浦井 祥子著 『江戸の時刻と時の鐘』
掲載紙:日本経済新聞(2002.5.24)


 「花の雲鐘は上野か浅草か」。松尾芭蕉のこの有名な俳句は上野寛永寺の「時の鐘」を詠んだといわれている。時計が現在のように普及していなかった江戸時代、時の鐘が人々に時刻を知らせていた。私は日本近世史が専門で、江戸の音を中心に研究している。大学院に進み、テーマの一つに選んだのが、時の鐘だ。

 時刻制度に関する歴史的な研究は意外に少ない。ましてや時の鐘となると、まとまった研究は皆無に近い。時の鐘の設置場所の変遷や管理・運営の仕組み、さらには鐘の撞(つ)き方や時刻の取り方などの実態は、明確でなかった。

 寛永寺の古文書探る
 時の鐘に興味を持ったのは、今考えてみると、私の生まれ育った環境とも関係があったかもしれない。寛永寺は今も朝夕の六時と正午に時を告げる鐘を撞いている。実は、私の生家は寛永寺のそばにある子院(しいん)で、幼いころからこの鐘の音を聞いていた。

 寛永寺には、時の鐘に関する古文書が残されており、住職である父を通じて寛永寺に依頼し、整理中の五千点近く古文書を利用することができた。この史料は時の鐘の管理にかかわった者自身による記録で、価値が高い。こうした一次史料を中心に、時の鐘に関する史料を集めてみると、通説と異なる点が次々と明らかになった。

 従来、江戸の時の鐘は、本石町、上野寛永寺、芝切通し、市ケ谷八幡、赤坂円通寺(後に成満寺に移設)、目白不動尊、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺の九カ所といわれていた。だが、幕府の公文書である「享保撰要類集」を見ると、寛延三年(一七五〇年)当時、幕府が認めた時の鐘が十カ所あり、下大崎村寿昌寺にも置かれていた、と記されていた。

 また、目白新福寺、目黒祐天寺、巣鴨子育稲荷にも時の鐘が置かれていたことがほかの史料などから分かった。

 鐘の撞き方も、単に時刻の数だけ撞いていたわけではない。まず「捨て鐘」と呼ばれる前触れを三回打ってから、時刻の数だけ鐘を撞く。つまり、九ツ時(現在の正午ごろ)には、合計十二打が撞かれたことになる。

 そこで、捨て鐘と時刻を示す鐘を区別するため、鐘の撞き方も変えていた。捨て鐘は一打目を長く撞き、二・三打目を続けて撞く。そして、間を開けてから、時刻の鐘を撞き始め、一打ごとに速くしていった。

 複数体制は江戸だけ
 また、寛永寺(江戸城から見て東北東)、市ヶ谷八幡(北西)、赤坂成満寺(南西)、芝切通し(南南西)の順に、前の捨て鐘の音を聞いて、遅速なく撞き始めるよう申し渡されていた。四方の主要な鐘を鳴らすことで、ほかの時の鐘にも大きな遅れが出ないようにしたのだろう。

 京都や大坂、長崎でも幕府による時の鐘は一つだけで、ひとつの都市で複数の鐘を用いて同時に時刻を知らせる例は江戸だけだ。現代人の感覚からすると、江戸時代には緩やかに時間が流れ、時間の制約も少なかったと思われがちだが、当時なりに正確に時を刻むシステムを作り上げていたのだろう。

 時の鐘の運営も幕府の意向が強く働き、かなり制度化されていた。寛永寺に残る史料などから、鐘撞人の職が世襲である一方で鍾撞人の権利を有する株も存在していたことが分かった。

 寛永寺の時の鐘の株については、株主だった家の古文書からも株の記述が見つかっている。当初、鐘撞人と株主は同じだったが、借金の形で株を手放したようだ。ただ、世襲制という形式を守るため、株主の縁者が鐘撞人の養子となり、鐘撞人を継いでいる

 地域から鐘撞料とる
 鐘撞人は、地域住民らから鐘撞料を徴収する権利が幕府から認められており、かなり実入りの良い職業だった。その配当を受け取る権利を株にしていたようだ。

 研究成果は「江戸の時刻と時の鐘」(岩田書院)という本にまとめた。江戸の音については、火事の際たたかれた半鐘や、除夜の鐘など、研究すべきテーマが尽きない。時の鐘についてもまだまだ分からないことが多く、地道に研究を続けていきたい。
(うらい・さちこ=東京大学史料編纂所研究機関研究員)


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