鈴木 哲雄著『中世日本の開発と百姓』
評者:守田 逸人
掲載誌:民衆史研究64(2002.11)


 はじめに


 本書は、中世成立期から中世前期にわたる「開発」と農民を中心とした「百姓」の存在形態の解明を主眼に、著者が手がけてきた研究をまとめたものである。各論文は一九八〇年より一九九七年にわたって発表されてきたものに新稿の二論文、および新稿の序章・終章をくわえたもので、足かけ二十年余にわたる労作である。

 開発史研究は、中世成立期から中世前期の日本社会を考える上で最も重要なテーマのひとつであり、これまでも多くの研究がなされてきた分野である。本書の刊行が今後の開発史研究に資するところは大きいと思われる。

 本稿では、本書の論点をまとめ、成果と意義について評者なりの意見をまとめるとともに、若干の疑問点を述べることにしたい。

 まず、本書の構成を理解するために、目次を挙げておく。(中略)

一 本書の内容と論点

 本書は、T中世の開発・U中世の百姓・V東国の社会、という三部構成からなる。本書で大さな論点となっているのが書名の記す通り、中世における「開発」と「百姓」である。なかでも、とくに中世成立期から中世前期の開発史については、最も力点が注がれている論点である。そういった著者の関連意識や課題の設定は、本書の序章において明瞭に示されている。以下、個々の論点についてまとめておく。なお、本稿では補論1、補論3、および補論4に収められた書評論文については取り扱わないことにする。

序章 中世開発論−「大開墾時代」説・再考

 本著書のなかで、開発史研究についての研究史整理を含め、開発史の論点や課題、著者自身の主張が最も凝縮されているのが本章である。したがって、本著書のなかでもっとも重要な位置をしめる。本章については冗長ながら、詳しくまとめておきたい。

 序章での論点は、おもにこれまでの中世開発史研究における研究史の理解と、研究状況に対する批判に力点が置かれている(1)。とくに研究史上の問題点として、戸田芳実氏によって提起された、中世成立期を「開発の時代」とする指摘、稲垣泰彦氏によって提唱された「中世初期は規模の差こそあれ、西欧における『大開墾の時代』にも比定すべき」という指摘以降の研究状況についての問題点を挙げている。また著者は、右の戸田氏の提起や氏の一連の研究を、その後の研究者が「大開墾時代」説の起点と位置づけたことについての問題点について論じられている(5)。

 著者は戸田氏の一連の研究について、氏は中世成立期を全くの未墾地開発という意味での、「大開墾時代」とは評価しておらず、あくまで平安時代の「再開発」の過程に中世文化形成の前提があったとみていたとし、「大開墾」の用語にこだわることは意味がない、と説く。

 また、戸田氏の一連の研究を「大開墾時代」説の起点として位置づけ、継承した黒田日出男氏等各氏の開発史研究の中では、未墾地開発という意味で「大開墾時代」説が位置づけられていったことに疑問を抱きつつ、各氏によって指摘された「大開墾時代」説の論点を再検討している。その結果、中世東国における大規模開発の事例は存在するものの、やはり中世の「開発」とは不耕地あるいは不安定耕地を安定化させることであり、満作することであった(=農業の集約化)、と論じている。

 つまり、戸田氏の平安時代(中世成立期)=「開発の時代」論は、実は集約化論として読み返すことが可能であり、集約化こそが中位農業の基本であるとした宝月圭吾氏の古典的業績の枠組みを否定するものではない、としたのであった。この点は本書に一貫してみられる指摘である。

 ただし、黒田日出男氏による新しい耕地開発事例の網羅的検討や、水野章二氏等による荘園調査の成果、あるいは広瀬和雄氏などによる考古学の成果には一定の意義を認めている。著者は、十二世紀初頭を古代と中世を区分する意味での開発の画期とすることに異論はないとするものの、「大開発の時代」と規定するにはもっと慎重であるべき、と説く。つまり、戸田・稲垣氏以降の中世成立期=「大開墾時代」説は純化されすぎた面があったことは否めず、「大開墾時代」説を再考すべき時期にある、と強調している。

T部 一中世の開発

 第一章「越後国石井荘における開発と浪人」では、越後国石井荘の在地構造を事例に、石井荘の開発における浪人編成、田堵の存在形態、庄司・寄人・庄子の性格について検討している。

 まず、著者は十一世紀中頃の石井荘における開発主体が荘司兼算であったことを確定しつつ、石井荘司兼算の「開発」の具体的な実態は、徴収した地子稲を種子農料として下行し耕作開田を増やすことであったとする。そして、石井荘関係史料による限り「開発」という文言は荒野・荒無地の開墾というような開発行為一般を意味しておらず、浪人を田堵として労働編成し、荒田を散田すること、つまり請作経営を進めることを意味したにすぎないという。

 第二章「武蔵国熊谷郷における領主と農民」では、武蔵国熊谷郷を事例とし、熊谷氏による開発を論点に、領主経営と農民諸層との関係や中世村落の形成との関連について検討している。

 熊谷郷の再開発には、@掘之内の設定・拡大により浪人層を下人・所従として人格的支配下に取り込みながら開発領主=熊谷氏の再開発が展開する場合と、他方、A用水権を中核とする勧農機能の掌握に基づいて開発領主=熊谷氏の再開発が展開する場合とがあり、それは再開発後の経営維持を保証したうえで、在家農民を労働力の中心として展開した、と説く。

 第三章「中世東国の開発と検注」は、開発と検注との関連をめぐる問題について考察するとともに、東国の在地構造を念頭に入れつつ東国社会論を展開させた論考である。

 中世前期の東国の開発は、別名(領主名)における百姓請作の進展、領主直接経営による掘ノ内開発、また、郡郷保庄=中世領域型の開発における散田・請作経営を進めることであった、と指摘している。このような背景から、頼朝が文治五年に安房・上総・下総等の国々の地頭に下した開発命令の性格は、国衙勧農権そのものであり、「開発」とは「浪人を招き据え」ての請作経営を進めることであった、とする。

 また、本来は正検注の対象であった地頭等の増ノ内・請所、別納地に対する彼らの国検拒否のためのさまざまな動きが、正検注における新田検注の停止を獲得し、正検注を形式的なものにしていったと評価する。このような背景をふまえた上で、幕府が国検の遂行↓大田文作成の過程で掌握すべき対象は、右のような性格を持つ地頭層であり、東国地頭に対する幕府の開発命令と大田文作成は、東国における荘園公領制の確立過程と位置づけられる、と評価する。

U部 中世の首姓

 第四章「「去留の自由」と中世百姓」については、補論2として収められた「式目四二条と「去留の自由」をめぐって」と論点が大きく関わることから、一括してまとめておきたい。両論考は、式目四二条における百姓の「去留の自由」の本質・意味を、「浪人」の性格と「逃散」の性質、「開発」の構造から考察したものである。

まず、@式目四二条における百姓の「去留」の問題は、年貢未済がない限りにおいて「人身・土地緊縛」されないものであること、A「開発」とは、本来は浪人を田堵編成する側からの用語で、散田とほぼ同義であり、勧農を意味する言葉でもあったこと、そしてB「浪人」とは「田堵」とともに「開発」に招き寄せられる請作者であり、「去留の自由」の本質はそのような「開発」構造に規定された「請作の自由」にあること、を確認している。

 また、十三世紀においても、「逃亡跡」等については「浪人招据」て散田されるのであり、「浪人」とは百姓身分であったとされる。そして十三世紀以降、「浪人」の語は「他領の百姓」ないしは散田作人を意味した、と論じている。中世百姓は上記のような「開発」の構造を存立基盤とする「去留の自由」を留保するものであり、それが中世百姓の属性であった、と説く。

 第五章「中世百姓と土地所有」では、中世百姓の実態について、百姓の土地とのかかわり(土地所有)を捉えながら考察し、従来の百姓論において重視されなかった小百姓・散田百姓層をも含めた中世百姓論を展開させている。

 具体的には、@名田・一色田体制は百姓の個別的な請作経営によって構成され、一色田百姓・小百姓をもふくめた中世百姓は一般に請作者としての地位にあったこと、A中世百姓は特定耕地に対する永続的な耕作権を持たないとしながら、開発確を獲得した開発主体
によって、請作者が労働編成される構造(請作経営)が成立したこと、B請作経営は荘園公領利の基本的農業経営の方式となった、と指摘する。以上から、そのような開発の構造が中世社会における名田・一色田体制の生産構造を支えた、と評価している。

 第六章「土田と作毛」では、中位的土地所有の重層性の起点として、農民的土地所有あるいは地主的土地所有の本質と構造について考察している。

 中世における耕地の構造は、「土田」と「作毛」に対する権利からなっており、土田が田地、作毛が作物に対する権利であったことを実証する。さらに、土田と作毛に対する農民的権利(農民的土地所有)は土田・作毛の売買によって移動することを確認し、農民的・地主的「土地所有」は、田地や下地などの不動産に対する所有とは次元の異なる「所有」であったのではないか、と提起している。

V部 東国の社会

 七章「常総地域の「ほまち」史料について」は、中世常総地域の史料に散見される「ほまち」関係史料について、「ほまち」の性質を把捉しながら、中世開発史の中での歴史的意義を考察してい一る。

 中世常総地域で確認できる「ほまち」の歴史的意義は、低湿地に対する農民的な開発によって成立したものであり、ほんらいは「掘ることによってうまれた田」であったと論じる。「ほまち」は中世的な開発地の一形態であり、湿田農耕と低湿地開発の中に位置づけ
られる耕地である、と指摘した。

 第八章「東国社会の下人と所従」では、石井進「中世社会論」の方法論を継承し、「現実の生活様式」に即した下人・所従=奴隷の多様な存在形態と存在理由を考察している。

 中世の地域社会は百姓と下人・所従とが流動的な関係を持つ社会であり、下人所従を不可欠の存在として成り立っていた。百姓の年貢未済分は荘官等によって形代わりされ、つねに債務奴隷へと転落する可能性が存在した、という基本的な性格を確認している。中世日本における下人・所従の隷属状態は、奴隷制の特徴としてではなく、下人・所従の形態の奴隷を包摂した中世社会の特質として議論を進めていく必要がある、と説いている。

終章

 以上の考察を、つぎの三つの論点にまとめている。

@中世の開発(なかでも史料上の用語としての「開発」)とは、荘園や公領の領主が春の勧農として浪人を招き据えて散田・請作をすすめ、田地を満作させることであった。中世成立期は「再開発の時代」(あるいは「開発の時代」)であり、中世は農業の「集約の時代」であった。

A中世百姓は「去留の自由」を属性としており、中世百姓の逃散は領主・百姓間の「散田・請作関係(請負関係)」を前提に、請作拒否闘争として成立したものである。中世百姓は不動産としての土地に対する所有から自由であった。

B下人・所従をめぐる論点は、中世における地域社会の構造的な特質をふまえて議論されるべきであり、人身売買や質物下人・下人解放の契機は地域社会における資材・人の流動や売買と密接につながるものと推定される。中世の地域社会は、百姓と下人・所従とが流動的な関係を持つ社会であり、下人・所従を不可欠の存在として成り立っていた。

 以上の論点から、中世の「開発」、中世百姓の「去留の自由」、下人・所従の売買や集積は「請負」関係によって説明される、と結論づけられている。

二 本書の成果と意義

 つぎに本書の成果と意義について述べておく。

 本書の特徴として、最も注目されるのが、宝月圭吾氏・古島俊雄氏などの古典的業績によって提起された「集約化の時代」という時代像を再評価したことであろう。

 戸田芳実氏・稲垣泰彦氏による「開発の時代」あるいは「大開墾時代」説以来、中世成立期の開発史研究では、当該期を「大開墾時代」とする見方が通説化した。それ以降、宝月圭吾氏等の提唱した、中世成立期を農業の「集約化の時代」とする認識が結果的に等閑視されることになった。こういった研究状況に対し、著者は本書で、宝月・古島両氏等の研究をもう一度見直し、中世成立期の「開発」史研究のなかに積極的に位置づけなおそうと試みたのである。

 たしかに、戸田氏は中世成立期を農業の「集約化の時代」という側面を重要視していたことは疑いない。したがって、その後の中世成立期の開発史研究で「大開墾時代」という側面ばかりが強調され、「大開墾時代」=「新たな田地の開発」という認識が通説化し、「集約化」という側面が結果的に見落とされることになった点は、研究状況の発展に偏りが出来てしまったといえるだろう。その点で著者が「集約化」という側面をもう一度強調し、研究史理解の編成を試み、さらに進展させたことの意義は大さい。

 三 関発史研究史の理解をめぐって

 ただし、中世成立期の開発=農業の「集約化」と捉えることに難点はないのであろうか。ここで、著者による研究史の整理を再び確認しておこう。

 図1(省略)は著者による先行研究の理解を評者が図示したものである。図1のように、著者による研究史の流れの把握は、各氏によって説かれた集約化論の側面を強調しつつ、中世成立期の開発史研究が集約化論を中心になされてきたと位置づけている。著者は、戸田氏の提唱した中世成立期を「開発の時代」とする見解が誤用されたかたちで通説化したのに伴い、結果的に見落とされることになった「集約化」という側面を開発史研究の重要な課題として位置づけなおしたのであった。

 その結果、戸田氏による「開発の時代」説、あるいは稲短氏の「大開墾の時代」説を継承し、未墾地の大開発を重視した黒田日出男氏等の理解を誤った認識として捉え、同氏の未墾地開発の網羅的な事例研究を相対的に過小評価されているのである。

 こういった方向性に対しては、著者自身も「研究の発展を後ろ向きに評価するものとの批判も想定できよう」とする。しかし、中世成立期の未墾地開発の事例を網羅的に検討した黒田日出男氏等の開発・開墾史研究に対して一定度の成果を認める姿勢からか、「それにはあたらない」として研究の発展を後ろ向きに評価するものではないことを強調する。

 だが、中世成立期の史料用語としての「開発」の語を、荒田の再開発による「散田・請作」として定義する見解は、結果的に未墾地開発を過小評価することに変わりはない。このような位置づけは、著者自身が本書のなかで繰り返し述べられているように、中世成立期の「開発」には全くの未墾地開発は存在せず、すべて「再開発」を意味するという見解を背景としていると思われる。

 しかし、本当に中世成立期の史料用語としての「開発」の語を、荒田の再開発による「散田・請作」と定義でさるのであろうか。

たとえば、東大寺領の棚として著名な伊賀国王滝荘(杣)では、十世紀以降より中世成立期に、「樹木切尽、漸成露地、寺奴杣工等殊致開発」あるいは「樹木漸尽、今成荒地、近年為杣工居住、始所令開発也」というように、未墾地開発のために山野樹木の伐採が課題とされていた(2)。そして、王滝荘では、それらが「図外開発田」として史料上に現れる(3)。これらの田地は、十二世紀後半には「加納田」として国衙に把捉されたものの、十世紀以来のその間で、じつに百町程度の開発田を創出している(4)。右の王滝荘の事例では、東大寺伽藍修理材木の生産と田地開発が密接に連関しており、山野における未墾地大規模開発の事例として注目される。

 また、十一世紀末から十二世紀初頭頃より広範に現れる諸納官封家済物の便補地も注目される。納官封家済物の便補地は、大規模な荒野開発を前提としたことが多い。その納官封家に便補地として与えられた「荒野」が未墾地であるか否か、いまのところほとんど判別が不可能である。そのほか、当該期の史料に頻出する「荒野」開発にしても、それが未墾地開発を示すのか、あるいは荒田の再開発を示すのか、ほとんどの事例では個々に判別していくことは困難である。このような事例を考えてみても、中世成立期の史料用語としての「開発」の語を「散田・請作」と定義するには、なお慎重にならなければならないのではなかろうか。

 つぎに、著者による研究史の整理についてふれておきたい。著者は「集約化」という側面を強調する立場から、戸田氏の「開発の時代」とする指摘について、氏の意図していたところはあくまでも「集約化」という側面であったと理解している。

 戸田氏以降の開発史研究において、氏の説く「集約化」という側面が重要視されず、「大開墾時代」説が純化されすぎた面があった
ことは否めない。このことは、確かに近年の開発史研究の問題点の
一つとして挙げられるであろう。

 しかし、だからといって戸田氏が中世成立期を「集約化の時代」という側面のみで当該期の「開発」を定義づけているわけではない。たとえば氏の論文「在地領主制の形成過程」では、未墾地開発や荒田の再開発という論点から在地領主制の形成過程を論点とし、在地領主層が「未墾地を囲い込み、自己の名において開発を進める」という構造を明らかにされている。また論文「山野の貴族的領有と中世初期の社会」は山野開発について、さらに論文「中世文化形成の前提」では当該期の人々の開発に対する意識の問題にまで論点を深めて論じられている(5)。

 すなわち、戸田氏の開発論は、決して荒田再開発などの「集約化」にとどまるものではなく、未墾地開発をも含んだ山野・浦の開発から民衆の開発に対する意識・思想など、当該期に固有な、さまざまな開発の諸形態とそこに付随する諸条件について論じているのである。そして未墾地開発や山野開発、民衆の開発に対する意識という論点は、黒田日出男氏によって継承され、深化した。

 これらの点をふまえるならば、中世成立期の開発について、「集約化の時代」という側面にばかり固執すべきではなかろう。むしろ、戸田・黒田両氏の未墾地開発などについての業績をもふまえ、日本における中世成立期の「開発」について、多彩な形態を捉えていく方向性を強調する必要があるのではなかろうか。

「集約化」という側面を強調することは重要であるが、「開発」を「集約化」という一義的な理解にとどめてしまうと、再び研究状況におおきな偏りが出来てしまう可能性があるのではなかろうか。

 以上のように考えられるとすれば、著者とは異なる視覚からの研究史整理が可能である。

 図2(省略)は、評者が以上述べてきた理解に基づいて、おもな諸氏による先行研究での論点を整理したものである。図2のように考えるとすれば、かって黒田日出男氏が、広義には「自然を人間の生活・生産に役立てるための諸実技の総体」を意味し、狭義には「析地の開発」を意味するものであり、人間の「自然=社会観の転換をともなうもの」と定義した開発論の深化している研究状況がよく理解できるのである(6)。

 最後に、今後展開されるであろう中世成立期の開発史研究についてふれておきたい。

 これまでの開発史研究では、開発に関する具体的成果や事実の指摘を中心に議論が進められてきた。しかし、戸田氏がすでに指摘しているように、中世成立期から中世初期は、「国家や権門寺社などが体制的に「開発」を要求した」時代である(7)。こういった政治体制の動向と、これまでの開発史研究で明らかにされてきた議論がどのようにリンクするのか、あるいはしないのか、深められていく必要性があるだろう。また、仮にリンクするのであれば、どのような国家的開発政策と開発構造が存在したのか、という点まで検討していく必要があるだろう。

 その点、近年荘園公領制成立史の視点からも注目されている、加納田や荒野を囲い込んで立荘される王家領を中心とした領域型荘園の立荘と経営や、納官封家済物便補地の設定と経営という問題は、中世成立期の国家的な開発政策の契機として重要な論点となっていくだろう(8)。

おわりに

 以上、本稿では評者の能力不足により、開発史研究史上の本著の位置づけについての議論に終始してしまったが、そのほか本書のなかで特筆されるべき点は多い。

 とくに第六章に挙げられた論文「土田と作毛」は、長年課題とされてきた「作手」について(9)、その所有の構造を解明した画期的な成果といえよう。また、終章にて指摘されている東国政権の問題として、王朝国家の側から「亡弊国」と呼ばれた東国では、王朝国家の持つ支配の枠組みが東国では通用しなくなり、そこに東国政権誕生の必然性がある、と説く論点は、従来にない重要な視点として特筆されるべきものである。

 このほかにも、論じられるべき点は数多い。本書の内容や特徴も十分に論じられていない部分もあるかと思う。また、評者の能力不足ゆえ、誤解や誤読もあるかと思われるが、著者・読者の御寛恕を乞い、擱筆したい。




(1)特に註で明記しないかぎり、先行研究として挙げた論文名等は本書の序章を参照されたい。

(2)保安四年九月十二日明法博士中原明兼・三善信貞勘状案(東大寺文書三ノ六、『平安遺文』一九九八号)。

(3)同右。

(4)王滝荘の所領田数の変遷については、註(2)文書によると、昌泰二年に墾田十町が立券されて以来、天徳期に図外開発田十七町を開墾した。くだって久安年間の国検の際には、王滝荘田数が百十一町余となっている。保元三年四月日伊賀国在庁官人等解(百巻本東大寺文書二十九号、『平安遺文』二九一九号)参照。なお、当該期の玉滝荘に関しては、拙稿「東大寺領伊賀国王滝荘における出作と加納」(鎌倉遺文研究会縞『鎌倉期社会と史料論』東京堂出版、二〇〇二年所収)を参照されたい。

(5)いずれも戸田芳実『日本領主制成立史の研究』(岩波書店、一九六七年所収)。それぞれ、「在地積主制の形成過程」同書初出論文、「山野の貴族的領有と中世初期の社会」初出一九六一年、「中世文化形成の前提」初出一九六二年。

(6)黒田日出男「日本中世開発史の課題」(同『日本中世開発史の研究』校倉書房、一九八四年)。

(7)戸田芳実「中世とはどういう時代か」(同「日本初期中世社会の研究」校倉書房、一九九一年所収、初出は一九七七年)。

(8)加納田や荒野を囲い込んで立荘される王家領を中心とした領域型荘園の立荘形態は、近年の高橋一樹「中世荘園の形成と「加納」」(『日本史研究』四五二、二〇〇〇年)、同「「荘園公領制」から「中世荘園制」へ」(「歴史評論」六二二、二〇〇二年)、などの研究によって深化しつつある。

(9)中田薫「王朝時代の庄園に関する研究」(『法制史論集』第二巻、一九三八年所収、初出は一九〇六年)、入間田宣男「黒田庄出作地帯における作手の成立と諸階層」(同『百姓申状と起請文の世界』東京大学出版会、一九八六年所収、初出は一九六五年)など。


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