神田 より子著『神子と修験の宗教民俗学的研究』
評者:月光 善弘
掲載誌:山岳修験29(2002.3)


 平成十三年十一月に、右記著書についての書評をお願いしたいとの電話を受けた。岩田書院で壱冊お送り下さった。一通り読んで見ますと「あとがき」が、全体を把握するのに一番良いと思われたので、ここから書き始めることにした。

 「あとがき」の中に著者は、「本書は一九八二年から現在に至るまで断片的に調査を行ってきた。」と述べ、およそ二十年間に亘って、「岩手県陸中沿岸地方の神子をめぐる修験道と地域社会とのかかわりについて、とくに神子を中心にして、宗教民俗的な立場から考察を試みた論文の集大成なのである。」そしてそのきっかけとなったのは、一九八二年に宮古市黒森神社の祭礼において、湯立託宣で見た山野目キヌ神子との出会いであった、と記している。

 次に神子について著者は、「私自身も柳田国男が「巫女考」の中で書いているように、神社で神子舞を舞っている神子は、形式化されたものと思っていた。」と述べている。正しく日本の民俗学は柳田国男が提唱したものであり、従って本人ならびに弟子の存命中は已むを得ないことであったと思われる。しかし著者が実際に見た陸中沿岸地方の湯立託宣における神子舞は、そうした先入観を打ち破るものであった。その理由は「まづ地域の人たちの神子を見る目が違っていた。すなわち神子が語る託宣を聞く態度が真剣なのである。さらに神子は、湯立託宣以外にも、本論で言及しているように、ねまり託宣、オシラ遊ばせ、病気治し、口寄せなど、さまざまな場面で活躍していた。」と記し、当地の神子は柳田が「巫女考」の中に書いている神子とは、全く違うものであったことを述べている。

 その違いについて著者は、「陸中沿岸地方の神子の行動は、私の予想をはるかに超える広く深いものがあった。これまで日本民俗学で言及されてきた巫女は、民間巫女であり、修行巫女であり、多くは盲目であった。一方シャーマニズム研究において言及されてきた、シャーマンあるいは行者と分類された者たちの多くは、巫病を経験し、自身の心得統御による憑依技法の体得と、自己治癒を目的としながら巫業を行っている。これらの巫女あるいは巫者と比較してみると、陸中沿岸地方の神子は、それらのどれにも当てはまらない。それゆえ一方では、先行研究のない暗闇状態の中でもがいていた。他方では、日本民俗学やシャーマニズム研究史の中に、この神女を位置づけたいと四苦八苦する時期が続いた。一時期はそうした先行研究からはづれて、陸中沿岸地域における神子研究は、地域研究であると開き直ったこともあった」と記し、一時期には苦境に立たされたこともあったことを率直に述べているが、事実その通りであったと考える。石津照璽先生が中心となって行った東北地方の巫女調査に、筆者もメンバーの一員として参加させていただいたが、陸中沿岸地方の神子が調査対象から除外されていたのは事実であり、その原因は著者が述べている理由に基づくものであった。

 次に神子たちが修験道と深くかかわっていた点について著者は、「神子たちは師匠からの師資相承の筋道を持ち、それらを迹ると歴史の分野に入る。当地域は近世期には修験者の数が多かった。」と述べているが、筆者がこの方面の地域を調査した時にも、本山派・当山派のほかに羽黒派修験の数も多く、修験者が葬式にも関与していた。この点で著者が羽黒山において、荒沢寺の秋峯修行を勤めたことが、この地域の神子さんと深くつながる関係ができたものと考えられる。

 また著者は地域の多くの方々、特に調査地域の神子たちと日常生活を共にすることで、この地域の人たちのカミや霊魂についての考え方を教えられたことをあげているが、これは著者の有する人徳の賜であると思う。さらに地域内神社の関係者、宮古市役所内には「神田委員会」と称する特別委員会ができて、協力して下さったもののようである。この間には亡くなられた方々もあって御冥福を祈念しておられるが、著者の慈愛の深さが伝わってくる。

 以上のほか著者の所属せる慶応義塾大学の宮家研究室の方々の協力をはじめとして、学外者の桜井徳太郎、崔吉城、高梨一美、佐治靖などの協力も得ている。

 このように途中紆余曲折を体験しながら調査研究を継続努力し、一応学位論文をもって一段落に到達した。しかし著者は段落であって終了ではなく、今後のこの地域の変化や神子たちの後継者の問題など、見守ってゆかなければならない問題が、数多く横たわっていることを述べて結びとしている。

 本書は慶応義塾大学社会学研究科委員会より平成一一年(一九九九)六月九日に学位(社会学博士)を受けた博士論文を基にし、大幅な加筆と修正を加えて刊行したものである。なお刊行にあたり出版費の一部として、平成一二年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)ならびに敬和学園大学学術図書出版助成費の交付を受けている。

 以上「あとがき」の概説をふまえて、本論に先立つ序論を見ると、「一 研究の目的と意義」、「二 本論の構成」、「三 調査」に分けられている。

 一 研究の目的と意義の初めに著者は、「巫女は、神々や諸霊との間に立つ媒介者である。」とし、地域社会の人々の不安、悩みを模索する相談相手で、具体的にそれらの解決策、方向付けを指示する存在でもある。」と記している。そして巫女は日本では古代以来時代を通じて存在し、またどの地域でも様々な方法によって人々の依頼に対応してきたと述べていることには異論のないところである。本書では近世期まで修験道各派に所属していた東北地方の巫子、中でも中心になるのは岩手県陸中沿岸の「神子」と呼ばれている巫女を取り上げている。初めに神子を歴史的に解明し、次に関東や東北地方では吉田神道と修験道各派の間で、神子をめぐる騒動や訴訟の記録が、福島県や佐渡などに残っていることも述べている。

 岩手県における修験道所属の神子は、地域社会の中で湯立託宣や神子舞を舞い、春祈祷、おしら遊ばせ、厄払い・病気治し、口寄せなどを行いながら生き残ってきた。しかし湯立託宣と神子舞を舞うことが神社ミコと同一視されて、研究の対象から除外された。その原因は柳田国男が「巫女考」の中で、巫女を神社ミコと口寄せミコの二種類に分類したことに基因することを指摘している。巫女の研究としてはその後、中山太郎、桜井徳太郎、萩原龍夫など、宗教学や宗教人類学の分野では堀一郎、佐々木宏幹などで、石津照璽先生は東北地方の巫女の調査に多年に亘って傾注し、この時筆者も参加させていただいた。

 東北地方の巫女の研究については、小井川潤次郎の八戸地方のイタコの研究、楠正弘の津軽のゴミソや下北のイタコの研究、佐藤正順の宮城県のミコの研究、武藤鉄城の秋田の巫女の研究、戸川安章や烏兎沼宏之の山形の巫女の研究、岩崎敏夫の福島の巫女の研究などがある。このように東北地方の巫女に関しては、精緻な蓄積があるにもかかわらず、陸中沿岸地方の神子は調査対象から除外されていた。またわが国における巫女の研究の蓄積は長く深いにもかかわらず、柳田国男ならびに柳田に続く民俗学者たちは、舞を舞う巫女を神社ミコとして調査研究の対象に入れなかった。しかし陸中沿岸地方では今も神子の託宣の結果は、地域の人々にとって一年の生活の指針となっているのである。このように著者が陸中沿岸地方の湯立託宣と舞を舞う神社ミコ(神子)を、研究の対象として選んだことが本書成立の根幹であり、日本における巫子研究の新分野を切り開いたものである。

 また柳田国男の巫女研究が文献資料を中心に行われたので、柳田以後の民俗学や宗教学の研究者たちが、地域社会に残る文献調査が少なくなって、実証的な聞き書き中心の調査が多くなったことも、やむを得ない傾向であったと思われる。民俗芸能の分野で本田安次が、昭和初期における陸中沿岸地方の湯立託宣と神子舞について、調査報告書を発表したのみで、その後は取り上げられていないのが現実であると言えよう。

 本書の目的は、わが国における従来の巫女研究史をふまえて、宗教民俗学的研究の立場から巫女の活動を、方法論も含めて再検討することにある。すなわち初めに近世から近代にかけての神仏分離令、修験道廃止令、明治期における民間巫者に対する禁止令などの変革期を、どのようにして乗り越えてきたのかを再検討することである。そして次に神子の生活誌を分析し、神子の系譜、生活史、霊魂観や他界観念を踏まえての災因論、地域社会の視点から見た神子の姿を明らかにすることである。そして神子たちの活躍を歴史的に位置づけるために、地域社会に残る文献を利用し、近世期における巫女の変遷とか、組織や地域社会の中での位置付けを検討するのである。その上で神子の行っている湯立託宣や病気治療など、儀礼の諸相を取り上げ、儀礼の有する論理と宗教的世界観を分析することである。最後に新たな巫女研究に向けての方法論を提起する。以上が本書の目的と意義であると述べている。

 序論の二は本論の構成となっている。著者は日本の巫女研究の再構成をめざしているが、それは現在活躍している巫女の生活誌を、地域社会の人々とのかかわりの中で構築することであり、その背景となる巫女の歴史的変遷をたどりながら分析することであり、そして巫女が実際に行っている儀礼を分析することである。そしてそのために採用した方法は、聞き書き調査から得た生活史の分析であり、地域社会に残る文献の検討であり、巫女の関わる儀礼の構造分析と世界観の抽出にあった。

 著者は以上の巫女研究の観点に立って本書では、第一部で「巫女の研究史」、第二部では「神子の生活と地域社会」、第三部で「歴史的変遷とその分析」、第四部で「神子の儀礼と世界観」、を取り上げ、それらの分析を経て「新たな巫女研究に向けて」、という構成をとっているが本書の研究方法がわが国の巫女研究に新しい分野を切り開いているのは確かである。

 序論の「三 調査」に、本研究の対象は近世期に修験道に所属していた神子であり、この存在を明らかにするために、神子たちが所属していた組織、必要としていた地域社会、彼女たち自身の修行の経過や巫業の実態ならびに生活全般を把握する必要があるとして、調査研究した成果を四部にまとめている。すなわち

 第一部は四章(二一〜一一八頁)に分けて「巫女の研究史」を取り上げ
 第二部は六章(一一九〜三八四頁)に分けて「陸中沿岸地方における神子の生活と地域社会」を
 第三部は四章(三八五〜五一三頁)に分けて「神子と修験のかかわりの歴史的変遷」
 第四部は六章(五一五〜八一七頁)に分けて「神子の儀礼と世界観」

となっている。

 最後に結論として、「巫女と修験の新たな研究に向けて」と題して、本論で考察してきた結果を述べ、新たな巫女と修験研究に向けての提言をしている。

 東北地方全域を見ても、陸中沿岸地方の神子についての研究史は見るべきものはなく、この地域の巫子研究の全体像は空白のままであった。この地方にはイタコ、カミツキ、神子の三種類の巫女がいる。そのうち盲目のイタコ、巫病を経験して成巫したカミツキは他地域の巫女と同じ部類に属するが、神子はこれとは異質なのである。というのはこの地方の神子は口寄せもするが、盲目の「口寄せミコ」ではなく、また神社の祭礼で舞を舞うが神社に所属する「神社巫女」でもない。

 このような巫女の実態を踏まえ、神仏習合思想を現在に引き継いでいる神子の活動の実態を明らかにし、歴史的な変遷を分析して、わが国における巫女研究の再検討をすることが本書の目的であり、巫女と修験の関係を明らかにすることとも関連するのである。

 次に筆者は陸中沿岸の神子の特徴に言及し、神女の自立化の問題、神女の歴史を近世に遡って追いかけ、神女の儀礼の分析により憑依から統御へという流れを明らかにしている。

 終わりに著者は「巫女はカミとホトケと共に生活しながら、仏教や神道と地域の文化を融合させ、換骨奪胎し、読み替える文化の創造者であったのかもしれない。人々が求め信頼の基盤としていた託宣はその中から生み出されてきたのであり、この異次元からの呼びかけは今も魅惑をもって我々に迫ってくる」と結んでいる。

 筆者は本書を読ませていただき、これからわが国の巫女ならびに巫女と修験のかかわりなどについて、調査研究なさる方には是非本書を一読して下さることをおすすめしたい。


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