菊地 和博著『庶民信仰と伝承芸能』
評者:武田 正
掲載誌:東北学7(2002.10)


みちのくを支えた庶民のこころ

 新たな眼が東北にそそがれはじめている。文化中央から疎外されてきた東北と沖縄は、ともに異人の地と見られてきた。このことは残念ながら今も変りがない。東北に焦点を当てれば、「白河以北一山百文」という言葉があった。近代国家への道を歩みはじめた明治の末頃に、帝国議会で発せられたというが、実を言えば東北地方に住む人々の間に俗言として、流布していたともいうから、自嘲の言葉でもあったのであろう。

なるほど阿部比羅夫、坂上田村麻呂、前九年・後三年の役の折々、異人たる蝦夷をいかに征服したかが、歴史の道筋と理解されてきた。そんな中に一所に光明を見るように、下北半島に恐山の霊所があり、藤原三代の中尊寺が見られ、出羽三山がほのかな灯をともしてくれていた。そこだけは純く光ってはいるが、その周辺はあたかも陥没したように、闇が支配しているというのが東北と見られてきた。岩窟にひそんで機をうかがっていたアテルイも田村麻呂の進言もむなしく、斬首されたという。怨念を抱いたまま閉じられたところが、東北だったのである。

新しい東北の発見は、柳田国男の『遠野物語』であったともいう。そこに東北の庶民が姿を現わしたのだが、明治末の遠野の物語は近代国家への道を歩んでいた文化中央を、無化するような、飢餓の境をさまよう庶民の姿として映ったと言えなくない。

 そんな中で、山形に生まれ育った著者が、あざやかに庶民が生き抜き、歴史を作ってきた姿を、具体的な信仰、それを華やかに彩る芸能を通して、祖霊と一体化することによつて、飢饉や天災、そういった災厄が民俗社会に影を落すときに見られた神隠し、子殺しなどをいかに克服してきたかを解明しようとしたのである。

 今なお各地に焼畑耕作が見られるが、それだからこそ、かえって山の神・田の神信仰の重さを、第一章「祈りと庶民信仰」で著者は取り上げざるを得なかったのだろう。山の神・田の神の春秋交代説をもって納得してきた、従来の民俗学の理解に、新たなメスを入れようとしている。田の神を祀った祠堂は九州などに多いのに、東北では、山の神の祠堂は各所に見られるのに、田の神のそれはほとんど見られず、山の神は田に降りて稲作を守護してくれるとは言うものの、山の神信仰の系譜の中に包容されてしまつていると見て、「田の神は、それ単独の神として捉えがたく、背後に山の神という母体があって成立している」と指摘し、ここで山の神信仰の変容について見ることを提言し、再考をうながしている。

 確かに、一年のうち四分の三は田の神としての役割を担い、四分の一は山の神として山に留まるということだが、にもかかわらず、山の神信仰の歴史を考えると、もう一度考えるべきことであるのは、特に東北においては当然であろう。それを補強するように、予祝行事としての小正月の農耕儀礼の雪中田植、田植時の早乙女の芸能が少ないこと、子どもたちによる「山の神勧進」が、現在も多彩に行われていることから、山の神信仰が重要
な行事としてあるといった様相を、詳細に紹介している。

 第二章「寺社をめぐる史実と信仰」の最初の論考は、山形県東根市の黄檗宗仏心寺の大仏が、江戸の仏師によつて制作され、その大きさは二七七センチにも及ぶ、いわゆる丈六仏であるが、当時の最上川舟運によつて、ここに鎮座することになった経過を取り上げ、庶民の信仰の厚さを論じたものである。この地域は紅花・青芋・真綿・蝋漆・煙草などを、他地域にささがけて生産したことなど、社会的・歴史的条件の中で確認しながら、地域に根付くことになったことを取り上げる。各代の寺の住職、檀家であった森谷家の愚兵衛なる人物の活躍もさることながら、その後、旧暦二月十五日に、女性たちによつて現在まで受け継がれてきた、念仏講中による数珠廻しがあり、総長十三尺八寸、幅八尺二寸もある大きな「釈迦涅槃図」の開帳を行なった上での、念仏衆の所在を紹介している。

「与次郎稲荷信仰をめぐる伝説と史実」は、東根市六田に祀られている、与次郎稲荷の伝説にまつわるものである。伝説として伝承してきた与次郎稲荷の縁起から、信仰の実状を突き止めたユニークなものである。

 柳田が指摘するように、伝説というものは「歴史になりたがる説話」であるが、それを保持するのは、まさに庶民なのである。その説話がどのように史実として確認できるかに挑んだものである。

 そもそも与次郎稲荷は、秋田の城主佐竹公にまつわるものであるとは、よく知られたことで、この伝説の根にある史実がどのようなものであるかを、山形と秋田の資料によって素描し、史実としてどこまで迫ることができるかを検討する。著者の想像力を楽しんで見せてもらいながら、徳川家康の命で水戸から転封となつて秋田久保田城主に左遷された、佐竹義宣が、参勤交代の制度成立以前、江戸の情報をつかむためか、自身もしばしば江戸と秋田を上下したのだが、そこに飛脚としての与次郎が登場することになる。与次郎が狐の化身であったという説話から与次郎稲荷となるのだが、与次郎が狐でなければならなかったのは、むしろ庶民の説話を支えた知恵だったのかも知れない。

 著者は「伝説を吟味することで、地域史を再考」し、「伝説がどれほど史実を反映しているか」について考えようとしたものだというのだが、わたくしは、史実も伝説も共に真実であると見たい。史実が歴史的真実であるとすれば、伝説は庶民のこころの真実だと言えるからである。それはともかく、筆者が分析して見せてくれた「佐竹氏をめぐる政治状況」は本論の圧巻である。

 まず、なぜ与次郎を狐として非人間化しなければならなかったかを問う。それは与次郎の存在が人間であってはいけないのではないかということでもある。佐竹公は関が原の合戦時には石田三成の忠実な家臣でもあったから、家康に味方する態度をとれなかったために、家康との関係を修復できないままに、江戸時代を迎えた。そのため与次郎をしばしば江戸に走らせ、やがて家康の配下になる。その間に与次郎の悲劇が起こるのである。

 与次郎殺害には幕府がかかわっていたかも知れず、それを顕彰することは、佐竹公の立場上問題を残すことになりかねなかった。だから狐でなければならなかったのであろう。やがて与次郎殺害に関与した者や村の人に変死・狂乱が現われる。そこで稲荷社に祀ることになり、それが説話となり、人々の記憶の中に仕舞い込まれることになつたのである。与次郎が佐竹公の隠密あるいは飛脚であったというよりも、〈狐〉であったほうが、記憶装置として、より秀れていたと読み取ることができるだろう。東根市と秋田の稲荷社の氏子の交流が、現在も続いていることも注目されてよいだろう。その上で、庶民の信仰をこう結論づけている。「与次郎稲荷信仰は、与次郎遭難の現地である山形側にその吸引力があり、現地を訪れる秋田例の参拝者があとを絶たない。山形では今なお地域に根強い信仰心があり、現世利益の庶民信仰の中心は山形側である」とし、秋田側の佐竹公とのかかわりに対し、山形側の庶民信仰を対比して見ている。

 第三章「伝承芸能の役割と地域社会」は、筆者の独壇場である。山形県下に見られる獅子踊は、豊作祈願に奉納されるものも多く見られるが、盆あるいは彼岸の祖先供養の獅子踊を論じ、庄内地方の施食供養とのかかわりを浮び上がらせている。

 獅子踊は近世に入って風流化して、やがて山形県内陸部に多い百足獅子にまで変容するが、ここでは獅子踊の芸態であるよりも、そもそも獅子踊とは何かに探りを入れる。亡者供養として寺に奉納され、施餓鬼旗を身にまとって踊ることに注目し、しかも盆中の行事として定着していることから、踊りを通して祖先の精霊と一体化するための行事であると見る。そこに筆者は地域の特質を見ていると言ってよいかも知れない。

 神楽系の獅子踊、豊作祈願、慶祝踊としての場合も県内には多く見られることから、近世という時代を写す鏡でもあったと言えなくもないが、筆者の今後の獅子踊研究を期待したいものである。

 庶民信仰の多元性をさぐることを研究の柱としている著者は、山形県内の白山信仰の諸相にも分け入り、加賀の白山信仰と羽黒修験の入峰修行、葉山修験、さらには県内各地に点在する白山社とを取り上げ、妙見社の星の信仰にまで目をこらしているが、これもまた地域の中でどのような信仰となつて定着しているかを、深めていただきたい。

 そしてさらに、紅花の陰にかくれて見えにくくなってしまつている「青芋」にも、筆をひろげて、かつて越後の小千谷縮の原料提供地として知られた、山杉の青苧再発掘の機縁とも言える「出羽の特産青苧の生活文化史」も加えている。多彩な民俗を取り上げざるを得なくなつた著者の中での必然性を思い、その多彩さに驚嘆しながら、それがまたいささか統一性を欠くことになったのではないかと、気になっている。ともかく意欲あふれる著者の研究成果に拍手を送り、今後を期待される研究者の誕生を祝したい。


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