北原 かな子『洋学受容と地方の近代』
評者:千葉 寿夫
掲載紙:陸奥新報(2002.6.6) 


 本書『洋学受容と地方の近代』は弘前を中心とした津軽地方に、洋学がどのようにして受け入れられたか、受け入れられかた洋学がどのように地方の近代を形成したかを、豊富な資料を駆使して述べたもので、学術書でありながら小説を読むようなおもしろさに満ちている。それというのも論述されている舞台がわが弘前であることと、登場する人物がわれわれが名前を聞き知っている明治期弘前人であること、さらに平易に徹した著者の分かりやすい文章によるものであろう。


 著者北原氏は、弘前地方の洋学受容の場として明治五年(一八七二年)創立の東奥義塾を挙げ、同塾誕生のいきさつから外国人教師の招聘(しょうへい)までを丹念に述べる。最初の外国人英語教師ウォルフの月給が二百五十円のとき、塾長格の兼松成言の月給が七円ほどで、外国人教師に、塾長の三十五倍強の金額を支払つている事実に、当時の弘前人の洋学受容の意気込みが現れていると思う。

 東奥義塾は苦しい経営の中で、大金を投じて外国人教師を雇った。明治六年から十三年までの八年間に、ウォルフ、マックレー、イング、デーヴィットソン、カールの五人で、すペて米国である。著者は五人の来歴を明らかにするため、わざわざ米国の関係大学に問い合わせるなど解明に労を惜しまない。

 これまで東奥義塾創立期の外国人教師というとジョン・イングのみが有名だつた。しかし著者はイングの功績だけに留まらず、初代ウォルフ夫妻、二代目マックレー、あるいは最後の外国人教師カールなど、五人の教師すべてに光を当ててその活動を紹介する。

 中でも著者が注目したのはマックレーである。マックレーに関しては現在東奥義塾図書館に写真が一枚残つているだけで、他は一切不明だった。ところが著者は国内外の文献を渉猟してその活動を明きらかにし、彼の著書『日本からの書簡集』を紹介して、マックレーのため一章を設けている。またマックレーが明治七年、弘前城内を見学した見聞記も併せて掲載しているが、この一文は弘前城研究の上でも価値があると思う。

 洋学受容の一つの成果として、弘前の海外留学生の壮挙がある。珍田捨巳、佐藤愛磨、川村敬三、那須泉、菊池群之助の五人である。五人の弘前から来国インディアチ・アズペリー大学までの旅行が、詳しく述べられているのは本書が最初ではないだろうか。ことに一行から遅れて出発した菊池群之助の一人旅は、辛苦に満ちたもので落涙を禁じ得ない。菊池は不幸にして米国に果てるが、他の四人は抜群の成績で日本人の声価を高める。万歳!

 東奥義塾の洋学は、どのように行われたかは「東奥義塾の洋学(1)、(2)」として二章にわたり詳述される。初代ウォルフの英学指導の実際と東奥義塾の英学水準。二代目マックレーの明るい人柄と体育。その体育が学生伊東重の養生哲学も生み出したこと。三代目イングが指導した「文学社会」が弘前青年たちの演説討論を盛んにし、由由民権論者を輩出した事実。

 それらは同じ弘前の保守派を刺激し、東奥義塾は自由民権の本拠と見なされ、県や政府の弾圧を受ける。それまで東義には経営補助として毎月三千円、旧藩主から下賜されていたが、それも政府の介入で廃止される。

 著者は「自由民権とキリスト教。東奥義塾が真っ向から攻撃されたのは、この二つである」といい、自由民権の発展もイングが伝えた「文学社会」がその土壌だった、と結論づけている。洋学受容を校是として、その発展に大きく寄与した東奥義塾が、その洋学のために弾圧を受けるという皮肉な結果を招いたが、同塾が明治初年に果たした役割は不滅である。

 著者北原氏は、壮大なドラマにも似た洋学受容の時代と人を、さらに弘前を、実証によつて余すことなく再現してくれた。その労を多としたい。
(青森県史編纂委員、弘前市史編纂萎員)


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