清水 紘一著
『織豊政権とキリシタン』
評者:村井 早苗
掲載誌:日本史研究480(2002.8)


 本書は、戦国末から織豊政権にいたる時期において、日本に」渡航したポルトガル・スペインとの通交関係、および修道会を媒介環として日本にもたらされたキリシタン宗門と同宗団の諸問題等について、多岐にわたって論究したものである。当該時期の対外関係、キリシタンの問題に新たな知見を加え、多くの課題を提示している。本書の構成は、以下の通りである。
(目次、略)(第一部・第二部、略)

 第三部は豊臣政権とキリシタン問題との関係について諸側面から論及したもので、本書の構成の約半分を占める。

 第三章では、豊臣秀吉が天正十五年(一五八七)のいわゆる「伴天連追放令」発令の一年前に、布教許可状ともいうべきものをイエズス会に発給した事実を、宣教師側の記録によって指摘する。そしてこの布教許可状発給の意図を、秀吉による宗教統制権および外交権の掌握に求めている。

 またこの布教許可状をイエズス会から提示されたことによって、字喜多秀家、小早川隆景、毛利輝元らが領内における布教を許可したことなど、興味深い事実を指摘している。

 第二章では、天正十五年に秀吉が九州平定途上に表明した博多基地化構想を検討し、それと伴天連追放令発令との関連を考察する。豊臣政権は、従来、個別の戦国大名が行っていた中国・朝鮮・南蛮国との外交・貿易権を掌握するため、博多基地化構想を打ち出した。その意図は、博多を外国船の船着場として外交・貿易権を統一し、朝鮮出兵の本営とするものであった。しかし従来、中国・朝鮮国・南蛮国との外交・貿易を担ってきた大名たちの抵抗や、イエズス会・ポルトガルの博多廻航謝絶などにより挫折したというのである。本章では個別大名の外交・貿易について指摘されており、その編成のために博多基地化が構想されたとする視点は新鮮であった。

 第三章は、天正十五年六月十九日付「伴天連追放令」について、その公布形態を中心に検討している。この追放令は、ポルトガル船とイエズス会に一通、筥崎八幡宮に一通、秀吉の凱旋後伊勢神宮に一通、合計三通が発給されたとし、国内・国外に対し発せられた全国法とする。しかし、同追放令については史料的制約に加えて、前日に出された「十八日覚」とともに、何故、伊勢神宮に出されたのかという疑問は残る。また「十八日覚」から「十九日定」(追放令)への転換がわずか一日であることについて、もう少し説明してほしかった。

 第四章は、高山右近のキリスト教信仰が、茶道の「志深キ」精神と士道の精神(志操堅固)とに支えられており、自領民の救霊事業を「手柄」とするものであったとする。

 第五章は、伴天連追放令発令後の長崎収公過程を検討し、大村(長崎)・有馬(浦上)両氏によりイエズス会に寄進された当該地域の領主権について考察する。長崎没収から代官任命まで十月余りあり、その間の支配のあり方を追究している。

 第六章は、文禄・慶長初年の豊臣政権による日本・スペイン(フィリピン)交渉について言及する。特にサソ・フェリペ号の積荷没収について、従来、乗組員の不穏当な発言によるとされていた点を、積荷没収の正当化のための「事実」を秀吉政権が演出したとする。そしてこのことが、二六聖人の殉教につながったと推論する。

 第七章は、統一政権成立をなしとげた織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の神格化を検討している。そして近世初頭の天下人の神格化は、神道を軸として仏教・儒教・天道を理論的支柱とし、このことが宗教体制の枠組みを規定し、人々の宗教生活の大枠と死生観を決定し続けたとする。この人々の宗教生活の大枠と死生観とは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。今後の課題として、受けとめたい。

 なお第三部には秀吉の九州平定のための征旅と行軍の記録『九州御動座記』を収録し、その解題を付している。

 以上、本書の内容について紹介し、若干の意見を申し述べてきた。本書は、戦国末から織豊政権にいたる時期において、日本が出会ったポルトガル・スペイソとの交渉と、それに伴うキリシタソの伝来について、壮大な構想のもとに構成され、多岐にわたる論点を提起している。従来、通説とされてきた点について、内外史料を洗い直し、新たな推論を提唱している。当該時期の、特に対外関係に関する史料的制約により、推論にとどまらざるをえない点も多いが、清水氏の提起された課題を今後、追究していくべきであろう。なお、見当違いによる誤読も多々あるかと思うが、著者および読者の方々に御覚恕を願いたい。
(千葉市市川市菅野一−一八−七)


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