高野 修著
『一遍聖人と聖絵』
評者:岡本 貞雄
掲載誌:「時衆文化」第6号(2002.10)


 あの岩田書院から、高野先生が一遍関係の著書を出版されると聞いたときの感慨は一入のものがあった。近年岩田書院から刊行される一遍関係の書物は目を見張るものがある。金井先生、砂川先生など錚錚たる方の出版物が続いている。その流れでいくと、相当専門的なものが出版されるものと思い込んでしまった。また新しい一遍上人研究が世に出るという期待は、この方面の研究を細々と続けている者にとっては大きな喜びである。まして、著者は時宗史研究の第一人者である高野先生。即座に書店に発注した。

 しかし届いた本を見て驚いた。B六版一四○ページ。何故この本が一万円もするのか。定価をよく見れば、一桁間違っていた。千円であった。私の見誤りで「岩田書院」「高野修」「一遍」の三つの単語からの思い込みである。当然、高野先生の著作であれば、一万円が十万円であっても注文するのであるが、千円とは……

 現物をみると、表紙カバーは、素晴しく品がよい。これだけで売れる。学生時代、仏教系の出版社で五年間アルバイトをし、現在は経済系の大学に籍を置く者の悲しい性である。書店のしかるべきところに並べれば相当部数いけるのではないか。そのような印象を持ちつつ、ページをめくりながら疑問に思った。何故高野先生はこの本を出版されたのであろうか。先生とは一度しかお目にかかった事はないが、時宗史研究における業績はまばゆいばかりのものである。宗門の方ではない、在野の立場で研究を続けてこられた方である。宗門外の人間が、時宗史を研究していく事は大変な困難を伴うが、それを淡々とこなしてこられた方である。その蓄積としての一遍上人研究には大いに魅力を感じる。『一遍聖絵』の都合のよいところだけを利用し、感覚的に一遍上人をとらえ一冊にされた方は多いが、七百年に及ぶ時宗史を踏まえて一遍上人が書けるのは、高野先生しかおられまい。どのような一遍像を描かれているのか、楽しみに読ませていただいた。

 さすがに、過去の一遍研究の成果はよく押さえられており、本書の規模からすると史的な部分もよく検討がなされているようである。『一遍聖絵』をもとに一遍伝を記していく手法は変わらないが、安心して読み進める事が出来た。先に記したように、本書はB六版一四○ページのものであり、そう多くの事は記されていない。物足りなさはぬぐえないが、そのことについて「あとがき」に

 本書は、時宗宗学林での講義から生まれたものであります。(中略)この機会に、私の一遍についての思いを追求したのが本書であります。
 なお、昨年は総本山清浄光寺を会場として、遊行フォーラム実行委員会主催の「一遍聖絵を読む」と題して本稿を使用しての講義をさせていただきました。その折に、参加された受講者の方々から質問をうけたことをも参考にして、学林の講義に手を入れて成ったのが本書であります。

と記されており、この本が、俗に言う一般の方に一遍上人のことを紹介するためのものであることは理解できた。当然その基となったのは宗学林での講義であるから、一遍上人についての史料的検討が十分になされていることは当然であった。その点では一遍伝として優れたものであることは疑いない。

 ただ本書のねらいは別に存在するのではなかろうか。それは高野先生ご自身の、一遍上人に対する熱き思い入れの表明であろう。「一遍の念仏とは」といったような大上段に構えた『一遍聖絵』解釈が随所に見られる事が、本書の大きな特徴である。

 一遍の念仏をすすめる態度に我執が存在していたのです。念仏者としての気負いがあったのです。それは驕慢の心でしかなかったのです。(三五ページ)
 一遍の境地には一切の執着は無いのです。念仏が念仏しているだけのことであって、念仏も往生するための念仏ではない。そこにあるのは無だけなのです。無心の念仏、無我の念仏とよんでもよいではないでしょうか。(六七ページ)
 一遍のいう臨終往生とは、我執や迷いのない、無心の念仏なのです。無心の念仏を唱えられるようになれば、生と死とかは関係なく、すべてこの無心の念仏に包括されているというのです。(一一三ページ)

 宗門の方ではとてもここまでは言い切れないのではなかろうか。どちらかといえば、禅宗の方のされるような念仏理解に思える部分が随分あり、読者をして新しい一遍上人理解に誘われる可能性のある内容といってよいであろう。

 この本の出版経緯を存じ上げないので、失礼になるかとも思うが「あとがき」に「最初は一遍とアシジのフランシスコを対比させてまとめましたが、分量が多くなりますので本書では、フランシスコの部分を割愛することにいたしました。」と記されている。本書の一体どの部分にフランシスコの内容が加わっていたのであろうか。別の機会に刊行の予定がおありのようなので、楽しみにしているが、恐らく本書とは随分変わった内容になるのではなかろうか。また本書刊行のために行われた割愛作業のために、高野先生が本当にお書きになりたかった部分が不鮮明になったのではなかろうか。単純な校正ミスが見受けられることとあいまって、次回の著書に期待したい。


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