高原 豊明著『晴明伝説と吉備の陰陽師』
評者:尾崎 聡
掲載誌:岡山民俗217(2002.8)


 (目次省略)
 著著は過去十年間以上にわたって、北は東北から南は与那国まで三一五件以上(記録は更新されているはずである)の「安倍晴明伝説地あるいは候補地」を求めて実地調査を敢行し、安倍晴明に関しては現在の日本で最も堪能な人物の一人であろう。その後、著者はそうした偉業をもとに安倍晴明伝説(あるいは伝説一般)という歴史的・民俗的構成物の解読に取り組んでいる。

 第一部はそうしたフィールドワークをベースにした初期の諸論考をはじめ、書下ろしも含めて集成したものである。現在、空前の「晴明ブーム」にのって大手出版社はもちろん、手堅いイメージのあった学術雑誌社からも次々と解説本・一般書の類が出版されているが、「そうした一般書では物足りなくなった…、リアリティーのあるナマの情報が知りたい…、出来れば学問的なレベルから安倍晴明について少し詳しく知りたい・研究してみたい…」と思っている方には是非お勧めの書である。

 また晴明ファンでなくとも、この書は広く伝説一般に関心のある人(伝説愛好者とでも言おうか)に対してもお勧めの書である。「伝説はどのようにして形成されるか…」、この問題は「伝説ファン」の共通テーマである。実は「伝説」が成立するためには「物件」との関連は欠かせない要件であり、「伝説とは地元に存在する不思議な物件を何とかして説明しようとする試み」とも言っても良いくらいである。この書は「家、屋敷跡、井戸、岩…」など伝説にまつわる諸「物件」の考察という観点からも興味深いものである。

 すでに本会誌上で紹介済みであるが『写真集 安倍晴明伝説』は晴明伝説の学術的な考察をするのに適した良質な写真ばかりで構成された稀有な資料であり、参照することを是非お勧めする。塚(終焉の地を暗示する墓、墓とは限らず呪具を埋納した塚、祈祷用の基壇など様々)、屋敷、井戸(いわゆる「産湯の井戸」伝説であり、生誕地を暗示する)、岩(腰掛け岩であるが、晴明伝説の場合、陰陽師の本来の職務に関わる「天文観測台」であったり、秘伝をおさめた所謂「聖柩」などであるのが面白い)などそれぞれがどのようにして晴明と結び付けられたか…を解明する興味深いケースワークにもなっており、本書とあわせて読むと非常に面白い。

 私事であるが著者と私は十年来の友人であり、"学界一の電話魔"としても知られる著者からの深夜定期便で諸国漫遊記の他に学界のフォークロアーをつぶさに聞かせてもらっていた私には、この書の本質は別のところにもあるように思える。確かに著者は全国の晴明伝説の地を制覇し、いわゆる"晴明ファン"の世界では天下無双の"怪童高原丸"などと称されているが、この書は単に「晴明伝説コレクション」ではない。またこの書においては各地の晴明伝説の一つ一つの逸話に関してさらに逸話を構成する一つ一つの要素に関して出典がいちいち解説されており、これとて余人の出来ることではなく郷土史にも詳しい著者ならでは仕事である。しかしこの書は単なる「晴明伝説の講解書」でもない。この書はむしろ高原氏が以前に『写真集 安倍晴明伝説』で予告した伝説の「構造主義およびポスト構造主義的解読の試み」の一環だと私は思っている。私は差異、ディスクール(語り)、エクリチュール(書かれたもの)などの難解な概念を説明することは出来ないし、著著もそれらの観念を安易に援用するつもりなど毛頭無いようなので、ここでは小難しい話は控え、歴史的・民俗的「仕掛け」としての伝説を著者と読者とで一緒に読み解くプロセスを単純に楽しむことをお勧めする。高原氏の本を読んで楽しいのは伝説の歴史的背景が良く見えることである。例えば伝説というものには「史実では明らかに全くの別人を同一視する」「あるいは史実とは数百年・数千キロも異なる時空間に登場させる……」など素人が見ても明らかな錯誤が数多いが、現代人は伝説研究においてそれらを「昔の人の無学の産物」として笑うわけにはいかないのである。実はそれらの一つ一つの微妙な「錯誤の仕方」にも重要な歴史的意味があり、場合によっては我々を陥れようとする大きな歴史的な力(構造主義的に言えば"無意識"の次元のことになるが……)による企み・仕掛けでさえあるかもしれないのである。すなわち伝説の荒唐無稽性を笑い、最初から相手にしない(歴史科学者を標携する層にこのような考えの人は多い)人は、ものの見事に歴史の仕掛けたワナにはまっているとも言えよう。

 第二部は上原大夫(カンバラダユウ)と称する近世初頭から近代まで備中に実在し、山陽地方を中心に活動した陰陽道流を称する祈祷師の研究である。晴明ブームのせいか最近では私も学生から「その後、陰陽師はどうなってしまったのですか」などという質問をうけることがある。陰陽道流の祈祷師としては高知県香実郡物部村のいざなぎ大夫があまりにも有名であるが、日本全国それぞれの地方に陰陽師を称する祈祷師がおり、彼らがある時期、安倍晴明嫡流の土御門家により再編され、そのことによって全国の晴明伝説が管理されていったことは想像できる。しかし実態として、具体的に京都における土御門家が地方陰陽師をいかに支配下に組み入れていったか……などという問題は私などには手におえない。その点、このたびの著者による上原大夫の研究は池田家文庫の古文書を精力的に探索するなどして地方陰陽師と京都の土御門家との関係を独自に解明していったものである。おかげで私たちも地方陰陽師と中央との関係を具体的イメージでもって知ることが出来たといえる。読者によってはこうした第二部の方に読み応えを感じる人もおられるであろう。

 ところでこの書の中でも様々な逸話を使って上原大夫の活躍ぶりが紹介されていくが、例えは「カンバラヲタタク」が「祈祷すること……」の備中方言としてある時期まで広く流通したことは、この陰陽師の活動がいかに盛んであったかの良い証拠である。現在その存在は忘れられようとしているが、かつては柳田國男が関心を寄せ、県内では永山卯三郎、三浦秀人、佐藤米司、また掘一郎、豊島修といった県外の研究者によっても先行研究がなされた。著者の研究は先人が全く或いはほとんど触れなかった史資料を使っての研究で、新資料も多く、私は近世史家ではないが、本格的な近世史学の論文としても読みうるものではなかろうか。もちろん生活文化史的観点から見た場合、優れた研究といえる。陰陽道的な習俗は現代の生活文化の隅々にまで及んでいるが、そうしたものを理解するのにも直接役立つ近世の地方陰陽師の具体像がよくわかるからである。

 ところが著者によれば上原太夫のルーツとルートに関してはまだまだ謎が多いという。この問題の解明に関しては次回作が期待されるが、ともかくもこの著作は『写真集 晴明伝説』での約束を見事果たしてくれた一冊といえよう。


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