黒田 基樹著 『戦国期東国の大名と国衆』
評者:荒川 善夫 
掲載紙:日本史研究477(2002.5)


 本書は、関東に腰を据え学生の頃から健筆をふるい戦国期の研究をリードしてきた中堅の研究者黒田基樹氏による四冊目の著書である。黒田氏は、戦国大名北条氏の領国支配体制の全体像を解明すべく、北条氏や同氏に従属した関東地域の戦国期国衆を研究し、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院、一九九五年)・『戦国大名と外様国衆』(文献出版、一九九七年)・『戦国大名領国の支配構造』(岩田書院、一九九七年)を上梓してきた。同氏は個別の研究事例について精力的に可能な限り関連史料を蒐集して丹念に読み込むことで、議論の構築をはかるという堅実な分析方法をとっている。同氏は、戦国期国衆に関して、峰岸純夫氏の提唱した地域的・排他的・一円的な支配領域(「領」)を形成し、地域的な軍事力(「衆」)を形成した戦国期の国衆を「地域的領主」と規定した概念を支持した上で、北条領国の外側にいた国衆の政治的な性格を、「外様」と「国衆」の用語を合わせて「外様国衆」と呼ぶことを提言した。また、北条領国内にいた国衆を「本国内国衆」と呼ぶことや、彼らの地域における公権性に着目し、その公権性について「地域的『公方』」と呼ぶことなどを提唱し、学会に影響を与えてきた。

 この度刊行した『戦国期東国の大名と国衆』は、『戦国大名と外様国衆』・『戦国大名領国の支配構造』に収めた諸論考同様一九九〇年代後半に発表してきたものを基に補訂しまとめ上げたものである。本書の構成は次の通りである。(中略)

 以上、章立てを通観してわかることは、『戦国大名と外様国衆』・『戦国大名領国の支配構造』に収めた緒論考が北条氏と同氏の支配下に入った国衆との関係を扱ったものであったのに対して、今回の著書は北条氏以外の扇谷上杉氏・武田氏・越後上杉氏などの大名権力と国衆との関係や、古河公方の歴史的な性格を検討したものが中心となっていることである。ただ、問題関心が「国衆の地域権力としての自立性の検出」や、「国衆の歴史的性格の追究」という点では共通しているという(二六頁)以下、各章毎に内容を順次紹介してみたい。(中略)

 最後に、本書を読み疑問に思った点について私見をまじえ感想を述べてみたい。黒田氏は、戦国期の相模三浦氏(第六章)、下総臼井原氏(第八章)、上野由良氏(第九章)、甲斐の穴山武田・小山田両氏(第十章)などを「地域的領主」概念で捉えている。この概念は、前記したように峰岸純夫氏が上野由良氏の検討を通して編み出したものである。峰岸氏は、十五世紀後半の内乱で東国の「関東府─守護体制」が崩壊した後に、十六世紀前半に徐々に形成されてきた在地領主階級の結集形態として出現した領主概念であるとして、領主権の及ぶ地域的・排他的・一円的な領域である「領」と、主君を中心とした親類・家風・その他傍輩・同心からなる地域的な軍事力である「衆」を形成させた国人を「地域的領主」と規定し、上野由良氏に関しては天正十三年正月に北条氏の支配下に入る前までを「地域的領主」と見ていた(「戦国時代の『領』と領国─上野国新田領と後北条氏─」、峰岸著『中世の東国─地域と権力─』所収、東京大学出版会、一九八九年、初出は一九六九年)。これに対して、黒田氏は、峰岸氏の提示した概念は「(戦国)大名領国下における地域的領主の、いわば確立された姿」(括弧内は筆者の注記、三〇七頁)で、「地域的領主の確立は、上級権力たる大名との政治的関係が安定することによって遂げられうる」(二八〇頁)と主張し、この領主概念は実際には戦国大名従属下の国衆に適用されるべき概念だと述べている。その理由として、黒田氏は、「戦国期外様国衆論」(黒田著『戦国大名と外様国衆』所収、文献出版、一九九七年)の中で、戦国大名などの上部権力の政治的・軍事的統制下に属さない国衆の存在は基本的に想定する必要がないことと、国衆の領域支配文書が戦国大名への従属後に多く所見される状況を挙げている。

 果たして、黒田氏のような「地域的領主」概念の理解でよいのであろうか。北関東の下野小山氏の場合を考えてみたい。小山氏は天正四年十二月に、本拠の小山祇園城を北条氏に攻略され、小山秀綱・政種父子は常陸の佐竹義重を頼り常陸の古内宿に逃れていくが、天正十年五月には小山祇園城が北条氏と織田信長との取り決めで、信長の重臣滝川一益経由で小山氏に返還される。小山氏は、小山祇園城が攻略される以前には、近隣の下野の宇都宮・那須氏や下総北部の結城氏と同じように、軍事的に越後上杉氏や相模の北条氏に従属していた時期があったが、領域支配に関して上杉・北条両氏から直接干渉を受けた形跡は一切見出すことができない。また、小山氏は、宇都宮・那須・結城氏同様自らの「家」の存続と所領の維持・拡大をめざして、自主的に独自の外交を展開していたのである(拙稿「戦国期下野の小山・宇都宮・那須氏間の関係」、拙著『戦国期東国の権力構造』所収、岩田書院、二〇〇二年、初出は二〇〇一年)。また、小山氏などは北条・上杉両氏から「味方中」と呼ばれていた存在であった(拙稿「(宇都宮)広綱の時代」、拙著『戦国期北関東の地域権力』所収、岩田書院、一九九七年、初出は一九八九年)。このように、領域支配に関して他の広域的戦国大名の干渉を受けなかった点や独自の外交を展開していたことを考慮すると、戦国期に軍事的に広域的戦国大名の圧力を受けながらも、政治的には自立していた国衆の存在を想定してもよいと思われる。

 天正十年五月に小山祇園城に帰って以降の小山氏は、小山氏の譜代家臣に対して官途・受領状や宛行状を発給したが、一切の外交権を北条氏によって剥奪された。それどころか、小山氏の重要な拠点となる城郭の小山祇園城と榎本城には北条氏照の重臣の大石照基と近藤綱秀がそれぞれ配置され、小山氏に対する統制と監視がなされたのである。更には、小山・榎本城には多数の北条方の在番兵士が派遣され、彼らの中には祇園城下などで手作地を与えられた者(北条氏照朱印状、矢島文書)や、小山領内の郷村を宛行われた者(北条氏照書状、越前史料所収小島文書)もいた。これらのことを勘案すると、天正十年五月以降の小山氏は、排他的で一円的な「領」支配を行なう自立した領主ではなくなっていたことが指摘できる。

 天正十年五月以降の小山氏で特筆すべきことは、自立した独立の領主であった時代には使用しなかった印判(印文未詳の黒印)を使うようになったことである(小山秀綱受領状、菅谷貞義氏所蔵文書)。この点は、小山氏が北条氏の支配方式の影響で印判を使用するようになったとも、北条氏の実力を背景に在地支配の深化を図るために使用したとも考えられる。しかし、この段階の小山氏は既に戦国大名北条氏支配下の一武将(他国衆)になっており、自立した領主としての地位を失っていたのである。これらのことを考慮した時、語感からも地域の公権力をイメージさせる「地域的領主」概念を、黒田氏の主張するように、自立性を喪失して戦国大名支配下の一武将になってしまった国衆に当てはめるのは少々疑問に思えてならない。換言すれば、戦国大名の支配下に入り自立性を喪失した国衆に対して、地域的・排他的・一円的な領域である「領」を、主君を中心とした親類・家風・その他傍輩・同心からなる地域的な軍事力である「衆」で支配する「地域的領主」概念を適用するのは再考を必要としよう。私としては、「地域的領主」概念は、峰岸純夫氏が主張したように、国衆が自立性を保持していた独立の領主時代の領主概念として使用した方がよいように思われる。

 以上、本書の内容紹介と瑣末な感想を述べてきた。浅学故に内容紹介に終始してしまい、積極的な議論ができずに終わってしまった感がある。著者にはお詫び申し上げたい気持ちである。どうか読者の方々には、この素晴らしい大著を入手され、一読することをお勧めしたい。


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