清水 紘一 著 『織豊政権とキリシタン』
評者・川村信三
掲載紙・日本歴史648(2002.5)

 キリシタン史はその運動が根をおろした日本という土壌の把握をぬきにしてありえない。そう認識されてから半世紀間、キリシタン史学者は、キリシタン運動を単に東西交渉史の分野に限定することなく、日本史の中に位置づける努力をなしてきた。その営為努力は、日本近世法制史の分野を得意とする著者の、この新刊本によって一つの完成点として示されたといえよう。
 概観すれば、本書は中世末期から近世初頭の過渡期を考察対象とし、日本と、ポルトガル、スペイン両国との関係についての東西交渉史の背景を踏まえた上で、近世日本とキリシタン宗門を含むキリシタン国との政治および宗教の諸関係への問題提起を目的とした最高水準の研究成果である。
 三部構成の第一部「日欧交渉と日本開教」では、東西交渉史と日本史の接点の起源を、文之玄昌の『鉄砲記』の成立から解きおこす。さらに日本におけるキリスト教の布教と東西交渉の担い手としてのイエズス会が考察される
 
第二部「織田信長とキリシタン大名」では、信長のキリシタン保護策は世俗化し領主化した仏教勢力に対する反発を基調としていたこと、そして織田信長の天下統一プロセスの中でのキリシタン大名領国の成立事情が詳しく吟味されている。
 さらに第三部「豊臣政権ときりしたん国」では、豊臣政権にとって、一時ではあれ、キリスト教を保護する意味があり、また九州平定を直前に控えた秀吉にとって博多基地構想の重要性、長崎教会領などの教会のもつ諸特権の縮小の必要性などを、八七年の追放令、キリシタン大名の代表者としての高山右近、追放令後の長崎の状況、およびイベリア諸国との国際関係から考察する。
 著者はキリシタン宗団に「水平型伝道」と「垂直型伝道」のそれぞれの帰結という区別をもうけた。一口に「キリシタン宗団」と言っても、その成立過程を考慮すればきわめて多様なことがわかる。著者によれば、それは、第一に教会や組・講または使徒信徒(指導者)のもとに結集した信徒多数の集団であり、今一つは、領主層が帰依し自領に形成した「キリシタン大名領国」である。前者は、布教にあたる側の視点からすれば「水平型伝道」とされ、後者は、「垂直型伝道」の結果生まれたキリシタン宗団である。
 従来、キリシタン研究ではもっぱら後者を「上からの宣教」と捉えて論じ、「水平型伝道」が体系的に扱われることはわずかであった。著者もどちらかというと「垂直型伝道」に注目しつつ、しかし、その結果生じたキリシタン宗団の個性にあらたな光を与えようと意図している。そして、日本においても、ヨーロッパ一七世紀の宗教政治解釈に特徴的な、「領主の宗教・領民の宗教(cuius regio, eius religio)の原則が、キリシタン大名領国においてすでに存在していたという結論へ導く点は、従来のキリシタン史にはなかった新しさである。
 
また、著者のキリスト教と東西交渉を並列して論じる際の偏りのないスタンスも貴重である。キリシタンを研究対象とするとき、宣教師を讃え、殉教者を顕彰するだけの護教的なスタンスのみに終始することは控えられるべきである。また宣教師たちを、あたかも植民地主義者の先鋒あるいはエージェントのように考えて、その宗教理念上の動機を一切考慮しない立場をとることも極論といえる。
 著者はフランシスコ・ザビエルの堺商館設置提案について考察した項目で、宣教師ザビエルが「日本宣教継続のための誘導装置」として商館を設けようとしたこと、つまり布教の成功のための便宜上の土台を築こうとしたため、現世的な手段を設けたとする立場があること、さらに布教保護権下におけるポルトガルの国家事業の一環と位置づける説をも平等に紹介している。その際、宣教師ザビエルの使用した聖書的レトリックにも配慮するよう読者の注意を喚起していることは傾聴にあたいする。
 さらに、著者は日本宣教に携わったイエズス会の基本理念として、創設者イグナチオ・デ・ロヨラの『イエズス会会憲』を綿密に紹介し、その目標を「霊魂の救済」と「世界布教」であったと結論づけ、『会憲』を日本布教に携わったイエズス会宣教師の活動基盤との見方をとっている。しかし、ザビエルをはじめ初代のイエズス会員たちの活動時には『会憲』はまだ書かれていない。実際、初版が成立したのは一五五二年であり、イグナチオは『会憲』に死ぬまで手を加え続けた。『会憲』が基本理念として重要とみなされるのは、一五四〇年の教皇による会の認可状(Regimini militantis ecclesiae)の中にくみこまれた『イエズス会基本綱要』を再録したからにほかならない。それはイエズス会の創設の趣意書であり、著者はそこから「霊魂の救済」と「世界宣教」という二つの目標をイエズス会の理念上の特徴ととらえた。ザビエルのいう「会則」とはこの『綱要』のことである。
 しかし、菅見によれば、世界宣教は「霊魂の救済」というイエズス会の唯一の目標の結果である。そして、イエズス会は「他者の霊魂の救い」をはじめて活動としてシステム化した点で歴史的な意義をもった。この『綱要』の裏づけとなる「霊魂の救済」という理念は、創設者イグナチオのもう一つの書である『霊操』の内容であり、イエズス会員なら誰一人例外なく体験する霊操による観想修行の帰結である。霊操は読書によって得られる知識ではなく、祈りのマニュアルとして、自己省察と長い観想によって得られる内的体験の結果であるところから、研究対象として検証することがきわめて困難である。ゆえに、史学研究者はその理念の結果としての『綱要』をふくむ『会憲』を参照するしかないのかもしれない。しかし、ザビエルをはじめ日本宣教に従事したイエズス会員の活動の根本には「霊操」の体験があり、その体験の結果として彼らの独自の「行動様式」が成立したことが強調されるべきだと思う。
 最後に、本書は各項目でまず、先行研究の概略を紹介したうえで論点を明示しながら、史料を丹念にたどりつつ結論を出すという手法で優れたものとなっている。その手法は、研究者の研究深化のためばかりか、初学者にとっても格好の導入の機会を与えるものである。キリシタン史についての専門書として、また、大学等の概説講義のための貴重な基本文献としても第一に参照すべき書といえよう。
(上智大学文学部専任講師)
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