三宅 正彦編著『安藤昌益の思想史的研究』
評者:三浦 雅彦
掲載誌:日本宗教文化史研究6-2(2002.11)


              一

 本書は愛知教育大学哲学教室日本思想史研究会編『日本思想史への試論』(以下『試論』)所収のうち、安藤昌益を主要なテーマとした修士論文一篇・卒業論文一三篇を編集した論文集である。それぞれの論者は、指導教官であり本書の編者である三宅正彦氏の指導のもと研究に従事し、論文は一九七九から九八年にかけて『試論』に発表された。いずれも先行研究を綿密に検討し、史料集の翻刻ではなく、原史料の忠実な読解をほどこした成果であり、昌益研究に新たな地平を開拓したものばかりである。しかも各論文は、編者著『安藤昌益と地域文化の伝統』(雄山閣、一九九六年)所収の「新しい安藤昌益研究の動向」に要旨がある。門外漢の評者にこれ以上の紹介などできるはずもなく、内容的にも立ち入った分析は困難であるが、門外漢なりに気づくこともあるかと思い、以下ではいくつかの論点を提示してみたいと思う。目次は次のとおり。各論文の番号は評者が付したもの。

 総序(三宅正彦)

 第T部 思想の通観的研究

 @安藤昌益の差別思想(陳 化北)

 第U部 思想の特質の研究

 A安藤昌益・社会変革思想の一考察(権田真砂子)

 B安藤昌益の社会改良論における支配者像―中国の王と日本の天皇―(早川雅子)

 C安藤昌益の天皇観(犬飼暁雄)

 第V部 著作の個別的研究

 D安藤昌益著「私法儒書巻」の一分析―その典拠と基本概念の考察―(山田紀子)

 E安藤昌益の神代観と女性差別思想―「私法儒書巻」の分析を通して―(長瀧真理)

 F安藤昌益著・刊本『自然真営道』の研究(中山一樹)

 G安藤昌益の世界観と日本の優越性―「万国巻」の分析を通して―(魚住弘美)

 H安藤昌益の人間観―『統道真伝』の一分析―(岩田武志)

 第W部 思想の展開過程の研究

 I安氏正信の思想とその研究―安藤昌益研究における一課題―(竹尾行弘)

 J安藤昌益の仏教観―「釈氏篇」から「私法仏書巻」への展開―(佐藤信次)

 K安藤昌益研究における神道思想の展開―「神事篇」から「私法神書巻」にいたる過程―(秋葉昌親)

 第X部 中間的文化層の研究

 L『諸宗仏像図彙』の研究―安藤昌益の仏教思想の典拠―(塩谷保子)

 M溪百年とその思想―安藤昌益との一致―(高井規行)

 本書の最大の特色は、昌益関係資料の原典をくまなく読解し、昌益の著作に精密な書誌学的考察をほどこした点にある。その営みは思想史研究おいて必要不可欠なものであり、高く評価されるべきであろう。もう一つ、従来は大学図書館・公共図書館に所蔵したものの、個人では入手困難だった『試論』所収論文を一書にまとめ、広く昌益研究に資するものとした点も重要である。

 しかし右の論文の発表は、すでに述べたとおり二〇年余りの時間的な隔たりがあり、国際的にも米ソの冷戦が終焉し、文化大革命後の中国は市場開放路線を進め、大きな変貌を遂げつつある。各論文の発表はA→B→G→D→E→@H→I→J→LC→FKMの順に進展したが、内外の情勢が変化した一方、昌益に対する関心と研究動向も少しずつ様変わりしたことがわかるだろう。

 各論文は本書においても、先行研究を忠実に継承・発展していく中で、それぞれが密接な関連を有するが、本書に収録するにさいし、編者の手で引用・関連文献の典拠を整理してほしかった。たとえば論者が女性の場合、姓が変更して混乱を来たすことがある。なお、編者著『地域文化の伝統』と野田健次郎著『安藤昌益と八戸藩の御日記』(岩田書院、一九九八年)は、編者を中心とした昌益研究の動向を知る上で重要であり、本書とともに併読することをお勧めする。

              二

 本書所収の論文一四篇は五部構成をとり、全体として五二三頁の大著をなすのであるが、それぞれが卒業論文として作成された関係上、各論文のテーマは統一性がなくまちまちである。しかしその中でも陳論文は、本書の中では唯一の修士論文で、昌益の思想を差別性の観点より分析し、その全体像をトータルに描き出した労作である。

 陳論文は、先行研究である権田・長瀧・魚住論文の成果を着実に継承した上で、「昌益の思想には、平等的側面と差別的側面が同棲している」(四三頁)との観点に立脚し、昌益の生成論を朱子学との比較を通じて浮き彫りとし、次に昌益の男女観を「その本質から言えば、女性差別を内包する家父長制の原理」(七八頁)とし、人身・人品観、身分・職業観、世界・民族観などの角度より捉えなおし、その差別性を鋭く指摘した。しかし陳氏は昌益が言語・音韻に関する主張を検討し、「国際間の文化交流の可能性と必要性を否定する」(九〇頁)とした点は興味深い。この点については最後でもふれる。

 近世のさまざまな思想に、近代を先取し、その萌芽としての近代性を評価するか、それとも封建的性格を見出すか――こうした研究上の対立は、戦後の近世史ないし近世思想史の研究動向において、しばしば生じたものである。しかし右のような研究上の評価の対立は、戦後研究史の進展にともない、しばしば発生した問題である。陳論文の成果は、従来の昌益評価にたいし、大きな一石を投じたものといえよう。

 次に中間的文化層の問題に移ろう。第X部は塩谷・高井論文がその実証研究の核をなすが、中間的文化層の理論的基礎づけは、三宅氏の所論に負うところが大きい。三宅氏は近世の思想的成層を次のように規定している。「漢文の白文や万葉仮名を読みこなす専門的知識層があり、文字に依存しないで民俗の継受と日常生活行動とのうちに意識を表現する非文字的文化層があった。両者の間には、中間的文化層があり、伝達者は専門的知識層の成果を受けつつ独自の見解を加え、漢文体の原文は漢字・仮名まじり文に改めたり、訓点(返り点・送り仮名・訓読符・音読符・連読符・句読点)を多用した漢文にして知識を伝達し、受容者はもっぱらこれらの様式で知識を受容した」(三四頁)。

 三宅氏は近世の思想的成層を専門的知識層・中間的文化層・非文字文化層の三つに区分するが、中間的文化層が専門的知識層とは異なり、社会的な普及や広範な影響力をもつ点に着目し、その意義を強調している。思想を成層的に把握するこうした視点は、丸山眞男(「思想史の考え方について」『丸山眞男集』第九巻、一九九六(初出六一)年)にもあるが、評者はむしろ、思想を成層的に把握しようとするこうした方法自体に大きな疑問をもつ。塩谷・高井両氏は、丸山の立場には言及せず、三宅氏の規定をそのまま受容したが、評者はこの問題について、もう少し踏み込んでみようと思う。

 最初に塩谷氏は、近世の通俗的仏書『諸宗仏像図彙』の著者を義山良照と確定し、義山がその作成に使用した典拠を突き止め、「仏教に関する記述の典拠は仏教の専門書が主である」とした半面、宗派別にみると、浄土宗を重視する傾向がある一方、各宗派の記述を取り違えるなど杜撰な点が目立つとし、『図彙』が「専門書でなく通俗書である一面」を指摘した(四八六〜七頁)。しかし昌益は、こうした特色をもつ『図彙』を典拠とし、同書の誤りをそのまま受け継いでいる。塩谷氏は昌益の仏教思想との関係を、それぞれの原本の対照による書誌学的考察を通じて検証し、「中間的文化層の仏教思想は、その思想的根拠となる書物が作られる段階と、それが受容される段階で、本来の正統的な仏教知識を歪めたうえに成立している」と結論した(同)。

 次に高井氏は、近世朱子学の普及に多大の貢献を果たした『経典餘師』の著者・溪百年の生涯と思想を主な素材とし、「昌益の思想がどれほどの普遍性をもっていたかを他の中間的文化層に属する思想家の著書を分析することによって検証」しようとした(四八九頁)。

 しかしもっとも重要なのは、中間的文化層と専門的知識層との差異が、どのような基準をもとに成立しているかである。三宅氏の規定は前述のとおりであるが、その具体的な適用がいかになされるかが問題なのである。高井氏は『日本朱子学派之哲学』・『日本倫理彙編』・『日本思想大系』シリーズの紹介する近世朱子学の思想家を整理し、図表にまとめたが、そのすべてを網羅したわけではなく、朱子学の立場を自称した一部の思想家を除外している。高井氏は「正統的漢文(中国語文脈の漢文)」(同)の読み書きを専門的知識層の条件としたが、こうした規定のあり方は、専門的知識層と中間的文化層とを知識の質で区分し、前者を「正統的」と評価する半面、後者とは同列に扱うことなく、両者をいわば「すみわけ」るものとし、こうした「すみわけ」を当然のこととしてしまうことになりはしまいか。おそらく高井氏は、専門的知識層の位置づけを明確化するため、自身が中間的文化層に属すると仮定した思想家を意図的に排除したのであろう。しかしこうした方法は、一面では思想家を一流・二流…と区別=差別し、同一の研究対象としないやり方でもある。

 一方、高井氏が素材とした井上哲次郎は、いわゆる日本哲学三部作の一つ『日本古学派之哲学』(一九〇二年)の序において「余明治三十年以来日本従来の哲学を歴史的に叙述し、以て之れを今後の哲学と系統的連絡あらしめんと欲し…」(同書、一頁)とし、彼の関心と目的をはっきりと表明している。すなわち井上の目的は、「日本従来の哲学」と「今後の哲学」を通観し、いわば日本哲学史の通史を展望したものであり、彼の関心はまさしく「哲学」にあるのである。換言すれば井上は、いわば高邁な思想をもつ哲学ないし哲学たりうると思われるものにしか眼中になく、それ以外の者は排除するのである。

 もう一つの問題は、井上の眼中にある対象が、儒教であって仏教ではなかった点である。高井氏は「漢文」と「万葉仮名」に言及し、儒教と国学を近世思想史の主な対象と位置づけたが、三宅氏の規定は「梵字」をも対象としており、仏教を排除しているわけではない(『地域文化と伝統』三九四頁)。行論の関係上、神道・国学の問題は除外するが、ここで問題なのは、三宅氏の提起した思想的成層論が、日本仏教とりわけ近世仏教への思想史的アプローチに、どのような結果をもたらすかということである。

 さて前述の塩谷氏は、辻善之助氏の『日本仏教史』近世篇を引用し、近世仏教の思想的特色を宗学・教養仏教・庶民信仰と区分したが、こうした区分は辻史学ではなく、おそらく柏原祐泉氏の所論(「仏教思想の展開」『日本仏教史V』近世・近代篇、一九六七年、七三頁)に依拠したものであろう。それはともかく、右の区分は三宅氏の規定した専門的知識層・中間的文化層・非文字文化層とにそれぞれ照応したものである。

 しかし一七世紀初頭にようやく仏教(仏僧)より分離し、独立を果たした儒教(儒者)とは異なり、仏教には古代・中世以来の思想的伝統が存在し、近世以前より邦文の著述を多く生み出している。あの難解な『正法眼蔵』は邦文であり、日本仏教の宗祖の多くは邦文の著作を残したが、近世においては難解な著作だけではなく、平易な教えを語る思想家を輩出した。鈴木正三・盤珪永琢・白隠慧鶴などはその代表例といえよう。

 いわゆる鎌倉仏教の祖師は、正統的な漢文によらず、邦文の著述を独自に残した者が多く、近世仏教に発達した「宗学」はこうした祖師の著述を理論的に基礎づけ、諸宗派の中での自己の立場を明確化していく一面をもつ。中村元氏は純和文の仏教書を「仮名法語」ないし「カナモジ仏教書」と規定し、むしろこうした通俗的仏書が「民衆教化」に多く貢献したのみならず、古代・中世以来の日本仏教において果たした役割に着目した(「カナガキ仏教書」『中村元選集』八、春秋社、一九六四年)。しかし日本仏教では、「宗学」も「仮名法語」も、ともに邦文によって書かれたのである。

 近世仏教の思想動向に世俗化・民衆化を見出した論者の多くが、儒者=専門的知識層、仏僧=中間的文化層と規定し、相互の立場を区別していく傾向をもつ。思想を成層的に理解するこうした考え方は、井上哲次郎以降の日本思想史(哲学)、換言すれば儒教―国学を主軸とした思想史像を暗黙の前提とし、その流れに立脚したものである。儒仏は最初から知識の質的な差異を示す面が強調されていく一方、相互交流の視点は必要のないものとされ、結果として対象的に「すみわけ」るものとされていく。近世儒教の成立は、中世禅林の思想的伝統とは切り離されて論じられるのである。

 次に安藤昌益と本覚思想との関係を指摘した点にふれておこう。本書「総序」所収の「安藤昌益の行動と思想―本覚思想の特性―」は、昌益の中に本覚思想を見出した研究であるが、詳細な内容は「安藤昌益の本覚思想(上・中・下)―神仏習合と自然の神道―」(『日本宗教文化史研究』四―一・二、五―二所収)に結実しているので、参照をお勧めする。従来、昌益の思想と仏教との関係を指摘した研究はあるが、本覚思想との関係を論じた研究はあまりなく、三宅氏の所論は興味深いものである。しかし本覚思想とは、島地大等から田村芳朗の先行研究以降、新たな展開をみせており、最近の研究成果も取り入れていく必要があろう。

 もう一つは、昌益の著述とその読者の問題である。三宅氏門下の尾崎まとみ氏による中岡一三斎の「発見」は、昌益の『自然真営道』が刊行後まもなく越後に一読者を獲得したことを実証した画期的なものであるが、しかしその中岡も、昌益に全面的に賛同したわけではなく、全体としては昌益の思想を否定する立場をとる。編者をはじめ、本書の論者の指摘されたとおり、昌益の思想と時代性・地域性との関連性は重要である。しかし逆にいうと、昌益の想定した読者層とは、こうした時代的・地域的制約を前提としたごく限られた人々だった可能性もあり、こうした点からも、彼の思想家としてのあり方を検討していく必要があると思われる。

              三

 E・H・ノーマンの『忘れられた思想家』(岩波書店、一九五〇年)と丸山眞男の『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、一九五二年)は、刊行以来、大きな反響を及ぼした記念碑的業績といえよう。それにたいし本書は、多くの成果を生み出した二〇世紀の昌益研究を集めた論文集で、それは戦後研究史の一つの到達点を示すと同時に、二一世紀の昌益研究の出発点をなすものである。

 本書を通じてもっとも印象的なのは、各論文が先行研究の成果を批判・継承したうえ、入手と読解の容易な翻刻史料ではなく、原典と格闘し、読み解く真摯な取り組みにより立論がなされている点である。こうした点は、本書を手がかりとした研究の一層の発展を期待させるものである。

 しかし戦後研究史の初段階において「徳川時代を通じて封建的社会秩序及びその諸々の観念形態を徹底的に批判し否定した殆ど唯一の社会思想」(丸山、二五三頁)との規定をうけた昌益の位置づけはいつのまにか一八〇度転回し、本書においても見解の相違が際立つ。たとえば初期の論文が「絶対王政を志向した尊皇思想の先駆をなす」(一三六頁)としたのにたいし、後期の論文は「天皇を尊び幕府を敬う尊皇敬幕論」(一五五頁)と結論しているのがそれである。狩野亨吉の発見を契機とした昌益研究が、もしもこうした規定のもとで出発していたならば、以後の研究史において昌益の存在はどのような評価をうけ、どれほど注目を集めただろうか。

 最後に、海外での安藤昌益の研究動向の問題について。ノーマンの業績に触発をうけ、昌益関係資料の掘り起こしが進展し、謎に包まれた生涯と思想の全貌の多くが解き明かされた。逆にいうと、それはノーマンの昌益研究を過去のものとし、昌益の全体像を構築していく営みを切り拓くでもあった。アメリカにおける日本研究が、日本における徳川思想史の研究動向にも重要な影響を及ぼす例は、最近ますます増加している(ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』はその一例であろう)が、もしも昌益の思想が「国際間の文化交流の可能性と必要性を否定する」ものだとしても、本書を出発点とし、二一世紀の日本思想史における昌益の位置づけを再定置していく必要があろう。我々が昌益を再び「忘れられた思想家」にしないために。


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