福江 充著 『立山信仰と立山曼陀羅−芦峅寺衆徒の勧進活動−』
評者:高達 奈緒美
掲載誌:絵解き研究16(2002.3)


 本書は平成十年四月に刊行されており、「新刊紹介」として取り上げるには遅きに失してしまい、しかも、近日中に同著者による続巻が同じく岩田書院から刊行されるとのことである。が、絵解き研究においても大きな一画を占める立山信仰・「立山曼陀羅」に関する労作であり、今後同分野を研究するうえでベースとなる著述であるため、「紹介」させて頂くことにする。

 本書の構成は、次のとおりである。(中略)

 著者の福江氏は、富山県〔立山博物館〕に主任学芸員として勤務しておられる。立山信仰に関しては、高瀬重雄・川口久雄・長島勝正・廣瀬誠・林雅彦・岩鼻通明らの諸氏による優れた論考や資料翻刻が多数あり、そうした蓄積のうえ、平成三年、立山山麓芦峅寺の地に、立山風土記の丘民俗資料館を前身とする立山博物館が開館した。その活動のなかで、著者をはじめとする学芸員諸氏のたゆまぬ努力によって、自然・歴史・民俗の分野にわたる立山の姿がさらに明らかになってきている。本書の成果はもちろん著者個人によるものであり著者に帰するものであるが、同博物館が生み出した大きな実りでもあると言えよう。

 以下、内容を細かく見ていきたい。
 
 本書の巻頭には、「立山曼陀羅」四一点(うち八点がカラー写真)の図版が掲げられ、巻末に一本ずつについての詳しい解説が付されている。「立山曼陀羅」諸本の図版は、長島勝正氏解説『立山曼陀羅集成』第一期・第二期(昭和58、昭60、文献出版)、林雅彦氏『日本の絵解き−資料と研究−』(昭57、昭59増補版、三弥井書店)などにおいて紹介されていたが、富山県〔立山博物館〕開館記念展図録『立山のこころとカタチ−立山曼陀羅の世界−』(平3、富山県〔立山博物館〕)に二六本の図版が収められ、その後同博物館で新たな伝本の調査・研究・紹介が進められてきた。本書の口絵写真と解説はそれを踏まえたものとなっており、資料的価値が高い。

 第一章は、芦峅寺閻魔堂の前庭に墓碑の建つ龍淵(一七七二年〜一八三七年)について。高野山学侶であった龍淵が、おそらくは加賀藩の意向によって芦峅寺に来たり、さまざまな困難を抱えていた芦峅寺を衰退の危機から救ったことを、諸資料から明らかにしている。

 第二章では、江戸時代の立山参詣者について編年的に検討し、一七世紀後半頃から庶民層の参詣者数が次第に増加していき、文化・文政期(一八〇四〜三〇)以降、急増したことが述べられている。

 第三章で扱われる布橋灌頂会は、立山信仰を考える際に看過できない儀礼である。かつてこの儀礼は、近世初期にはすでに行われており、中世に遡及するかと考えられていた。しかし、岩鼻通明氏が「越中立山女人救済儀礼再考」(『芸能』34−2、平成4・2、桜楓社)において、「布橋」という呼称が明確に資料に現れてくるのは文政三年(一八二〇)まで下ることを指摘し、半ば通俗化していた五来重氏による布橋灌頂会白山起源説(「布橋灌頂会と白山行事」、高瀬重雄氏編『白山・立山と北陸修験道』、昭52、名著出版、所収)に批判を加えたことから、実は、従来言われていたほど、儀礼の実態が明らかとはなっていないことが再認識されたのであった。本章では、近世期の資料を駆使して用語や橋そのもの、儀礼内容が詳細に検討されている。そして、本来は逆修のために行われていた橋渡りの儀礼が、文政期(一八一八〜一八三〇)を境に、真言宗の結縁灌頂の思想や作法を取り入れた布橋灌頂会(この呼称自体、文政期に定着したという)として整備され、イベント性の高い大がかりな法会となっていったという、大変興味深い指摘が成されている。その変化の要因としては、芦峅寺一山組織の変化、参詣者数の増加などの事情とともに、第一章でその経歴や業績が明らかとされた龍淵の影響があるという。

 この龍淵の布橋灌頂会への影響については、第四章においてさらに論証されている。坪井龍童氏本「立山曼陀羅」には、至るところに補筆が施されており、そのなかでもっとも多くの補筆箇所が見られるのは、布橋灌頂会の場面である。裏書によれば、これらの補筆は龍淵の指示によるもので、書き替えられる以前の図像と以後のものとを比較すると、資料から窺われる布橋灌頂会の変化のさまとの対応が見られるのである。さらに、布橋灌頂会の描かれ方から見て、現存する芦峅寺「立山曼陀羅」諸本は、文政末期以降に成立したことがわかるのである。

 本書に収められた論考は、いずれも新発見に溢れた刺激的なものだが、筆者は特に、第三章・第四章に興奮を覚えた。前述の岩鼻氏の論考以降、筆者自身も布橋灌頂会に対して疑問を抱いていたのだが、目の前にかかっていた霧がにわかに晴れたような感じで、疑問のかなりの部分が氷解していった。

 第五章では、芦峅寺・岩峅寺の勧進活動の実態を比較検討し、両者のあり方が、「立山曼陀羅」に描かれる内容や現存伝本の数に反映していることについて述べる。芦峅寺は、山中の支配権を持たなかったためもあって、諸国に赴いての廻檀配札活動を積極的に繰り広げた。その際、芦峅寺村落に所在する宗教施設や祭礼・儀礼を強調して描いた、芦峅寺系「立山曼陀羅」が絵解きされた。一方の岩峅寺は、山中の支配権を持っていたため、芦峅寺が行ったような活動にはあまり積極的ではなかった。江戸時代後期に至り、庶民の需要に応える形で、岩峅寺側も山絵図的な性格が強い「立山曼陀羅」を制作し始める。だが、岩峅寺の他国での廻檀配札活動は天保四年(一八三三)に加賀藩の裁定によって禁止される。そのため、岩峅寺系「立山曼陀羅」は、わずかな数しか伝存しなかったという。本章は、「立山曼陀羅」諸本の成立事情に関して、極めて示唆に富んでいる。江戸時代の「立山曼陀羅」の絵解き台本としては、林雅彦氏によって見出された岩峅寺の『立山手引草』が唯一知られている(林氏前掲書所収)。これは、岩峅寺が「立山曼陀羅」の制作から離れていった時期以降の、嘉永七年(一八五四)の年紀を持つ。では、なんのために『立山手引草』は作成あるいは写されたのか(嘉永七年が、成立年なのか書写年なのかは不明)。この点が気にかかるところではある。

 第六章では、芦峅寺系「立山曼陀羅」の図像分析が行われている。「立山曼陀羅」諸本は、一目見て酷似していることがわかる例外を除けば(宝泉坊本と吉祥坊本)、それぞれが独自の構図・表現をとっており、相互の模写関係はないように思われていた。だが、この分析結果からは、何段階にもわたる部分的模写によって大半の伝本が成立したことが、明らかにされたのである。

 第七章は、立山の地獄信仰と、「立山曼陀羅」に描かれた地獄の図像について。「立山曼陀羅」の地獄図像は、地獄絵の系譜のなかでは最後尾にあたるものと結論づけられている。

 第八章は、芦峅寺の各宿坊家で版行され、檀那場で配られていた護符を紹介するとともに、それらの使われ方や配札システムに言及する。

 第九章は、芦峅寺衆徒が江戸で行った廻檀配札活動についての論考。ここで利用されているのは、江戸を檀那場とする宿坊家に残された檀那帳であり、手堅い綿密な分析によって檀那の分布や階層、衆徒が頒布した品々、収益金などの多方面にわたり、その実態が明かされている。著者の地道な実証的手法の面目躍如といったところである。

 第十章では、これまであまり注目されてこなかった、神仏分離令後に芦峅寺・岩峅寺衆徒によって結成された立山講社と、その後身の立山教会・天台宗禅定講教会に関して論じられている。本章においても、檀那帳の分析を通して、明治期の廻檀配札活動の実態が鮮やかに描き出されている。さらに、天台宗禅定講教会が「立山曼陀羅」の絵解きを行っていたことが述べられる。明治期の制作と見られる「立山曼陀羅」の伝本を研究する際には、同教会の活動に注目する必要があるという提言は、傾聴すべきものである。

 いささか筆者の個人的関心に引きつけすぎた内容紹介となってしまったが、本書からは、漠然と捉えられていた「立山信仰」の姿が、立体的に浮かび上がってきたという印象を強く受けた。絵解き研究上、裨益するところは極めて大きい。

 本書刊行後も、福江氏は精力的に次々と興味深い論文を執筆なさっており、初めに触れたように、それらを近日中に一書として手にすることができるのは、喜ばしい限りである。これらの成果は、地の利、職の利を十二分に活かされたものと言えるが、激務のなか、並々ならぬ熱意をもって、資料を一つ一つ丁寧に吟味し確実に論証していくという福江氏の姿勢には、まことに敬服させられる。

 ただ、取り上げられている事柄が、芦峅寺側に片寄りすぎている点がいささか気になる−副題で「芦峅寺」を謳う本書に、それ以上のことを求めるのは不適切なのだが−。こうした片寄りは、福江氏個人の興味関心によるものというよりは、これまでの立山信仰関係の資料翻刻・研究の片寄りそのものに起因していると言うべきであろう。芦峅寺側の実態がかなり明確となってきているのに比べて、岩峅寺側のそれは、いまだ十分とは言いがたい状況にある。両峅寺あっての立山である。筆者が言うまでもなく、もちろん福江氏自身期しておられることであろうが、岩峅寺側の資料が発掘され、信仰実態がより明らかとなることを期待するものである。

 また、巻末の参考文献に委ねられているとも言えるのではあるが、それぞれの論考のなかで、先行研究についての若干の言及が欲しいところでもある(言及されている部分もある)。その方が、先行研究に関する知識がない読者にとっても、著者の論が持つ意味が理解しやすいことであろう。

 ちなみに、平成十三年九月二十九日から十一月四日までの会期で富山県〔立山博物館〕で開催された開館十周年記念展「地獄遊覧−地獄草紙から立山曼陀羅まで−」は、「立山曼陀羅」「観心十界図」をはじめ、著名な地獄絵・十王図・六道図等が一堂に会した、大変素晴らしいものであった。その折に刊行された鷹巣純氏・福江氏の執筆にかかる『富山県〔立山曼陀羅〕開館10周年記念資料集 地獄遊覧−地獄草紙から立山曼陀羅まで−』には、各図がカラーで掲載され、そのなかの何点かについては、詳細なトレース図も収められている。本書の紹介からは外れるが、非常に資料的価値の高い図録であるので、この場を借りて一言触れさせて頂いた。

 なお、本書は、第九回日本山岳修験学会賞(平成十一年、日本山岳修験学会)を受賞した。
(東洋大学非常勤講師)


詳細へ 注文へ 戻る