高原 豊明著『晴明伝説と吉備の陰陽師』
評者:鈴木 一馨
掲載誌:宗教研究333(2002.9)


 安倍晴明のことを記した書物が出版されるようになって久しい。大抵の書店では、小説・漫画・雑学書・占い本など、全てのジャンルが揃っていなくとも、いずれかのジャンルで安倍晴明に関連した書物が置かれている。下火になりつつあるとは言え、安倍晴明ブームはいまだに続いているのである。そのブームを支えているのは、安倍晴明への興味だけではなく、晴明の活躍の場である陰陽道への興味であり、社会不安を背景とした占いの需要であり、晴明を主人公とした映画やテレビドラマの俳優への熱狂であり、もやもやした状況を吹き飛ばすヒーローヘの憧憬である。

 かくして、これらの要求に応えることによって、安倍晴明のブームは再生産されている。
 本書『晴明伝説と吉備の陰陽師』は、そのような状況の中で安倍晴明を主題として扱っていながら、ブームの再生産には全く寄与しない希有の書物である。

 この、ブームの再生産に寄与しないこと、それは本書にとって名誉なことかもしれない。なぜならば、後述するとおり、安倍晴明ブームは、安易な安倍晴明像の再生産によって担われているからである。

 本書は、著者である高原豊明氏の十年余に亙る安倍晴明の伝説・言説に関するフィールドワークの結晶である。高原氏によるフィールドワークの成果は、すでに『写真集 安倍晴明伝説』(豊喜社、一九九五)、および『安倍晴明伝説』(PCP、一九九九)によってまとまった形で公表されているが、これらは学術書と言うよりは啓蒙書としての性格が強い。これに対して、本書は、学術論文集として初めて高原氏が著したものである。それと同時に、評者の記憶の限りにおいて、「安倍晴明本」とまで呼ばれる安倍晴明を主題とした各種の書物の中で、初めて出版された学術論文集でもある。

 ここで、本書の構成を紹介しておく。(中略) 

 以上のように、本書は二部構成を取っている。そして、第一部で全国に展開する晴明伝説の傾向を分析しながら、吉備の晴明伝説の特性を求めようとし、第二部で岡山・香川・広島に見られた陰陽師「上原大夫」の、宗教的・民俗的・社会的な位置付けを試みようとしている。

 このうち、第一部は、第三章において、『吉備物語』に記された晴明伝説の紹介と分析とを皮切りにして、さまざまに展開される晴明伝説の様相を紹介する。『吉備物語』は、貞享元年(一六八四)に在田軒道貞によって著された書物で、高原氏はそこに記された晴明伝説が、在田軒道貞による現在の金光町でのフィールドワークの成果であると指摘している。そして、高原氏自らが金光町におけるフィールドワークを行なうことによって、道貞が書き残した晴明伝説を再検証し、さまざまな史蹟やランドマークにどのように安倍晴明が関連付けられて語られているのかを説き明かしていく。この際、高原氏は、単に道貞が取材した金光町の事例のみを対象とするのではなく、高原氏自らのフィールドワークによって収集された全国の晴明伝説における類似の事例を挙げることによって、『吉備物語』に記される晴明伝説が、金光町あるいは吉備に独自のものでなく、晴明伝説としてパターン化されていることを示す。

 この『吉備物語』の晴明伝説の分析で用いた、史蹟やランドマークに付帯する晴明伝説を全国の晴明伝説の中で位置付けるという方法は、本書の第一部において一貫して用いられる方法である。以下、第三章では岡山県の瀬戸内沿岸地域と美作を、第二章では兵庫県の瀬戸内沿岸地域を、第三章では岡山県の瀬戸内沿岸地域と奈良市・鳥取市を、第四章では大阪市の阿倍野に始まる熊野参詣路を、第五章では神東川県の鎌倉市・藤沢市を、第六章では京都市内と京都市周辺部を、それぞれ主としたフィールドとして設定し、そこにおける晴明伝説を分析している。そして、第六章までが各フィールドの晴明伝説を、他地域の類似の晴明伝説との関連性からそのフィールドに位置付けていったのに対して、第七章では、フィールドの枠を取り払い、晴明塚・晴明屋敷・晴明井戸のそれぞれに共通する晴明伝説の体系を明らかにしようと試みる。

 第二部では、「上原大夫」が吉備の「陰陽師」の地位をどのように得たのか、そしてそれが民俗社会にどのような宗教的・社会的役割を果たしたのかを論ずる。近世、十七世紀中期以降の陰陽師は、安倍晴明の後裔である土御門家による免許を請けて初めてその活動が公認されるのであり、上原大夫もその例に漏れない。ただし、上原大夫は当初から「上原大夫」として存在したのではなく、十五世紀には「散所大夫」と称される陰陽師として歴史資料上に見られ、そのうち上原村の枝村である富原村(現、岡山県総社市)に集住していた者を指す。岡山池田藩では「上原大夫」としてではなく、「備中富原陰陽師」として認識されていた者が、民俗社会では「上原大夫」と認識された。その上原大夫は、吉備地域に展開した晴明伝説と直接の関係を持つのではなく、独自の成立をした民間陰陽師であった。

 それが土御門家支配になり、触頭の地位を得るに及んで、岡山池田藩からも正規の陰陽師として認定され、藩内の移動の自由を得るなど、あくまで陰陽師としての枠内であるが、自由な活動が認められた。触頭の地位を得たことによって、上原大夫はこの地域における地方陰陽師の中での政治的絶対性を得たのであり、吉備地域に展開された晴明伝説を巧みに利用しつつ、民俗社会における祈祷師としての地位を確立したことを、高原氏は述べる。

 次に、本書の問題点を挙げる。

 まず第一に、本書は全体としてフィールドに関する情報が少ないことが挙げられる。特に第一部において、全国に伝わる安倍晴明伝説を紹介しているにもかかわらず、その対象地が現在のどの市町村であるかの明示が少ないことは、本書においてもっとも重要視すべき問題である。「○○の晴明伝説」という標題がされた後、その土地に関する概要が示されないままに、事例に則した地名が次々と挙げられるだけでは、該当のフィールドについての基礎的情報を持たない者にとっては、内容の理解が防げられてしまう。しかも、歴史資料も援用しているから、現在の地名と歴史的地名が混在もしているのである。高原氏にとっては、当該のフィールドはすでに知った場所かもしれない。しかし、読者はそのフィールドを熟知しているとは限らないのである。せめて、各章の標題にされた地域、できれば本書で主として扱った村落の地図を付すべきではないだろうか。

 フィールドに関する情報が少ないことの問題は、単に地名の混乱を生じることばかりにあるのではない。それは、どのような性格の場所の資料が使われているのか、という根拠の問題に直結する。第一部の各章題にある、「吉備」「播磨」「熊野」「相模」「京」という地域は、それぞれが宗教や交通・地形・政治・経済・宗教などの環境に特性を有する小さな地域の総称である。したがって、晴明伝説が、それら標題の地域の全体を覆うように存在しているのか、その中の特定の神社の存在するところにあるのか、特定の交通路に沿ったところに存在するのか、はたまた特定の地形環境のところに存在するのかということは、晴明伝説の性格を知る上で重要な情報である。つまり、フィールドに関する情報が少ないままに、全国に点在する関連事例を列挙されても、そこに有機的関連性を見出すことは難しいのである。類似事例が列挙される場合、学問研究の上ではそこになんらかの有機的関連性が認められなければ無意味である。高原氏にはその関連性がわかっているのかもしれないが、情報不足の中で列挙される事例は、読者にとって偶然の一致であると判断する余地を残している。

 さらに、フィールドに関する情報不足の問題点を挙げる。

 第一部の各章において章・節・項の各標題に示された地名を評者が調べたところ、さまざまな階層・性質の地名が現れていることが判った。つまり、それは階層・性質の違いを考慮することなく、各地が同列であるという前提のもとに扱っていることを意味する。たとえば、第三章では「鴨方の真備伝説」「吉備郡の真備伝説」「大和の晴明伝説」「因幡の真備伝説」と各項の標題がつけられているが、鴨方は岡山県浅口郡鴨方町、吉備郡で対象となっているのは真備町と矢掛町となっているが、矢掛町は現在小田郡に含まれており、「大和の」と題された中で挙げられるのは奈良市と桜井市、「因幡の」と題で挙げられているのは鳥取市の事例である。たとえ、考察を集約すべき鴨方が現在の自治体ではなく、江戸時代の集落をその範囲として設定したと高原氏が主張したとしても、鴨方(村)と同列に「吉備郡」「大和(国)」「因幡(国)」と規模の違う地域名を挙げるのはどうであろうか。ましてや因幡は現在の鳥取市内の事例しか挙げられていない。高原氏が広範な地域で丹念なフィールドワークをされているのは、本書から十分に窺い得るのであるが、それでも個人によるフィールドワークでカヴァーできる範囲というのは自ずと限界がある。そのカヴァーした地域を的確に示すことによってこそ、晴明伝説の全国的な展開の様子が明らかになるのであり、そのなかでの吉備の晴明伝説の位置付けをすることができるのではないだろうか。

 第二に、本書の特に第一部における構成上の問題を挙げる。第一部でされているさまざまな地域での晴明伝説の分析は、史蹟やランドマークに付帯する晴明伝説を全国の晴明伝説の中で位置付けるという方法によって貫かれており、晴明伝説を構成する事象の性格はそれによって、きわめて明確にされている。しかし、第一部の第三章から第六章までの章題は「○○の晴明伝説」とされ、一見すると各地域における晴明伝説を共通した姿勢によって分析しているように受け取られるのだが、実際には各章ごとに分析の姿勢が違っており、またその関連性が希薄なために、晴明伝説の多様性は理解されるものの、それらの事例分析によって高原氏が晴明伝説のなにを説き明かそうとしているのかがわかりづらくなっている。

 第一部の各章の構成がどのようになっているのかその性格を挙げてみるのならば、第三章では吉備の各集落の晴明伝説という地域によって分節し、第二章では播磨の晴明伝説と道満伝説という伝説の主体によって分節した上で、さらに史蹟・ランドマークごとでの項目分けをしている。また第三章では分節せずに吉備真備伝説のみを扱っているが、前述の通りレヴェルの違う地域ごとに項目を設定しており、第四章では熊野の集落と参詣路(九十九王子沿い)という性格の違う地域概念を同列に扱って分節した上で、参詣路の方では若干の王子(この場合は遺跡・ランドマークとしての扱い)による項目設定をしている。さらに、第五章では集落による分節をした上で、晴明伝説を記した書物による項目設定をし、第七章では京の内外による分節の上で、晴明伝説の伝承者の系統による項目設定をしている。最後の第七章において晴明に関係付けられている事物の性格分析をしており、この章のみその章題の建て方が前の六章と違っていることから分析の姿勢が違っていることが理解できる。

 このことは、第二部がそれを構成する各章の章題の多様性から、高原氏の上原大夫に対する多角的な分析を行なおうとする姿勢が窺い知られ、また、各章の内容もその章題に沿ったものであるために理解がし易いのと対照的である。書名が一見してその書物の内容を的確に表さなければ意味がないのと同様に、章題もやはりその章でなにを語っているのかがわからなければ無意味である。高原氏が第一部において、特定の地域を主題とした事例の分析を総合して、晴明伝説とはなんであるのかを説き明かそうとしていることは十分に理解できる。しかし、姿勢が違う各章をその違いが見分けられないような画一化された章題(標題)で並べることは、本書を構成する際に高原氏が各章の姿勢が違っていることを認識していなかったと理解せざるを得ない。このことは、単に標題という表面・形式的な問題ではなく、分析姿勢の多様性を的確に示せないという構成上の問題だと考える。

 現在の安倍晴明ブームは、「安倍晴明本」と称されるジャンルを生み出すはどの勢いを持っている。しかし、同時にこの「安倍晴明本」というのは、実はブームの再生産以上の意味を持つものではなく、安倍晴明の姿を描くにしろ、乏しい晴明関連の言説を使い回すか、全くの空想によって新たな晴明像を創作するかのいずれかでしかない。言い方を変えれば、学術的な内容を全く考慮しない安易な安倍晴明像の再生産によって、典拠となる古典は使い尽くされ、ブームを支えていくためには珍奇な安倍晴明像を作り出していくしか他に道がなくなっているのである。古典という歴史的背景を背負った安倍晴明像が、晴明に関する一般の知識としてできあがっている以上、これから創作される珍奇な安倍晴明像が安け容れられることは難しい。

 高原氏は第一部の結論に、晴明伝説が現代において史実としてのリアリティを喪失してしまったが、フィクションとして再構成されるに及んで文化としてのリアリティを獲得したとされている。評者が思うに、高原氏のいう「文化としてのリアリティを獲得した」晴明伝説とは、決して現在のブームにおける使い回され奇抜な存在となってしまった安倍晴明の姿を指すのではないだろう。フィクションでありながら普遍性を持つ安倍晴明の姿、それは歴史上の人物としての晴明、生身の人間としての晴明の再構成ということなのではないかと理解される。

 本書は安易な安倍晴明ブーム、ひいては陰陽道ブームに対して、豊富な事例検証によって厳しく問題を指摘する戦いの書でもある。それと同時に、個別地域的な晴明伝説から「文化としてのリアリティ」を持つ、普遍的な晴明伝説を探り出した、記念碑的な書である。

 評者は本書の書評を引き受けたのはよいが、民俗学に門外であり、また丹念で多数のフィールドワークの成果に圧倒されて、高原氏の意を十分に汲み得ない書評をしたのではないかと思っている。好著を不用意に批判した失礼をお詫びしながら、本書評を終える。


詳細へ 注文へ 戻る