宮家 準著『羽黒修験−その歴史と峰入−』
評者:山本 義孝
掲載誌:宗教研究333(2002.9)


 本書は、修験道研究の第一人者である宮家準氏が長年ライフワークとして暖めてきた羽黒修験についての論考を纏めたものである。

 羽黒山は月山への北からの登拝口に位置し、月山とその西南に位置する湯殿山と合わせて一般に出羽三山と通称されている。このうち修験の拠点として栄えたのが羽黒山である。

 羽黒山は鎌倉時代に熊野修験などの影響を受けて一山を形成し、中世期・近世期を通じて中央の大峯、九州の彦山と並ぶ修験道の三大拠点ともいえる位置を占めた。しかも熊野や日光の修験とも通底する組織や峰入の作法を伝え、現在においても当時の面影を残す峰入が行われている。

 こうしたことから、研究者や宗教家の関心をひき、数多くの書物・論文・随筆が著され、優れた業績が積み重ねられた反面、好奇心にもとづく修業体験や紀行・随筆なども数多く著されている。ともすれば、羽黒一山の歴史や儀礼全体の体系を無視して羽黒山の伝承・風景・修業の一部を利用しているものも少なくないという。

 本書はこのような弊を除き、多くの人々に羽黒修験の歴史や修行を正確に知ってもらうためのよすがとして、戸川安章『神道大系 出羽三山』所掲のものをはじめとする地方文書、宮家氏自身参加された峰入の経験やその時に作成した調査メモ、精緻な調査研究にもとづく先学の業績などをもとに執筆されたものである。

 では内容紹介に移ろう。全体の構成はその内容から大きく三つに分けることができる。第一が史実に即した羽黒修験の通史を扱い、これに地方組織の展開を考慮に入れた論述の部分で、これが本書の多くを占めている。

 第二が修験道の峰入全体に通底する性格を持つ羽黒修験の秋の峰と松例祭(冬の峰)の調査分析を試みた部分、第三が羽黒修験の秋の峰、冬の峰の調査研究をふまえ、日本宗教・日本のシャーマニズムについて体系的にまとめた外国人の業績を紹介する部分からなる。

 全体は十章で構成されるが、ここで章立てと節の項目を列記してみよう。(中略)

 というもので、これを見ると羽黒修験に関する現時点での問題点が殆ど網羅されていることがわかるであろう。羽黒修験の研究は多くが存在するが、その中心をなすのは戸川安章氏によるものである。戸川氏は柳田国男に師事して民俗学や歴史学を学び、数多くの史料を自らの峰入りや回檀の体験をもとに分析した他の追随を許さないもので『新版出羽三山修験道の研究』などが代表的なものである。

 他に出羽三山の山麓集落、信仰圏、道中記の分析を行った岩鼻通明『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』、さらに多くの史料に依拠する阿部正己『出羽三山史』、戸川氏を編集主任とする『羽黒町史』などが存在するが、これまで羽黒一山の組織を中心として、これに地方組織までを含めた通史を描くことは試みられなかった。宮家氏はこの点に留意し本書を作成されたのである。このため、全体の中心をなす部分は三〜六章であり、本書を理解していただくために、以下その概要をかいつまんで紹介しよう。
 
第三章 羽黒一山の成立と展開では、一部の金石文を除いて山内にはほとんど中世史料が残存していないため、断片的な記述にならざるをえないが、宮家氏は一山組織に焦点を置きながら羽黒山の成立から近世初頭に至る展開を大まかに跡づけている。

 これを要約すると、中世末期の羽黒一山、寂光寺は、修験に限らず顕・密・禅なども含む独立無本寺の道場であり、その中には大夫や巫女、商人、職人なども含まれていた。

 統治組織では全体を総括する総別当(俗別当)と、これを補佐する長吏がおかれた。戦国期には領主が別当を務めて全山を統轄し、家来が長吏となって一山の治安維持にあたり、山内の庶務は教学・法務に関する役職と道者や山内の営利に関する役職に二分された。

 衆徒の法階は、峰入によって大越家・法印、番乗、三十講、松仙をへて和尚・法印になることによって修験の極官である権大僧に達する、というものであった。

第四章 近世における羽黒一山では、中世期までの様相とは一変し、多くの史料が残されていることにより、一山組織の展開と変遷を詳細に跡づけることが可能となっている。

 初期にはそれまで無本寺で特定の宗旨に属さなかった羽黒山を天台宗に改宗し、日光山輪王寺門跡末として新たな展開をはじめ、ようやく元禄頃になって一山組織が確立された。しかし、殆どの別当が輪王寺に滞在し、別当代を派遣したために統治は不完全なものにならざるを得なかった。これは文化十年(一八二二)に別当となった覚諄による制度改革で一変し、別当による直接支配は以後、幕末まで続く。

 本章では、東叡山から出された掟・下知状・社領配当帳などにもとづき支配者側の視点に立って一山を紹介した部分と、山内の衆徒側の視点に立った近世中末期の一山構造を考察した部分を対比している。これにより、別当(別当代)の統治は峰入を中心とした法務面に限られることが明確になっている。それに対し衆徒は、霞の道者を掌握することによって財政基盤を確立し、大先達らの導きのもとに峰入を中心とした修験の活動に従事した実態が浮き彫りにされた。

 このように三・四章では、中世〜近世末までの一山組織の変遷と、それぞれの時期における組織の特徴を歴史的に跡づけており、当研究の最も中核をなす部分ということができる。

 第五章 羽黒修験の地方組織では、羽黒山の地方支配の在り方を分析している。羽黒山は、すでに中世期には東北各地に勢力を延ばしていたが、その支配形態は多様で一元化されなかった。これに対し、別当による一元化の体制は、山内衆徒への霞状の授与、錫杖頭・江戸十老僧の設置、別当による一世行人号の授与などのことを通して江戸時代初頭に確立している。羽黒修験の末派支配の最も一般的な形態は、別当が各地の郡または郷単位に触頭、頭巾頭をおき、これに末端の院坊を支配させるというものであった。

 この段階で問題となるのが同じ修験道の本山派・当山派との確執である。慶長一九年(一六一四)から出入りが続いたが、各藩では本山派の霞一円支配を利用して領内の修験を統制しようと目論み幕府も容認したことから、羽黒派に不利な裁定がたびたび下されている。これに対し、羽黒本山では東叡山を通じて働きかけ、元禄年間(一六八八−一七〇四)には羽黒派の独立を認める裁定を引き出している。こうした一山・本寺の末派支配が可能になる理由として、羽黒山が位階・官職の任命権を有し、これを秋の峰入りの参加に際して末派修験に発行し、秘伝を伝授するというように両者が深い絆で結ばれていたからであると指摘し結んでいる。

 このように、羽黒山による地方支配機構の確立も他宗派が獲得した方法と同様に、争論を繰り返しながら独自性を主張し、更に強力な中央権力に結び付くことによって実現する姿を描いているが、諸国の修験者を天台系は聖護院に、真言系は醍醐三宝院にそれぞれ統治させるという幕府の宗教政策に便乗して、聖護院が羽黒山を末山とみなして干渉を強め、羽黒一山はこれに激しく抵抗して延宝四年(一六七七)に独自性を公認されたという政治的な動向を前面に出して記載を進めていただけたなら、読者には更に理解しやすかったと思う。

 第六章 羽黒派里修験の変容では、岩手県宮古地方の里修験の状況を、中世末期から近・現代における変容までを通して描いている。特に近世の里修験がどの系譜から始まるかは余り明確にされてこなかったが、ここでは、戦国時代末期頃、館を居宅にした土豪が戦いに敗れ、あるいは帰農化するにつれて、その土豪の一員や、関係者が羽黒派の里修験となって館神を祀ると共に人々の現世利益的希求に応えて宗教活動を行うことから始まるという興味深い傾向が示されている。近世期に入ると堂社の別当、春祈祷、神楽、神子と組んでの湯立て託宣、葬儀のあと祓いなどを主な活動分野として人々の宗教活動に探く根を下ろしていた。ところが明治二年、神仏分離令に従って、それまで別当をつとめた堂社を神社に変え、全てが神職となり、制度上羽黒派の里修験は消滅した。しかし、彼らは近世以来の活動を神道的な形式のもとに行い続け、特に湯立託宣は人々の要求も強く存続した。これを行う神子やその手引きをする法印・神楽衆は多くの人々の信仰を集め、修験的活動はむしろこうした人々の中に伝えられた。

 この章のように、一地域における里修験の在り方を各時代で区切るのではなく、中世末から近世、あるいは神仏分離・修験道廃止の前後という変革期を通して、その変容ぶりを追及するとらえ方は、地域における修験道研究を進める上で特に留意しなければならない視点であると評者も考えている。それは、地域において現在も生きる民間信仰や芸能の多くが、神仏分離令以降、形を変えながらも、かつての里修験の活動と繋がっている場合が意外と多いからである。しかしこれを忘れ、現行の民俗事例のみにとらわれた研究が多いのも事実である。そのような意味で、地域における里修験をはじめ、陰陽師などの宗教者の活動内容や存在形態を考慮し、それが現在とどう繋がるかという研究は今後各地において盛んに行われていくべきであろう。

 本書の後半を占めるのが峰入りの問題である。羽黒修験の秋の峰、冬の峰とその結願行事の松例祭は、単に羽黒修験のみではなく修験道の峰入りの本質を示すものと位置付け、第八章、第九章ではそれぞれの実態と根底にある思想を宗教学の観点から解明した考察が紹介されている。

 それによると、羽黒山の秋の峰は、大日如来・阿弥陀如来などの崇拝対象、及び祖霊などの諸霊のすむ霊界、宇宙の中心に入り込むことを示し、修験者はそこで崇拝対象と一体となる秘法を授けられ、救済カを体得して山を出ると説明されるが、儀礼の構造からみた場合に、むしろ入峰修業は祖霊の力と宇宙を動かしている法を知る能力を得るための儀礼ととらえる。さらに、超自然力を得た新しい存在になることを示す十界修業を中心とした修業上の理想、擬死再生の主題を示す象徴を衣体、飾り付け、儀礼などのなかに織り込むことによって示しているのがその特徴であるとしている。

 松例祭は冬の峰結願の験競べを中核とした祭りととらえる立場に立ち、これを行う松聖の修業に注目し、この視点から松聖の宗教的・社会的意味を明らかにしようと試みている。

 冬の峰と松例祭を合わせた全体の構造は、結界−浮火の操作能力の獲得を中心とした修業−火口の伝授−大松明への超自然力の付与−大松明を焼くことによる除魔(験競べ)−新しい火の作成(験競べ)というもので、儀礼全体が火のシンボルを中核として展開していることを指摘する。冬の峰の社会的意味を松聖の動きに注意し分析した結果、松聖は行人の宗教的なカに支えられて、松例祭の場において自分の代務者(小聖)を媒介として山上衆徒と山麓衆徒を象徴的に結び付けていることを明らかにした。これを宮家氏の切り口である一山組織との関わりで説明した場合、火の管理能力という荒沢や羽黒行人の宗教的権威のもとに、一山の行政を預かる山上衆徒と東北各地の末派修験を先達する山麓衆徒が結び付くことを劇的に表現したものが冬の峰、及び松例祭であると結論づけている。

 以上、本書の内容に添いながら拙い紹介を行ってきた。最後に通読した感想をもって纏めに変えたい。宮家氏は、これまで培われてきた豊富な経験と知識に基づき、羽黒修験の一山組織の変遷を跡づけておられるが、随所に羽黒修験を通じて修験道そのものの本質を探ろうとする視点が存在している。それは、序の結びでも記されているように、羽黒修験が宮家氏にとって修験道研究の原点をなす特別な存在であるからであろう。

 宮家氏の書かれた他の修験道に関する書物もそうであるが、現時点における問題点を全て網羅した構成をみると、氏の修験道研究は、歴史学、民俗学、宗教学というような狭い枠でくくることのできない「修験道学」(修験道を理解し、解明するための総合学)とでも表現したほうが相応しいような壮大なものであるように感じられる。実際、修験道という宗教は歴史的な追及のみでも、民俗学的な追及のみでも、宗教的な追求のみでも本質を理解することができないほど奥が深く、これを追求すればするほど、学際的にならざるを得ない。こうした修験道研究の奥の深さを本書を通じて改めて教えていただいた。


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