北原かな子著『洋学受容と地方の近代―津軽東奥義塾を中心に』
掲載紙・日本経済新聞(2002.4.11)


 北原かな子「津軽に根付く西洋の教え」
 明治初年、日本は海外に門戸を開き、国を挙げて西洋文化の受容に取り組んだ。現在の感覚では、文化は中央から地方へ伝わったと思われがちだが、本州の最北端に位置する津軽地方で、中央を経由ぜず独自に米国から洋学を採り入れる動きがあった。
 その中核を担ったのが、明冶五年(一八七二年)十一月、旧弘前藩主の援助を受けて開学した私学の東奥義塾だ。旧藩校、稽古館の伝統を引き継ぎつつ、慶応義塾にならった塾則を定め、外国人教師を積極的に登用した。

 体育の重要性体現
 私が義塾の存在を知ったのは、夫の仕事の関係で青森県弘前市で暮らすようになってからだ。もともと音楽を専攻していたが、大学院に入り直し、外国人教師の足跡を中心に、津軽での西洋文化受容について研究するようになった。
 最初に関心を持ったのが、米国出身の二代目外国人教師、アーサー・C・マックレーである。在職すら疑われるほど彼の資料は少なく、調べ始めた当初は五里霧中だった。わずかな手掛かりから、彼が米コネティカット州ウェズリアン大出身でないかと思い、同大学図書館に調査を依頼した。
 予測は的中し、送られた史料から初めて彼の経歴を知ることができた。因縁めいたことに史料を手にした十一月十一日は彼の命日だった。
 明治六年に来日したマックレーは翌年、弱冠二十一歳で義塾の教師に迎えられた。半年あまりの在職中、当時はあまり重視されていなかった体育に通じる考えも生徒に身をもって教えた。
 彼は放課後、学校から遠足で行くような近くの山まで毎日、散歩した。生徒有志が英語の習得と心身鍛錬のため、つき従ったが、音を上げる生徒が多かったという。当時の教え子の中から、健康を重視する趣旨で活動する「養生会」の中心メンバーが育ち、マックレーが伝えた体育重視の考えは津軽に根付いた。
 東京、京都でも教べんをとったマックレーは明治十一年に帰国する。その後、日本滞在中の克明なメモを基に「日本からの書簡集」という本を米国で刊行した。この本は日本を理解する上で優れた書物との評価を得て、新聞や雑誌に七十以上の書評が掲載された。
 この本の中には、初めて弘前を訪れた日、自分を一目見るため二千人を超える人々が集まってどよめいていたことなど、当時の地方における文化受容の実情をうかがい得る内容が多い。

 5人の留学生輩出
 マックレーの後任で、メソジスト派宣教師のジョン・イングは、義塾の教育水準を国内屈指のレベルまで引き上げた。授業内容や教科書を母校のインディアナ・アズベリー大学の予科や一―二年生程度に改めた。明冶十年には五人の生徒(うち一人は渡米後、入学前に死亡)を第一期の留学生として同大学に送り出した。
 後に駐米大使や昭和天皇の侍従長を歴任する珍田捨己ら第一期の留学生は米国でも、極めて優秀な成績を残した。明冶初年、海外留学生といっても玉石混交で、現地の学生に引けを取らない成績を修めた者といえば、官立の東京開成学校(東大の前身)が送り出した官費留学生ぐらいだ。地方の私学であった義塾の教育水準がいかに高かったかがうかがえる。
 イングは、宣教活動のほか、津軽の人々に弁論術を伝えている。その結果、東奥義塾は津軽における自由民権運動の拠点になるが、保守的な考えを持つ人々とのあつれきを生むことにもなる。

 キリスト教に反発も
 明冶初期、日本各地でキリスト教各派が経営するミッションスクールが設立され、官立学校でも宣教師が外国教師に招かれるケースは多かった。しかし、義塾は旧藩校の流れをくみ、「殿様の学校」と呼ばれるだけあって、宣教師が赴任し、キリスト教の影響が強くなることに旧士族たちが強く反発した。こうした対立は尾を引き、大正初めには一時廃校に追い込まれた。
 旧藩校としての伝統と、キリスト教の影響の間で揺れる同校の経緯には、日本人とキリスト教受容との関係や地方のあり方について考えさせられることが多かった。何より、寒冷な気候で交通も不便であった津軽地方で、誠心誠意人を育てようとした人々や彼らの気力を知ることもできた。
こうした研究内容を、「洋学受容と地方の近代」(岩田書院)という本にまとめて出版することができた。これからも、地方の近代化と文化受容というテーマに息長く取り組んでいきたいと考えている。
(きたはら・かなこ=秋田桂城短期大学非常勤講師)
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