森田 清美著『ダンナドン信仰』
評者:海江田 義 広
掲載誌:山岳修験29(2002.3)


 本書の構成(省略)

 ここでは著者の論を紹介しながら若干の評を加えてゆきたい。まず序論において著者は「ダンナドン信仰」を「死人が出た直後の駆け付けや、それに伴う死体を柔軟にする呪術を中心とした葬送儀礼の中で繰り広げられる、死霊の鎮魂・滅罪機能の強い「隠れた」民俗宗教である。」と規定し、古賀和則の「隠れ念仏」の概念に新たに「修験道系隠れ念仏」という新たな枠組みを加え、「隠れ阿弥陀念仏信仰」という大きな枠組みの「隠れ念仏」として論を進めている。一向宗弾圧を軸に研究活動をしている評者にとっても、「隠れ念仏」という概念は非常に扱いにくいものであった。薩摩藩の一向宗弾圧という視点から見た場合の狭義の「隠れ念仏」に対し、「ダンナドン信仰」なども「秘事」を内在させるということで「隠れ」のひとつとする著者のような広義の場合とで、「隠れ念仏」の概念はしばしば混乱が起こっていた。藩政時代に決して「南無阿弥陀仏」の念仏が禁止されたわけではなく、一向宗の信心が禁止されたわけであるし、念仏が隠れたわけではなく信者が隠れたわけであるから、評者も常に疑問を抱きながら使っていた言葉でもある。著者がもう少しこのあたりをすっきりさせ、区分して欲しかった。

 本論においてまず、「ダンナドン信仰」を支えている荒川・羽島地区の地理的・歴史的背景、集落・親族・家族・個人それぞれの成り立ちを細かな聞き書きで報告している。ここで著者は「ダンナドン」が藩政時代の名頭家に祭られ、その名子にあたる家とそれらの親族によって構成されている点。荒川・羽島地区が比較的周辺集落から隔離された陸の孤島的地理環境であったことから一向宗の影響をほとんど受けていない点。江戸から明治にかけての曹洞宗寺院との関わりのあった点を指摘している。さらに「ダンナドン信仰」の歴史や祭祀方法は勿論のこと、集落の人々が実際の生活の中でどのように「ダンナドン信仰」とかかわりがあるかということを、「ホネナマカシ」を特徴とする葬送儀礼・年中行事・「カゼタテ」・屋敷神にまで広げてその全体像を示そうと心がけている。

 その中で「ダンナドン信仰」の歴史について著者は、城之園家「ダンナドン」の司祭である初代「トイナモン」の伝承を持つ善兵衛が大正八年に八十七歳で死亡していることから、その起源を明治から幕末までは少なくともさかのぼれるとやや控えめな表現にとどめている。他所からの伝播も含めて検討はしているが、踏み込んで論議していない。今後の研究に期待したいところである。著者は葬送儀礼だけでなく「カゼタテ」・年中行事までふくめて考察することで、霧島山麓周辺に広がる「カヤカベ類似の宗教」、さらにトカラ列島・奄美・沖縄の祖霊信仰とも共通するものを内在しているとしている。評者としては「カヤカベ」という語の適切不適切は別として、「カヤカベ」と「カヤカベ類似」との概念は一緒でいいのか、さらに南西諸島の祖霊信仰と同じテーブルで比較してよいものか、というなんともすっきりしない思いが残る。

 著者の目指しているところが、各時代時代に何層にも重ねられた層の一枚である隠れ念仏を明らかにすることではなく、もしもあるとすればその何層にも重ねられた層の最底部に横たわっている南九州に共通する基層に、ダンナドン信仰を素材として迫ろうとしているからこそ可能な発想なのであろうか。逆にいえばわれわれに、少なくとも一向宗を中心に研究してきた評者には意外な方向から「隠れ念仏」の問題が投げかけられた思いがする。

 また著者は「ダンナドン信仰」の司祭者である「トイナモン」と「ダンナドン信仰」において欠かすことのできない「巫女」や「地神盲僧」のそれぞれの役割と互いの関係を、事例を引きながら規定している。そこでは司祭としての「トイナモン」または地神盲僧と巫女の関係において、「トイナモン」・地神盲僧は、山岳修験を背景に成立し、依り代として「カゼタテ」や「新口寄せ」を行う巫女は、成巫過程も未分化であり、全体として古い宗教生活(真言宗・禅宗を含めた既成宗教の普及以前)の姿を留めているのではないかとしている。真言宗・禅宗のみではこのような「ダンナドン信仰」は存在し得ないし、ましては浄土真宗ではなおさらである。いつを起点にするかは別として、そもそもあった信仰体系に修験道系の信仰が覆い被さって互いが融合して、またはその過程においてそれぞれ部分的に淘汰され「ダンナドン信仰」が形づくられているであろう点は、評者も素直に同調できる。

 結論として、著者のいうところの浄土真宗系正統派「隠れ念仏」の講と比較し、まったく異質のものであるとしている。加えて「ダンナドン信仰」は沖縄・奄美・トカラで見られる「マブリワカシ」・「イミアケ」のような古い信仰の上に修験文化が重なり、さらにその上を禅宗が覆っていて、その禅宗が表層だけでなく下の層まで浸透しつつあるとしている。評者も「ダンナドン信仰」単体としてはよくそれが理解できる。しかしその論考過程において「カヤカベ類似の宗教」、「浄土真宗系正統派「隠れ念仏」の講」、沖縄・奄美・トカラで見られる「マブリワカシ」・「イミアケ」を比較対象として著者は選んでいるが、比較対象としての明確な適合性が弱いような気がする。下野敏見の「南九州本土におけるシャマニズム研究の成果」などは、対象としなくてもよかったのだろうか。いずれにせよすでに著者は、新たなフィールドに入り研究を進めていると聞く。この著書を足がかりとした次の発表を待ちたいところである。

 また特記すべきは、著者が「ダンナドン信仰」を論じるばかりでなく、その地域にとって「ダンナドン信仰」がどんなにかけがえのないものであったか、これからの厳しい寒村の過疎という現実を活性化させる一つのヒントになる可能性にまで言及していることである。評者もつい忘れがちな点である。学問の成果は研究者のためのものではなく常にそのフィールドに生活する住民に還元されるべきものである。その原点を再度教えられた思いである。

 著者は、永年鹿児島県内の高等学校の教諭として勤務し、一九八一年には鹿児島県明治百年記念館建設調査室(現 鹿児島県歴史資料センター黎明館)にも席を置き、山岳修験から南九州の民俗を捕らえなおそうという壮大なコンセプトで調査研究活動を行っている。氏の調査姿勢は常に伝承者の立場や集落などの微妙なバランスに十分配慮されている。また研究姿勢は謙虚で決して研究者の希望的推測や既成の研究者の成果にとらわれるところがない。最近まで勤務していた県立串木野高等学校では、著者らが中心となり地域文化の伝承と地域の活性化、さらにそれを通しての社会科教育について取り組み、平成七年から十一年度まで毎年『生きた地域文化の体験学習』として報告書が刊行されている。著者自身が「調査地である荒川地区に六年間住みつき、村人とともに集落の共同作業に従事したり、年中行事や葬送儀礼等の人生儀礼に集落の一員として参加した。」としているように、本書が氏の永年の調査研究の姿勢によって生み出された労作といえよう。また、この論文は、鹿児島大学修士論文として平成十二年に提出されたものを、加筆し新たな視点で書き換えられたものであり、著者の向学心ますます盛んで、これからの成果発表が大いに期待されるところでもある。

 評者の住む知覧町は、薩摩半島の南部に位置し江戸時代、島津本宗家の分家にあたる佐多氏(正徳元年(一七一一)より島津姓)の領した土地である。もちろん江戸時代を通じ一向宗弾圧が行われた。そんな知覧に比較的よく知られ興味深い講が現在でも存在する。「細布講」である。一向宗弾圧史の中で必ず引用される『薩摩國諸記』の天保十四年の頁に書かれている一向宗弾圧にともなう拷問の有様を本願寺に報告している講である。またいまひとつ、「細布講」は、江戸中期に起こった本願寺内の教義争いである三業安心事件で、異安心とされ追放された大魯が鹿児島の高麗町付近で起こしたとされ、この細布講は薩摩半島南部を中心に屋久島・琉球まで勢力を伸ばした講でもある。紙面の関係で細かくは論じられないが、講の起こりの三業派もさることながら、「細布講」と本願寺の橋渡しを永年務め、南薩摩の多くの講に影響を与えた齊藤氏が近年知られている。氏としたのはその家系で少なくとも三代関係しているからである。齊藤氏はもともと武士であったが出家し坊津の一乗院に入っている。一乗院は薩摩切っての真言宗の名刹である。真言僧が一向宗の講を助け指導しているのである。さらに現在、「細布講」の様々なシャマニスティックな点、従来の浄土真宗の講としては理解しがたい点が明らかになっている。それは楠本智郎によって「真宗における呪術的秘儀集団の成立過程」という論考でも発表されている。評者も細布講研究を中心に薩摩藩の一向宗禁制にここ十年取り組んできたが、著者のこの論考は、この「細布講」のような従来の一向宗の講の枠にはまりきらない講を、新たに位置付けるための一つの切り口を示したものと考えている。


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