著者によって新たに見出された史料による分析をふまえつつ、検証を行われている。従来江戸の時の鐘については『江戸名所図会』などの記述をもとに本石町、上野寛永寺、市ヶ谷八幡(東円寺)、芝切通し(西久保八幡・増上寺)、赤坂(円通寺・成満寺)、目白不動尊、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺の九ヶ所に存在したという説、最近ではこれら九ヶ所に下大崎村寿昌寺を加えた十ヶ所説などがあった。しかし江戸の時の鐘が、時期によってその設置場所や数が異なること、時の鐘が設置された可能性のある場所は十五ヶ所にも上り、設置、中絶、再興、廃絶の時期の検討を通して江戸の時の鐘は多い時で十ヶ所ないし十一ヶ所が同時期に存在したことが明らかとなる。

 第二節「時の鐘の転換と衰退」は幕末から近代以降の時の鐘の様相について論じられている。安政期に対外防備策のために梵鐘の供出がなされた際にも、時の鐘は対象から除外されており、この時期には時を報じるシステムとして時の鐘は重要な存在であった。明治期に入り神仏分離令による梵鐘撤去で廃絶する時の鐘もあったが、時の鐘は明治初年段階においては未だ時刻報知の中心的手段であったことが示される。一方、近代化によるさまざまな環境の変化は時の鐘を衰退へと導くこととなる。太陽暦による二十四時間制の導入は、鐘を撞く経費を倍増させ、運営上の困難をもたらした。また時計の普及や騒音の増大は時の鐘の存在意義を脅かし、時の鐘は徐々に廃絶されていく。この状況を著者は「江戸幕府の支配下において、その都市機能のひとつとして重要視されていた時の鐘が、幕府の存亡自体ではなく、その必要性の有無という非常に現実的な問題によってその数を減少させていった」(七九頁)とする。

 ついで第二章「時の鐘の普請・管理・運営」第一節「時の鐘の普請と改鋳」では、時の鐘の普請・改鋳のための手続について、いくつかの時の鐘の具体的事例を引用しつつ、論を展開される。時の鐘に用いられる梵鐘や撞木は、使用頻度が高いために消耗が激しく、火災発生率の高い江戸においては時の鐘の鐘撞所が被害を受けることも少なくなかった。時の鐘の普請は、管轄の奉行所への申請・老中の採可の後、普請の許可が出され、その後入札という手続を経る。その間、鐘や鐘撞所に関する詳細な書類の幕府への提出とともに、鐘撞人の選定も行われ、その由緒などがやはり幕府に提出されていることから、時の鐘の普請の経緯・状況を幕府が細かく把握し、時の鐘が幕府の管理下に置かれていたことを明らかにされる。

 第二節「時の鐘の管理と運営」は、個々の時の鐘について鐘撞銭の徴収状況などの運営費の捻出方法について言及されている。運営費の徴収対象(武家方のみ、武家方・町方・寺社方それぞれから、寺社方のみなど)・徴収額など一様ではなく、個々の時の鐘によって異なる方法が採られていたこと、それぞれに運営費の調達に苦慮していた様子などが描かれる。

 続いて第三節「鐘撞人の役職と時の鐘の株」では、時の鐘の直接の管理・運営を担当する鐘撞人の任免の方法・手続、あわせて時の鐘の株について検証される。鐘撞人(時の鐘の請負人)は江戸の時の鐘のうち五カ所にその存在が認められるが、鐘撞人は血縁相続と名跡相続による世襲制が採られていたこと、その交代の際には幕府に書類が提出されており、鐘撞人の任免について幕府が把握していたこと、これらのことから幕府が時の鐘をいかに重要視していたかということが明らかとなる。時の鐘の株については、従来二次史料に基づきその存在が想定されつつも確証を得なかったが、一次史料を用いて、寛永寺や芝切り通しの時の鐘に株や株主が存在したことを明らかにされた。世襲制による相続がなされる鐘撞人と株や株主については「直接の管理者は世襲制度(養子縁組による名跡相続)をとり、その一方で株として儲けのうちから一定の取り分を与えられる株主がいたと考えるのが妥当」(一六二頁)とする。

 第三章「江戸の時刻と時の鐘」第一節「時の鐘の撞き方」では、江戸の時の鐘は三打捨て鐘を撞いてから時の数を撞く方法を取り、複数置かれた時の鐘が、それぞれ鐘を撞き始める順序を決めて打ち継ぎをするなど正確に時刻を報ずるための工夫がなされていたことが示される。

 ついで第二節「時刻の取り方の混乱」・第三節「時の鐘における時刻の取り方」において一辰刻よりもさらに細かい時刻を示す上刻・中刻・下刻などが、実際に何時を指すのかということについての解釈が幕間内、また寛永寺、増上寺両寺でも混乱していたことが明らかとなる。このような認識の差異がある一方で、複数の時計を用い、不定時法に対応させるための工夫を施し、より正確に時刻を報じようとしていたこと、また当時の江戸の人々の時間感覚が約二時間の一辰刻単位ではなくより細かい時刻認識を持っていたことなど、さまざまな時刻の取り方が存在したことが示される。

 第四節「幕府の権威と時の鐘」は、幕府の要人のお成りや将軍家の法要に伴い、時の鐘の停止が行われるなど、幕府の権威のもとに時の鐘に規制が加えられたことを示し、幕府が時の鐘を支配下に置いており、様々な規制はその権力を知らしめることとなったとする。そして時の鐘が幕府の支配下に置かれた要因として、時の鐘の持つ民俗性について言及され、実際に時の鐘と人々の生活との関わりについては川柳などを素材として検討される。

 つぎに、各章ごとに疑問点・感想などを述べさせていただく。

 第一章「時の鐘の設置場所と変遷」では江戸に置かれていた時の鐘の設置場所について、従来一般に知られていた地以外にも、時の鐘が置かれていた場所が存在することを明らかにされ、それぞれの時の鐘の設置・廃絶の時期を検証し、併せて明治期以降、時計の普及や騒音の増大などの環境の変化により時の鐘が衰退していくまでの様子を描かれた。江戸府内の時の鐘は江戸の発展に伴い、日雇い職人や寺院からの時刻報知の要請など「実質的な時刻認識の必要性」(八三頁)により除々にその数を増やしていく。江戸に複数設置された時の鐘は、町人地が発展した西側に偏りが見られるものの、江戸府内にバランスよく配置されていたことなど、時の鐘が都市機構として、江戸という都市の拡大と密接な関わりを持っていたことを改めて確認できた。評者が特に興味を覚えたのは、時の鐘が設置された寺院の宗派は偏りがなく異なる宗派の寺院が選択されていた、という指摘である。この点は二章以降で検討される幕府支配との関わりから、時の鐘の設置場所を幕府が意図的に選択していた可能性を窺わせ、大変興味深く感じられた。第二節「時の鐘の転換と衰退」で取り上げられている明治期以降の時の鐘の様相については、著者は「幕府の存亡自体ではなく、その必要性の有無という非常に現実的な問題によってその数を減少させていった」(七九頁)と説明している。この幕府崩壊後の時の鐘の状況については、当時時の鐘に代わる効果的な時刻報知の手段はなく、時の鐘の必要性自体が幕府崩壊をきっかけとして変わることはなかったと思われる。しかし、著者は明治期以降の時の鐘については神仏分離令による市ヶ谷八幡の梵鐘撤去のほか寛永寺などの数カ所について言及させるに止まり、他の時の鐘の維新期以降の動向については詳らかではない。江戸の時の鐘のなかには、その運営費を武家方のみから徴収していたところもあり、幕府の滅亡は少なからず影響を与えたのではないかと思われるが、いかがであろうか。

 第二章「時の鐘の普請・管理・運営」においては、時の鐘の普請・改鋳・修理の経緯、鐘撞銭の徴収状況、管理請負人である鐘撞人の選定、時の鐘の株などの検討を通して、江戸府内の時の鐘が個々の時の鐘によって異なる管理・運営体制が取られていた一方で、最終的には幕府の管轄下にあったことを明らかにされた。時の鐘については、従来町人の自治として設置されていたとの見方があったが、時の鐘に関するさまざまな書類の管轄奉行所への提出、入用金の幕府への申請などのこまかな実態を把握することで、時の鐘に対する幕府の支配を明確にされている。さらに時の鐘の株の存在を明らかにしたことは、意義深い。株主と鐘撞人(鐘撞人自身が株主であることもあった)との位置付けについては、今後史料の発掘とともに解明が待たれるところである。またそれぞれの時の鐘における多様な運営体制について、著者は終章で「江戸という都市の拡大による増設の一方で、江戸の偏った人口分布と、中心部と周辺部の間の経済力の差が、時の鐘の管理・運営体制の違いを生じさせた理由となっているのではないだろうか」(二〇六頁)、「増設される時の鐘を維持し、滞りなく運営させるためには、寺社や大名の手に預けて直接の管理を行わせるという手段も必要とされたのではないだろうか。したがって、江戸府内の時の鐘は、直接の管理・運営が鐘撞人個人や寺社および大名などの手に委ねられ、個々に異なった管理体制下にあろうとも、最終的には幕府の支配・管轄下に置かれていたものと思われる」(二〇六頁)と結論される。江戸の時の鐘が多様な運営形態をとりつつも幕府の管轄下にあったとの指摘は評者も納得できる。しかし、著者が「特珠な例」として第一章から三章にかけて度々ふれられている下大崎村寿昌寺の時の鐘については、幕府の管轄下にあったとするにはいささか根拠が不十分であるように思われる。この時の鐘は仙台藩下屋敷の地続きにあり、時の鐘の鐘撞きのために雇われた雇い人に村し、仙台藩から手当が出されていた。のちに寺の運営で時の鐘を撞くことが困難となると、鐘楼堂のまわりを仕切り、仙台藩の家来が鐘を撞くようになる。著者が寿昌寺の時の鐘について引用している史料は、仙台藩とは直接に関係の無い者の記した書き上げであり、幕府との直接的関係を窺わせるものではない。また滝島功氏は寿昌寺の時の鐘が仙台藩管轄下にあり、他の時の鐘と異なる扱いを受けた可能性を指摘しておられる(滝島功「時の鐘−明治維新期の視角から−」『関東近世史研究』第四一号、一九九七年)。今後の新たな史料の発掘を期待するとともに、他の時の鐘については、運営主体・運営費の徴収方法などから、その性格について分類するなど傾向を示して頂きたかった。

 第三章「江戸の時刻と時の鐘」では、時の鐘の撞き方を確認し、時刻の呼杯が統一されておらず混乱が見られたこと、また幕府の時刻に対する認識について取り上げ、時の鐘の管理と幕府の示した権威について考察された。江戸という都市に住む人々に生活のリズムを与える時の鐘が、幕府の管轄下、整然と定められたシステムによって鳴らされていたこと、そこに時を支配する幕府権力の強大さを見ることがでさる。幕府が時の鐘をその支配下に置くことを重視したことについては「時」と「鐘」の持つ民俗的性格に言及される。特に梵鐘の鋳造の際の神事において、時の鐘として用いる梵鐘が他の梵鐘よりも格上げされた扱いをされていたという事例から、時を告げる行為が大変重要視されていたということを改めて認識することがでさた。近世においては民俗的観点から事象を捉えることを忘れがちであるように思われるが、このような視点の提示は興味深く示唆的であった。時の鐘がより正確に時を告げるためにさまざまな工夫がなされていた一方で、当時の人々が上刻・中刻・下刻など一辰刻より細かい時刻の取り方については認識が統一していなかったことが示される。著者は、当時の史料から時刻を読みとる際に、それが如何なる時刻認識のもとに記されたものかということに注意する必要があると述べておられるが、この点については改めて啓発を受けた。ただ、二節から三節にかけて展開される時刻認識の混乱については、定時法、不定時法の説明を加えた方がより分かりやすくなったのではと思われる。史料から窺える時刻認識の混乱も、当時の人々の定時法と不定時法の論理についての認識不足がその要因の一つとして考えられる。それぞれの方法で用いられる時刻表硯、時間の単位などの解説も併せて、具体的な説明を加えていただきたかった。

 以上、思いつくままに感想を述べさせていただいた。著者は『寛永寺鐘撞堂文書』をはじめとする数多くの一次史料を発掘し、それを丹念に読みこむことによって、通説を覆す具体的状況を明らかにし、江戸の時の鐘を幕府の都市政策のなかで位置づけられておられる。これは高く評価されるべきであろう。評者の未熟さゆえに本書の内容を充分に理解できなかった点、誤解も多々あることと思う。御寛恕を乞う次第である。(日本女子大学非常勤助手)


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