磯貝 正義 著 『甲斐源氏と武田信玄』
評者・秋山 敬
掲載紙・山梨日日(2002.4.9)


 民政家の業績丹念にたどる
 人物像や政策 全容に迫る

 山梨大名誉教授の磯貝正義氏が「甲斐源氏と武田信玄」を刊行した。磯貝氏は明治四十五(一九一二)年生まれであるから、今年九十歳。現在もかくしゃくとしている。

 岐阜県出身で、東京帝国大国史学科卒の磯貝氏と本県との関係は、山梨師範学校(山梨大の前身)教授に奉職した昭和二十一(四六)年にまでさかのぼる。以来本県に在住し、大学教授としてのみならず、甲府市史・石和町誌・富士吉田市史・須玉町史などの編さん委員長として地域史の解明に尽力するとともに、県文化財保護審議会会長、県考古博物館館長などの要職を歴任、文化財保護行政に貢献した。

現在も県史編さん専門委員会委員長、武田氏研究会会長として後進の育成に努める本県郷土史学会の重鎮である。


 定評ある伝記
 専門は、名著「郡司及び采女制度の研究」(吉川弘文館刊)を公にされていることからも分かるように日本古代史であるが、第二のふるさとである山梨の歴史にも深く関心を寄せられ、昭和四十五(一九七○)年には「武田信玄」(新人物往来社刊)を著している。

 同書は最良の信玄の伝記として定評があるが、伝記としての性格上、「信玄の戦歴が中心となり、民政家としての業績や武田氏の権力構造等に言及する余裕がなかった」(同書付記)との思いを刊行当初から磯貝氏自身が強く持っていたようである。

 したがって、その後の講演や著作の中から、主として信玄のひととなりや政策などに関するものを選択してまとめあげた本書の発刊は磯貝氏の念願ともいえるわけで、時系列で追った前書をタテとすれば、施策や業績から迫った本書はヨコの関係とみることができ、両書相まって「磯貝正義の武田信玄像」の全容が初めて明らかになったといえよう。


 信長を意識
 本書は、第一部「甲斐源氏と武田信玄」、第二部「武田信玄の民政と戦略」とで構成され、前者に八編、後者に十二編の計二十編が収録される。一部のものが長く、二部のものが短文との特徴はあるが、各編は本来独立して作成されたものであるから、それぞれ完結しており、手軽にどこからでも読み始めることができるのは便利である。また、講演や一般向けの書物に掲載されたものがほとんどであるから、文章は平易で親しみやすい。

 その中で特に興味を引かれたのは「武田氏と東濃」である。こうした視点から武田氏を眺めたことのなかった私にとっては新鮮であった。

 織田信長が美濃(岐阜県)の斎藤竜興を倒したのは永禄十(一五六七)年のことだが、信長・信玄ともにそれ以前から東美濃に触手をのばしていたというのである。信長は、苗木(中津川市)の遠山氏に嫁していた妹の子を養女にして永禄八年に武田勝頼の妻としているから、かなり前からこの地域と関係があったことが知られるが、信玄も弘治二(一五五六)年に岩村(恵那郡岩村町)の遠山氏の要請で同地に出兵したり、永禄末年ごろ高野口(瑞浪市)へ攻め込んだことを記録した史料があることを紹介する。二人が東濃をめぐって早くから相手を意識せざるを得なかった関係にあったかどうかということは重要である。

 元亀三(一五七二)年十月には、信玄が大軍を率いて遠江・三河に出陣するが、その目的が西上作戦か局地戦かについては結論が出ていない。この大問題を考える上でも、指摘された点は研究課題として大きな意味を持つものと思う。

 このほか、「人は城、人は石垣」「異邦人の見た信玄像」「戦場外で決した勝負」「川中島合戦の疑問」「もう一つの武田の里」など興味をそそる表題が並ぶ。

 いずれも厳密な史料批判に基づく正確な史実を教えてくれる上、随所にさまざまな研究上の問題点が指摘されており、内容的にも飽きさせない。武田信玄に関心のある人には、一度は手にとって読んでほしい一書である。
(武田氏研究会編集委員)


詳細へ 注文へ 戻る