西尾 正仁著 『薬師信仰−護国の仏から温泉の仏へ−』
評者:根本 誠二
掲載誌:宗教研究332(2002.6)


 本書は、西尾正仁氏が、「あとがき」で、「伝説の定着や機能を研究テーマとしていた。鬼退治伝説が薬師霊場に多いことに気がついた。薬師信仰を対象とすることで少しづつではあるが研究が前に進むようになり、ようやく一書にまとめ上げることができた」と書いているように、第五章「丹後の鬼退治伝説」のもとになった第一論文である「竹野神社の信仰圏について」(『みかげ民俗』五号、一九七八年、兵庫県立御影高等学校民俗研究会)を出発点として、一九九九年に至るまでの業績を一書にまとめ上げた論文集である。収載の論考の多くは、西尾氏が御影史学研究会の一頁として研究成果を同会発刊の『御影史学論集』などに発表したものである。筆者は、日本古代史の立場から奈良仏教の信仰史的な意義を検討するために、それを実際に担った僧侶の一人である行基の伝記を研究している。行基は、単に奈良仏教史上にとどまらず、後世の縁起や説話史料に登場し、それらを視野に入れての研究の必要性が近年さけばれている。こうした際に遭遇したのが、西尾正仁氏の温泉薬師の研究(本書でいえば、第一章と第三章に相当する部分)であった。筆者は、西尾氏の研究によって温泉薬師信仰と行基の伝承が関わる形で、流布し継承されていったということを知りえるなどの学恩を得ている。以下、こうした立場から西尾氏の長年月に及ぶ研究の成果である本書への所見をまとめたい。
 
 まず、本書の構成は、左記の通りである。(中略)

 以上の構成に従って、本書の内容を簡単に紹介したい。序章では、薬師信仰が、民衆仏教の様々な側面において姿を見せているにも関わらず、これに関する研究の蓄積は極めて少ないといっても過言ではないとの問題意識から本書をまとめたとしている。そして、古代から近世に至るまでの特徴的な薬師信仰の事例をとりあげ、信仰を流布しようとした人々あるいは集団(古代的行基集団、天台系念仏集団、熊野比丘尼・在地の山岳修行者など)に焦点を当てながらあきらかにすることを重点とした構成となっている。さらに薬師信仰の持つ猥雑な力強さに着目し、史料や説話をできるだけ丁寧に分析することで、これまで単純に考えられてきた薬師信仰にも除病安楽だけの仏ではない信仰実態のあることを明らかにし、我が国の民衆仏教の一端を解明したいとしている。

 なお西尾氏は、研究の素材について「民間説話」という概念を措定している。西尾氏によれば、「民間説話」とは、民間に伝わる説話であり、一定の信仰と目的を持って民間で語りつたえられた話であり、伝説・神話・歌謡等々の口承文芸は無論のこと由緒書・仏教説話・歴史物語・随筆で、伝承性を持つと思われるあらゆるジャンルの物語を総称している。そして、伝説や説話・物語類が共通に持つ伝承性というところに力点を置きたいためにあえて用語的には熟していない「民間説話」を用いたとしている。だが、こうした「民間説話」という概念の措定を本書の冒頭で試みながらも本文中では、必ずしもこれが生かされていないのが眼についた。これは本書の素材である「民間説話」の持つ多様性と文字通り伝承性の認知の「むづかしさ」を物語るのであろうか。しかし、こうした「むづかしさ」に果敢に対峙しようとする姿勢が、本書の基調である。最初に問題点を提示していることは、好意的に読みとるべきである。

 第一章「古代薬師信仰の変遷」では、律令国家における薬師信仰の変容を仁明朝(八三三〜五〇)を中心に、『日本書紀』をはじめとする「六国史」にみられる薬師信仰の事例の整理に基づいて、飛鳥・奈良時代から摂関期に至るまでの大赦・薬師悔過法・七仏薬師法・国分寺の本尊、さらには『日本霊異記』や藤原道長の薬師信仰を事例として考察している。天皇あるいはその近親者の除病延命にその目的が限定されていたものから、仁明朝になると疫病流行や物怪の出現を契機とした薬師悔過の記事が集中的にみられるようになるとしている。ついで仁明朝以降は、薬師如来が密教の体系に組み込まれることのない特殊な仏であることに起因するのであろうか薬師法や薬師悔過は、まったく修せられなくなるとしている。そして、新しい薬師信仰としての七仏薬師法が天台宗を中心に展開することとなり、さらには末法到来にいたり遣送仏として新たな薬師如来の信仰的な意義が説かれたと指摘している。薬師信仰をめぐる天台宗と真言宗の対応の相違についての指摘は興味深い。ただし、ここで何故にことさら仁明朝という時代概念を提示しているのか。他では、摂関期ないしは院政期としている。

 第二章「疫神信仰と薬師」では、平安中期に出現する御霊信仰と薬師信仰との関わりについて神泉苑での御霊会と祇園社の創建を事例として考察している。薬師信仰が疫神なり天神の個性化に対して、観音信仰とともに人々の信仰的な要望に対応しきれなかった様子を明らかにしている。そして、薬師信仰が西尾氏のいうところの「下からのつきあげにより」開催せざるをえなかった御霊会にとってかわられていく「よすが」を述べあげている。これは、薬師信仰の民間信仰として自立しえない限界性を指摘しているように読解した。

 第三章「行基開湯伝説と温泉薬師」では、薬師信仰と関係の深い温泉をめぐる信仰的世界について、いわゆる温泉薬師という著者独自の信仰内容を提示し、「開湯伝説一覧」に基づいて、全国的な開湯伝説の事例を紹介している。中でも、その中核的な事例である兵庫県の有馬温泉での行基による開湯伝説の意義を考察している。開湯伝説の概観をつかむ手段として、県別の地名辞典を中心に行いながらも、行基開湯伝説など個々の温泉に関わる開湯説話については、該当地域の江戸期の地誌や縁起を援用して丹念に考察を展開している。これは多様な「民間説話」を概観する際には有用な研究方法であると思う。

 開湯伝説の変容をめぐって、戦国期には温泉の経営権は、在地の武士、あるいは武士より経営を請け負った人々の手に移るとしている。そして、こうして得た経営権の正統性を主張するために最初に政権が確立した時期に遡って武士の手による再興伝説を作り上げていった。その再興時期とは鎌倉初期という奇妙な一致、それは鎌倉幕府の成立とそう遠くない時期か。虚構ではなく、その近い時期に実際に温泉開発が行われ、その記憶に先のような事情が重なったとの指摘は、傾聴すべきである。ついで、行基に関する伝承は、温泉開発と薬師造立にふれたものは、『古今著聞集』をのぞいては、その類話はいっさいない。行基開湯伝説を「管理、又は、伝播させた集団」は古代的行基集団とは異なると指摘している。

 第四章「民間説話にみる薬師信仰」では、薬師信仰が全国的に流布するにあたっての信仰的な契機及び中世社会への流布の中核的な担い手としての時衆教団(時衆)の存在を提示している。また、中世から近世初頭における熊野信仰との接合(習合か)による薬師信仰の再合成の様態を有馬温泉の復興の経過を事例として解明している。

 なお、付論の「砥鹿神社縁起の生成過程」では、草砥鹿氏が、本宮山の整備を通じて砥鹿神社の創祀伝承の管理者としての地位を獲得し、やがては自家の由来伝承に取り込むことに成功した。本宮山を砥鹿神社とすることによって砥鹿神社の神主職を確保するに至ったものと思われると指摘している。これは、縁起伝承の変容の意義を読みとるうえで参照すべき事例である。ただ、砥鹿神社が三河国一宮であることを想起すると、この指摘は、一宮制研究で指摘されている当該地域の権力構造の変化と対応させて検討を行うことで、より大きな信仰史的な世界の広がりを語る事例となると思う。

 第五章「丹後の鬼退治伝説」は、西尾正仁氏の初期の業績を中核とするもので、京都府北部の丹後地方に伝わる麻呂子皇子伝説と大江山伝説といった「民間説話」の実態を丹念な実踏調査に基づいた考察を展開している。これらの伝説と丹後七仏薬師霊場の伝承との地域的な関係を知りえて、本書の主題である薬師信仰への関心を高める契機となったという。薬師信仰は薬師如来という尊格の存在に基づく信仰であるだけに、第二章でも言及しているように、時として近世初頭に急激に衰えた熊野信仰などの諸信仰と「習合」しなければ存続し得ないという自立性のなさを説こうとしているように思える。自立しえなくなったのは、江戸時代以降とするのかもしれない。いわば江戸時代以降の薬師信仰の様態の典型例を丹後地方の事例に見出したのであろう。その意味で初期の論考であるが、本書の末尾に結論的に据えたのではないか。そうであれば、本書のサブタイトルを護国の仏から温泉の仏としていることも頷ける。西尾氏は、本書の目的にも関わるが、一宗派に収斂することなく存在していた薬師信仰の信仰的な特質(存在感のなさ)によって、結果的には民衆仏教の中核的な信仰にはなり得なかったと結論づけようとしたと思うのである。さらには薬師信仰は、「護国の仏」の対概念であるともいえる「民衆の仏」とはなり得なかったという見通しのもとに、「温泉の仏」という帰結点を見いだしたのであると読解した。

 しかし、温泉開湯の伝承の担い手として西尾氏が措定した行基・仁西・利修・麻呂子・和泉式部・小栗判官などは、仮に伝承上の人物であったとしても、何らかの貴種伝承をともなうものであるが故に、時代の変容に応じた聖俗の権威に関わりながら、近世初頭に至るまで薬師信仰は存続し得たことを指摘しているようにも読解した。それを薬師信仰と熊野信仰とかわわりを常に念頭に置いて、両信仰の時代的な変容と関わらせながら考察することによってより具体化したと思う。これは薬師信仰のように薬師如来という仏教の尊格をしての信仰が自立することが困難であるということをもって、日本の民間信仰の特質を解析する第一歩としたいとの西尾氏の関心のあらわれではないかと思う。

 これまでの「民間説話」研究がともすると、各説話にみる特定のモチーフに着目し、それがどのように後代の「民間説話」に継承され、時として変容していったのかという研究に終始し、あたかもそうしたモチーフが自己展開(一人歩き)するかのごとき印象がもたれていた。そこに私は、ある種のものたりなさを感じていただけに、西尾氏の「民間説話」を「管理、又は、伝播させた集団」への問題関心は、今後の研究の指針となると思う。その意味では、「むづかしさ」は乗り越えてしかるべきである。加えて「民間説話」は、社寺縁起を中心とするものであり、本書で語られた研究素材の多くは、社寺史料として伝存したものである。その意味では、本書は、社寺に伝存している「民間説話」をふくめた史料群をいかなる視点で研究すべきかも提示している。

 本書が論文集の体裁を取っているために、若干、記述内容の重複があったり、さらに民間説話・縁起・伝説などという形での曖昧さがめだったことによるのか、研究の素材への眼差しが一定していないことによるのか、全体として論点が不鮮明になっているように思う。これについては、本書の各所で今後の問題点を提示しているように、次なる機会において、いわゆる西尾氏独自の民間説話論、さらには民衆仏教論が展開されることによって氷解するものと確信している。

 以上のように本書は、薬師信仰を古代に限定することなく近世に至るまでを概括的に述べあげた特筆すべき業績である。「民間説話」という一見すると体系性のない素材に正面から対峙し、古代から近世にいたるまでの薬師信仰の内容について事実と事実関係がもつ信仰的な世界を淡々と描き、語り通している。そして、これまでの信仰論のように軽々に王権論に組みすることなく「民間説話」の担い手を特定化しようとの先見的な見解を提示しつつ、民衆仏教の変容の一端を解明した類例のない論文集となっている。

 筆者は、前述のように西尾氏の独壇場ともいえる第三章の温泉薬師と行基との関わりに関する研究に触発されて、行基開湯伝承の見られる温泉への実踏調査に従事することになった。開湯伝承を伝えていった人々への西尾氏の関心は、筆者にとっては、とりもなおさず行基伝承を語り伝えたであろう人々の存在を照射する糸口となるものでもあった。なおかつ、西尾氏が措定された「民間説話」にまとわりつく「むづかしさ」は、行基伝承においても同様に対峙しなければならないものである。それだけに、西尾氏の研究を進捗する上での労苦を多としたい。

 余談ながら、こうした「民間説話」という概念の措定をめぐって想起されるのが、本書の表題にみる薬師信仰についての先駆的な研究でもある秋山大『現世信仰の表現としての薬師造像−日本仏教信仰の原初形態に関する研究』(大倉山精神文化研究所紀要第二冊、一九四〇年)である。その一節を見ると、「信仰の内容は、史料的の記録、文書等よりは、伝承的説話等に含まれて保存されてゐる方が多いし、又含まるべき性質のものである。従つて在来のやうに神話、伝説を蔑如して、年代的に在籍を必要とする史料的調査にのみ止まつてゐるならば、真の意味で宗教史的に性格づけることは到底あり得まいと思ふ。さりながら一方年代系列から上昇した霊験の説話的伝承のみを追ひ駆けてゐたならば、たとひ天馬空を往くの慨があらうとも、何等歴史に地盤を有せざるそれ自身神話の創作となるは必定である。こゝに於て感ずるのは、近来の歴史に関する学問が、神話と史実とを分裂させて了つたことである。精神史的見地に立たうとするものまでが然りである。歴史に於ける神話の回復といふことが、今日かなり切実な要求ではないかと思ふ。」とある。文中で「近来の歴史に関する学問」とあるのは、まさに同時代人としての津田左右吉の存在を意識したものであることはいうまでもない。さらに秋山は、「稍ゝもすれば従来の歴史家が史料と史料との間の有機的関係の指摘や、その年代的整理を以て任務了れりとしたり、又は反対に自国の固有性といふものを停住的に考へるの余り、常にそれを歴史の埒外に追遣つて、思想も文化も他に従属せしめられてゐるといふやうな被害妄想的の史観を以て各国の歴史に最も忠実なりとしてゐるのは、避くべきであり、又排すべきであらう。」と言う記述に接すると津田への「意識」が如何ほどであったかがわかる。秋山の著書が「この一書を法隆寺金堂薬師如来に供養し、聖朝の安穏及び東方諸国家の興隆を祈願し奉る」との献辞のもとに上梓された昭和一五(一九四〇)年は、いわゆる「津田事件」の最中であった。そして、時はまさに紀元二六〇〇年でもあった。

 西尾氏も「民間説話」として研究素材として言及している神話研究をめぐる緊張感あふれる時期であった。それだけに秋山の著書には、ことの是是非非は控えるもある種の学問的な緊張感が存在していたといえよう。秋山にとって薬師信仰を「事」として扱うのではなく、「事」の背後にある信仰の内実に肉薄する何ものかがあったように思う。さらに津田左右吉の業績に「触発」された同時代人の研究者は、周知のように秋山だけではなかった。津田の研究への賛意や批判の違いはあるものの、和辻哲郎・原田敏明・丸山真男、さらには家永三郎氏をはじめとして枚挙にいとまがない。なかでも津田と丸山は、一九三九年の東京大学法学部での「東洋政治思想史」の講義を巡り講師と助手の関係にあり、いわゆる一連の「質問事件」の体験を共有した間柄でもあった。そして、丸山は、津田に啓発されたかたちで、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を上梓させた。丸山真男をして「私も津田先生のお宅にはたびたび行きましたが、麹町にありまして、道路から階段を下っていって、崖下にあるような家です。本当に漢籍に埋まっていて、お客を通す部屋もない。あの碩学が住む邸宅とは思われない粗末な家です。南原先生も、法学部では貧乏で有名で、あまり私自身好きな言葉ではないけれど、学者清貧説−学者は清貧に甘んじねばならぬ、という考えですから、津田先生の生活態度を見て、「鴻儒である」、本当の儒者であるというわけで初対面で惚れたのです。」(「日本思想史における「古層」の問題」川原彰編『日本思想史における「古層」の問題』一九七九年所収、『丸山真男集』第一一巻、一九九九年に再録)との言葉は印象深い。

 無定見な意見であるが、私は、現代の宗教史研究においても以上のような津田左右吉の業績への秋山大・原田敏明などの眼差しが醸し出す学問的な緊張感が、前述の「むづかしさ」に対峙し続ける持続力の源泉となりうると考えている。時計の針を単純に五、六〇年前にもどすという楽天的な言及であるが、こうした点も本書を拝読して得た新たな学恩の一つとして指摘したい。最後に、本稿をなすにあたっても多くの方々のご教授を得たことに御礼を申し上げたい。また、本書の著者の西尾正仁氏には、意を尽くせぬ読みに終始し、なおかつ愚考を縷々述べてしまったことなど、多々失礼してしまったことを心からお詫び申し上げたい。


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