三宅 正彦 編『安藤昌益の思想史的研究』
評者:鈴木 正 
掲載紙:週刊読書人(2002.4.28)

 民間学の努力の結実
 本書の書評をしたいと思ったのは、執筆者一五人のうち一二人が編者が勤めていた愛知教育大を卒業し、地元の小学校や自治体の職員である人たちの労作だからである。そのことはアカデミー(近ごろでは影がうすい)から独立した民間学の可能性に希望をもたせてくれる。
 指導者の三宅は「総序」で安藤昌益の互性活眞思想を「現象は相互に移行し融合し、主観は客観と一致し、無始無終性が現実のなかに備わっている」とみる、天台宗から発した本覚思想の論理で把えている。そのため互性≠フなかの二別に目が行き過ぎて直耕≠フ面を軽視する特徴がでている。
 総序のあとは五部に別れ、通観的研究の陳化北が昌益の差別思想をとりあげ、それをうける形で早川雅子が社会改革論における支配者像──中国の王と対比した天皇観を問題視している。その展開として、神道ないし神代観から日本中心の優越感=民族差別と、のちにふれる女性差別が度はずれに特化されて論じられている。さらに昌益の著作の個別研究を通じて昌益の人間観や仏教観などが地道に分析されている。
 私としては卒論を仕上げる努力が結実した点を評価したい。一九九七年度のゼミ生による「あとがきに代えて」からは、その雰囲気が伝わってくる。収められた諸論文は、これまで数冊でていた『日本思想史への試論』(みしま書房)から選んで編別構成されたものが大半である。
 前から感じていたことだが、昌益研究者のなかには、ことさら異を唱えケンカする好みが濃厚である。狩野亨吉が「安藤昌益」のなかで指摘した共産主義の習性そっくりではないか。安永寿延をあいだに三宅と寺尾五郎の対立がとくに目立つ。なによりも学問を政治とからませる態度がいただけない。日共から除名された寺尾について、こうのべている。
「寺尾一派の動きについて、河野公平名義で、つぎのような批判が『赤旗』に発表された。『昌益研究に名をかりてそれをみずから反共・反革新の政治的策動の場にしようとする動き』『研究の名に値しないだけでなく、これまでの真摯な昌益そのものをもけがす』(『赤旗』一九七八年一〇月二三日、二四日付)。まさに適切な批判というべきであろう。」
 三宅が適切な批判だと評した、あのシンポは多くの市民派知識人がよびかけ人になって開かれたもので、実は私も直前に「甦る安藤昌益」を『朝日新聞』にかいて参加を求めた者である。あとで私は天下の公党が雨のなか身ゼニを切って参加された人たちに、そんなことをいっていいのかとただしたが答はなかった。河野公平とは誰なのか? 意外にも‥‥
 もう一つは、天照大神を男神とみる昌益は男尊女卑思想の持主だという見方である。昌益は封建制を否定したが家父長制は否定していないという陳の見解、その彼が依拠する権田真砂子、長瀧真理らが「差別的要素」にアクセントをおく動機はなにか。なにも昌益を神格化する必要はないが、王(諸侯)の上に立つ「上(カミ)」と自然の神道の「神」を重ね、「転定」(天地)への服従を神国日本の天皇(天子)への絶対帰順に転化させる「絶対王政」説は論理の運び方が強引すぎると思う。
 ともあれ昌益研究の自由な討論のいとぐちをつくる一点で意義のある本といえよう。
(名古屋経済大学教授・日本思想史専攻)
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