奥野 義雄著『祈願・祭祀習俗の文化史』
評者:小池 淳一
掲載誌:宗教研究333(2002.9)


                   一

 前近代日本の生活文化史研究が新たに社会史という名で呼ばれ、普及していくなかで、民俗研究の知見を生かした成果も数多く送り出されるようになってきた。しかし、それらの多くが前近代の時代相における分析や考察であり、現代にまで通底するいわゆる民俗事象の様態にまで目配りした研究は多くはなかった。本書『祈願・祭祀習俗の文化史』はそうした研究の空白を埋めるべく編まれた意欲的な著作である。

 ここでは前著『まじない習俗の文化史』(一九九七、岩田書院、以下、前著と略記)に続いて、庶民生活における信仰的な諸習俗が取り上げられ、それらの歴史的な遡及と考察とが行われている。本稿においては、その内容を要約、紹介しつつ、論点を確認したのち、若干の問題点を指摘して書評としたい。

                   二

 本書は、一四編の論考が五つに分けられ、さらに付編として六編の研究ノートが収められている。

 第一編は「祈り、今・昔」として「古代の都市と村の祭りごと」、「明治維新後の信仰・行事習俗−明治政府の習俗禁令史料を中心に−」、「明治維新後の祖先祭祀と年中行事習俗」から構成されている。「古代の都市と村の祭りごと」では、奈良〜平安時代の文献史料と遺跡からの出土資料とを検討した成果に基づき、畿内の都市貴族や村びとが行っていたであろう行事とその内容とを復元しようとしている。ここからは神祇・仏教の両者が互いに補いあいながら機能していたことがうかがえ、祖先祭祀や呪術的な信仰の基盤として農耕があることが指摘されている。また呪術的な信仰については「道教」以前の道術、方術などの存在に注意が向けられている。「明治維新後の信仰・行事習俗」では明治初めのいわゆる「府県史料」を用いて、葬送・墓制、行事、宗教者等に対する規制を取り上げ、こうした〈習俗〉の統制には民衆の結党・群集参を否定する意図があったとする。「明治維新後の祖先祭祀と年中行事習俗」では主として盆や彼岸に注目し、前章と同じく「府県史料」に見出される禁令や廃仏毀釈による習俗への影響を論じている。その結果、こうした規制にもかかわらず、祖先祭祀習俗は大きな変貌を遂げることなく現在に至っているとする。

 第二編は「神への祈りと祀りの習俗」とし「行事習俗にみる相関性」、「神楽御子にみる二つの展開について−大和の獅子舞を中心に−」から構成されている。「行事習俗にみる相関性」では山の神祭りに用いられる削り花(ケズリカケ)と年頭における左義長、節分、粥節句という一連の行事を取り上げ、その構成とともに古代から近世に至る史料上の記載を検討して、こうした行事の本来の意図と相互の関連とを探ろうとしている。「神楽獅子にみる二つの展開について」では奈良県内の二つの神社の祭礼に見られる獅子舞の様態を記述し、さらに中近世の文書によって、定着、変貌の過程を考察している。

 第三編「仏への祈りと祀りの習俗」は「孟蘭盆をめぐる諸習俗」、「念仏講について−大和の六斎念仏を中心とした−」、「地蔵盆における念仏講の諸相と地蔵盆の原初形態」からなる。

 「孟蘭盆をめぐる諸習俗」では、こうした習俗は古代以来の時代ごとの社会的必要によって醸成されてきた習俗の統合体であるとする。そして、客棚と迎え火・送り火、さらに「生きみたま」を具体的に取り上げ、中近世の記録と主として奈良県下の民俗事例とを指摘、記述し、その形成を考察するための問題点を確認している。「念仏講について」では大和地方の六斎念仏を主として取り上げ、それぞれの講集団が所有したり、かつて所有していた鉦や太鼓に着目して、その系譜、芸能性などを追究する前提条件を提出している。「地蔵盆における念仏講の諸相と地蔵盆の原初形態」では近畿地方の地蔵盆の実例を確認し、さらにそこにみられる念仏講に注目する。加えて鎌倉期以降の日記類にみられる地蔵祭りを取り上げ、地蔵講・地蔵祭りから地蔵盆への移行が想定できるとする。そしてそうした展開を導く要件を考え、また年齢・階層別の講が地蔵盆に関与していた可能性も指摘する。

 第四編「まじない習俗の祈りと願い」は前著のタイトルにも掲げられた「まじない」に関する習俗を追究、考察している。ここでは「春迎え行事にみるまじない習俗」、「まつりとまじない習俗の伝承」「神々に捧げる人形代−現行習俗事例と文献史料を中心に−」、「呪符・呪文の世界とその系譜」の四論考が集められている。「春迎え行事にみるまじない習俗」は新年の行事にみられる卯杖・卯槌、蘇民将来符、結鎮祭文、節分のオニノツメを取り上げ、記録史料における記載などの確認を経ながら、民間への受け入れの有無や時期に注意を向けている。「まつりとまじない習俗の伝承」は虫送り、名越(六月)祓を取り上げ、そこにはまじない習俗が見られるとともに、変遷を考えるには史料的な限界があると指摘する。「神々に捧げる人形代」は人形を用いる民俗行事を指摘し、さらに史料から見出される人形を用いた儀礼を確認して古代にまで遡るこうした人形代は形代一般に拡大して考察を進める必要があるとする。「呪符・呪文の世界とその系譜」では日本各地の呪符や呪文の民俗事例を提示し、類似の事例が古代以降、種々の文献や出土例にあることを指摘する。そしてこうした呪符・呪文ほ神仏双方が融合し、展開してきたものであることを主張している。

 第五編「神仏祈願・祭祀の伝承習俗の行方」は、本書及び前著を通じて、習俗文化史研究を構想、実践してきた著者の理論杓な集約、結実ともいうべき「伝承習俗の「断絶の時代」への不安と展望−古代・中世に消えていった習俗と現われてきた習俗から学ぶものとは−」と「「歴史の眼」を携えた伝承習俗の研究者の語り」とからなる。ここに筆者の方法的意識が提示されていると考えられるので、この内容についてほ次節で別途、検討を加えたい。

 付編として、奈良県における、亥の子祭り、宮座と祭礼、山の神信仰と賽物、涅槃講と涅槃会、六斎念仏講の用具、呪文が配された瓦に関する調査報告が載せられている。いずれも詳細丁寧な記述であり、筆者の粘り強く、多様な史資料に対する柔軟な視線を感じることができるものである。

                   三
            
 本書は前著とともに習俗文化史を構成しているといえよう。特に本書の第五編第一章で筆者は、こうした研究の意義について従来の研究の蓄積も併せて意識しながら、「‥〈伝承の断絶〉によっていわゆる〈民俗〉とその調査研究をあやぶむ傾向もみられるが、はたしてこの判断は正しいものか、否かを検討すべき‥」(三一〇頁)と述べて、理論的な考察を行おうとしている。そして古代、中世に現れながら次の時代には消えていった習俗と伝えられていった習俗とがあることを具体杓な行事を例に挙げながら主張している。さらに柳田国男の所説を取り上げ、彼自身が偶然記録と呼んだ史料と採集(民俗調査に基づく)資料との間に本質杓な差はない、とし、〈伝承〉の寿命は個々の〈伝承〉の社会的な存在価値によるのではないか(三二五頁)と述べている。

 ここで卓見と思われるのは、柳田の所説を検討するなかで、「「偶然記録された」史料はありえないと考える。「記録される」ということは、記録すべき目的・意図がなければならない。そして、その目的・意図には、その時代的あるいほ社会的情況も少なからず投影されている…」(三ニニ頁)と指摘している点である。ここに過去の伝承や習俗を考える際の史料の扱いかたの基本姿勢が提示されていると考えられる。伝承や習俗の表面杓な記述にのみにとらわれることなく、なぜ、記述されているか、その理由や史料そのものの性格についても考慮すべきであるという主演である。

 第二章では、柳田国男が民俗学に託した〈想い〉は何であるかに注目し、それは「元来一つのものが進化・多様化した伝承習俗の〈根源〉を明確にするための「文化史」であると理解すべき」(三三七頁)であり、「文化史」としての民俗学を主張する。続けて五来重や平山敏治郎、高取正男らの所説を参照しつつ、「…民俗学は、(中略)平民(常民)を含めた時代的な諸社会層の〈伝承文化の歴史〉であると把握」(三四四頁)する。そして、柳田国男の歴史学否定=記録の否定と伝承記録、採集記録の肯定とを繰り返す論法のなかで、〈記録〉の活用が回避されてきたのではないか (三四九頁)、と指摘する。

 ここでも注目すべき見解が示されている。それは常民概念を人々の階級否定から創造されたものとし、「…百姓・農民や職人・商人などの社会層のままの名称で何故に〈民俗〉が究明できないのかである。歴史科学の同一の土俵で討究することを意図するのであれば、古代中世の貴族・公家も、武家も、そして農民・百姓もさらに近世の武士も、商人も、農民・百姓も社会杓・政治的・経済的・文化的側面を持ちながら、各時代を生き続けてきた諸社会層から文化的側面以外を取除く必然性はないのではないだろうか」(三四四頁)というものである。

 筆者の主張を評者なりに要約すれば、民俗学は広義の文化史研究であり、筆者の提唱する「習俗文化史」は、その対象を常民もしくは庶民に限ることなく古代以来のさまざまな記録類に記載された習俗も対象に取り入れることで成り立つもの、と言えよう。これは前著以来、多くの古記録や古文書、関連する金石文や遺物、遺品なども考察、分析の対象としながら、一貫して習俗の存在を歴史的に位置づけようと努力してきた筆者の到達点と考えてよいだろう。本書は、こうした従来の民俗学の枠組みを資料のレベルから超えたユニークかつ斬新な試みを展開した論文集ということができるのである。

                   四

 以上が、評者なりに読みとった本書の意義であるが、こうした論旨をたどりながら、いくつかの疑問も浮かび上がってきた。それを次に記しておいて、筆者及び今後の読者の参考に供することとしたい。

 第一に筆者も主張するように(三二二頁)、記録、文書類の利用にあたっては、その性格や記載内容の吟味が不可欠であるが、本書において、そうした作業は充分に行われてはいない、という印象がある。具体的には多くの古代、中世の日記類に論及がなされているが、僅かな例外(二一二頁−二一三頁)を除くとその性格や史料的特性についてはほとんど言及されていないのである。そうした個々の史料の位置づけや考察は既知の事柄に属し、紙幅を費やす必要がないかのように叙述が進められているが、これはいささか不親切であり、また史料批判というレベルでも不充分と見なされる可能性がある。

 第二に前著と本書とを通じて主張されている習俗文化史の構想は、本書のあとがき(四〇六頁)にもふれられているように平山敏治郎の所説に拠る部分やそこから発展、継承した問題意識に基づくものと言えようが、こうした歴史研究のなかに民俗的な追究を織り込もうとし、研鑽を重ねてきた研究者は他にも多く存在するにもかかわらず、省みられていないように思われる。例えば、和歌森太郎の『歴史研究と民俗学』(一九六九、弘文堂)の第一章「歴史研究と民俗学」に集約された諸論考は、時代ごと、分野ごとの民俗や習俗の展開過程とその民俗研究における位置づけに一定の見通しと整合性とを兼ね備えたものと評者は考えるが、本書では言及されない。平山敏治郎のいう「史料としての伝承」には親近感と再評価の必要性を感じさせるが、和歌森太郎らの「歴史民俗学」は顧慮されていないように思われるのである。これは研究史的把握における難点ではないだろうか。なお、蛇足ながら評者も筆者の見解に極めて近い立場で「伝承史論」の確立を考えてみた(拙稿「伝承史論への展望」『日本民俗学』二一六、一九九八、参照)が、立論の方向性が異なるためか、取り上げてはもらえていない。

 なお、研究史的な把握という点では、二五〇−二五一頁における「組屋六郎左衛門」の札については大島建彦に『疫神とその周辺』(一九八五、岩崎美術社)があり、最近では疱瘡よけの護符のなかでも「湯尾峠の孫嫡子」については近世宗教史からの分析も行われている(澤博勝・井上智勝「湯尾峠茶屋と孫嫡子信仰」福井県教育委員会編『歴史の道調査報告書第二集北陸道U・丹後街道T』、二〇〇二)ことも付記しておく。

 第三に本書は一九八二年以来、個別に発表された論考を集成したものであるが、その後の改稿あるいは一書として構成し直す際に、それほど充分には手を加えられていないようである。もちろん、三〇二頁等に見られるように重要な加除修正は行われているのであろうが、四三頁等に見られる「別稿」は注記がなく、また各論文のつながりが見えにくく、不親切な印象が拭えない。

 第四に、現行習俗、民俗事例として用いられる資料の出典は、筆者自身による精細な報告以外は一九七〇年代に刊行された第一法規の『日本の民俗』シリーズや角川書店の『日本民俗誌大系』に多くは依拠しているが、これは民俗研究の現状とはややかけ離れた資料の選択であろう。また近世の民俗的な事象が記載されている史料として「諸国風俗問状答」が用いられているが、平山敏治郎による注解が施された『日本庶民生活史料集成(第九巻)』(一九六九)収録のものではなく、中山太郎による『校註諸国風俗問状答』(一九四二)が用いられている箇所(三二七頁等)があり、これも民俗研究の現状からはやや後退した資料利用である。

 第五に評者のみの感想かもしれないが、本書を読み進めていくと行文がやや難解で文意を汲みにくい場合があったことを率直に記しておく。事例に掲げられた伝承地の多くは奈良県内もしくは近畿地方であるが、東北地方などにも言及されており、その範囲はいささか融通無碍で、文献記録との関連の点でなお、説明が必要なようにも思われた。なお誤植、校正漏れと思われる箇所も併せて指摘しておく。二〇九頁二二行目「柳田国男・関敬吾監修の『民俗学辞典』」は「柳田国男監修・財団法人民俗学研究所編の『民俗学辞典』」、二一六頁四行目「祇大明神事」は「祇園大明神事」、二五一頁一六行目「体勢」は「体制」であろうか、似たような疑念が起きる箇所としては二六三頁一八行目の「祀り」は「呪い」かとも思われる。

 以上、いささか細部にもこだわりながら本書の持つ問題点を指摘してみた。もとより浅学非才の評者の妄言であるから、筆者の思索や論理展開を充分に消化しきれていない面も多々あると思われる。そうした点については筆者及び会員諸氏の御寛恕を乞いたいと思う。

                   五

 最後に本書の意義を再度、確認し、本書に取り上げられた領域への今後の期待を記して拙い書評を閉じさせていただこうと考える。

 本書は前著に続いて、まじないや祈り、祀り、といった民俗学における心意現象に属する分野の史的な展開を、民俗学的な聞き書きや観察などに拠る記録にとどまらず、古代以来の記録、文書類を活用し、さらに金石文や出土資料、遺物など幅広い史資料にも目配りして論じたものである。そこには長期にわたる筆者の粘り強い探求と、「習俗文化史」の建設に向けての持続した思索があった。本書は、民俗研究における心意の歴史という空白に近い領域に挑んで、重要な知見を多く提示した論文集である。今後、この領域の問題を考えようとする場合、避けては通れない業績と言えるだろう。

 そして本書を方法論のレベルから批判的かつ内在的に読み解き、筆者の試みに対して単なる批判ではなく、具体的な作業を通して、真の超克を試みることが、これからのこの領域の研究者には求められよう。評者もその群に身を投じている自覚だけはあるが、筆者との距離を考えるといささか茫然の感がある。こうした領域に立ち向かう研究者が本書に学びつつ、増加することを願ってやまない。味読をお奨めしたい。


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