渡邊喜勝著『文字マンダラの世界』
評者・間宮啓壬 掲載紙 仏教タイムス( 99.4)

日蓮研究を担ってきた、また現に担っている主要な立場として、次の二つを挙げることに異論はあるまい。一つは、信仰を同じくする宗門人達によって蓄積されてきた「宗学」、もう一つは、宗門とは一定の距離をとる「思想史」の立場である。こうした研究状況にあって、本書の立場は一風変わっている。著者の渡辺喜勝氏は、東北大学で「宗教学」を学んだ研究者であるが、本書では、西洋に成立基盤をもつ「宗教学」の諸理論を、日本の仏教者である日蓮に、そのまま適応して分析するという方法はとられない。そうした安易な方法は、基本的には拒絶されているといってよい。著者はあくまでも日蓮自身に即して、日蓮を内在的に理解しようとするのであるが、その際、後述するように、「宗学」とも「思想史」とも異なった独自の立場から、日蓮の宗教が語られるのである。そうした独自性は、著者が「宗教学」を学んできたことと決して無縁ではあるまい。
本書を貫く基本的な立場は、著者言葉を借りるならば、「日蓮の宗教をできるだけ総体として把握」することである。この立場は、本書の全編を通して堅持されている。なによりもそのことに、同じく日蓮を研究する者として感銘、というよりも圧倒される。
一般的にいって、「宗学」の場合、日蓮における信仰の「理念型」を、特に教理教学に関わる日蓮の言説に即して提示することに関心が傾かざるを得ない。それが「宗学」の担うべき使命だからである。しかし、「理念型」を求めるものである以上、ややもするとスタティック(静的)な日蓮像を描き出しかねない。その点、本書の著者は、日蓮という人物が教理教学を語る明晰な論理性とともに、豊かな情感の持ち主であり、その両側面を分かち難い仕方でダイナミックに表現しつつ、実際に信者と接し、教導していった宗教者であることを常に念頭においている。表面にあらわれた言葉の集大成としての日蓮遺文以上に、「文字マンダラ」という日蓮に特異な表現形式に関心をもち、それを直接の研究対象に選んだのは、著者のこうした姿勢からすれば、むしろ必然的であるといえよう。
さて、日蓮研究のもう一方の柱である「思想史」の立場、殊に近年多大な影響力を発揮している顕密体制論に基づく立場が、鎌倉新仏教に頂点をおく発展史観の危うさを指摘し、日蓮の位置づけに関しても新たな知見を提供してきたことは、今更いうまでもない。しかし、そうした立場も、日蓮という宗教者のもつ生き生きとしたダイナミズムにまで目を配ることは、まずなかったといってよい。これは、日蓮をあくまでも「歴史」の文脈でみようとする方法自体の限界であるといえよう。
このように本書は、「宗学」にも「思想史」にも還元されない独自の方法で、日蓮の宗教という「有機的な統合体」を描き出すことに成功しているのである。
紙数に限りがあるので、全八章から構成される本書の詳細にまで踏み込むことはできないが、次の点にだけは触れておきたい。それは、「一遍首題」の形式をとる「文字マンダラ」の、「本尊」としての根源性・本質性を、本書が指摘している点である。日蓮晩年の弘安期におけるいわゆる「大曼荼羅」は、それが法華経の本門において成就されだ世界であることを明示するという対機的な意味では完成態といえるものの、「本尊」としての最も端的な表現という意味では、「一遍首題」、つまり題目だけで十分なのである。題目の意義を考えれば、むしろ当たり前といってよいこのことに、「宗学」もまだ明瞭には気づいていないのではないか。恐らく、弘安期の「大曼荼羅」が完成態であるという、それ自体としては決して誤っていない常識が幅をきかせすぎて、「文字マンダラ」の対機的な意味での成熱度と、「本尊」としての根源性・本質性とが混同されてしまっているのだと思う。本書におけるこうした指摘は「文字マンダラ」に中世の多宝塔の形をみる見解や、首題の直下に大書された自署に、時空を超えて法華の会座に連なったという日蓮の自覚と、地上にあって題目を支えようとする日蓮の意思 を読み敢る点などとともに、本書を刺激に富んだものにしている。
なお本書は、一遍と日蓮について論じた著者の学位論文から、日蓮の宗教論の部分をまとめたものである。一遍の宗教論については、『一遍智真の宗教論』(岩田書院、平成八年)として既に刊行されていることも付言しておく。
間宮啓壬(けいじん)・身延山大学専任講師
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