福江 充著『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―』
評者・佐伯安一 掲載紙・宗教民俗研究9(99.6)


本書は在地のぼう大な史資料の分析によって、幕末期の立山信仰の実態を克明に描いた研究書である。これによって、とかく観念的、遡及的になりがちの立山信仰史研究に実証的な研究の道を開いた。
本書によって動かすことのできない新事実の数々が明らかにされ、立山研究の大先達廣瀬誠氏も序文で「息をのんで敬嘆した」と率直に述べておられる。私にとってもそれは衝撃的でさえあったが、考えようによってはごく当たりまえの研究方法なのである。今までは立山の崇高さと、古文献や吉文化財に圧倒されて、この当たり前の部分が見落されていた。それは一種の逆光現象だったのかもしれない。現在の四一点知られている立山曼荼羅の構成要素の図像の克明な比較研究と、宿坊の檀那帳の気の遠くなるような分析よってこの結論を導き出したのであるが、史料を扱える立場とこれに要する時間は普通の研究者には持つことのできないものである。
福江氏は大谷大学大学院修士課程終了後、平成二年富山県立山博物館建設準備室へ入り、同三年の開館後も学芸員として調査研究に従事してきた。その意味では立場に恵まれたともいえるが、博物館は収集・展示業務や雑務も多く、とても研究に没頭できるところではない。恐らく勤務外のすべての時間を研究に打込み、もっといえば意識のすべてが立山信仰史研究だったのであろう。
どういう風の吹き回しか、この重い本の書評が私の方へ回ってきたが、私は立山研究をしてきたわけではなく、またその力もない。しかし、"評"は出来ないけれども紹介だけをさせていただくことにする。
まず例によって目次を記す。
目次省略
本書は大まかに次の四つのテーマからなっている。
@真言僧龍淵と芦峅寺文政期に芦峅寺に定住した高野山の学侶龍淵の人物像を解明し、岩峅寺側との長い争論に弁護して藩から有利な裁定を引き出したり、布橋潅頂会を儀軌の面から整備するなど芦峅一山との関係を明らかにする。これが第一章である。
A布橋潅頂会 女人救済をテーマとした芦峅寺最大のイベント。長い伝統を持ちながらも庶民を対象とした行事として完成するのは文政末年であること。第三章が中心であるが、一章と四章も関連する。
B立山曼荼羅諸本の系統 現在四一点が知られているが、グループ化した上で構成要素をなす個々の図像を比較し、系統を明らかにする。結果的にはほとんどが化政期以降、特に龍淵が布橋潅頂会の部分を補筆した文政末年以降である。第四章から七章にわたる。
C幕末期の勧進活動(廻檀配札)の実態 特に江戸と三河の場合を分析、明治の神仏分離後の対応にまで及ぶ。第八・九・十章がこれで、第五章も関連する。
第二章は立山参詣者の変遷を時期区分して整理したもの。概説にあたるので、この章から読んだ方が理解しやすい。
口絵の曼荼羅四一点は現在知られているものの全部である。巻末の文献目録は今後の立山信仰史研究に欠くことはできない。
それでは章ごとに読み進むことにしよう。
第一章
真言僧龍淵は安永二年(一七七三)淡路国生まれ。天明八年(一七八八)高野山へ登り、天徳院(前田利常夫人珠姫の菩提寺)で一八年間学侶生活を送る。その縁で文化三年(一八○六)金沢へ移る。文政五年(一八二二)芦峅寺へ定住、これは岩峅寺と争っている芦峅寺の動静を探るために藩が派したのであろうと著者は推測する。天保元年(一八三○)請われて八尾町に宝幢寺を開いて移り、同八年正月同寺で没。六十五歳。芦峅寺在住時から八尾へ移住後も前記のように芦峅寺一山のために力を尽した。従来謎の僧侶であった龍淵の人物像を明らかにしてあますところがない。
第二章
寛永元年(一六二四)以降、寛政期までを、訪れた参詣者の身分や職種などによって四期に時期区分し、その傾向を述べる。一九世紀へ入ると庶民の寺社参詣は全国的な隆盛を見せる。芦峅寺では享和元年(一八○一)に一山の組織を三三坊五社人に確定し、文政三年(一八二○)には藩によって布橋が架け替えられ、文政六年、龍淵の芦峅寺定住以後布橋潅頂会行事が再構成されるのはそれに対応する現われとする。
第三章
ぼう大な芦峅寺文書を読みこんで、布橋の各時代相を明らかにし、一九世紀参詣者の増大に至って「布橋潅頂会」として行事が完成したことを実証する。その資料操作は厳しく、たとえば「布橋」という用語は最初から橋そのものを指したものではないとする。慶長十九年(一六一四)に芳春院と玉泉院が媼堂へ参詣し、「御宝前之橋ニ布橋を御掛、大分之儀式被為成」と「一山旧記扣」にあるのが「布橋」の初出であるが、これは橋上に敷き渡した布のアーチを表現したもので、橋自体は「御宝前之橋」であった、と峻別する。そして、橋そのものを「布橋」と呼称する初出は宝暦十年(一七六○)であり、すべての場合に「布橋」とするのは文政三年(一八二○)以降という。また、「布橋潅頂会」という呼称も慣例化するのは文政末年に至ってであるという。
そして、用語だけではなく行事そのものが整備されるのもこのころで、それは真言僧龍淵の関与によるものであったことを指摘する。たとえば儀式も四箇法要・円頓章など天台系の中に不動讃・結縁潅頂・三昧耶戒文・諸真言など真言密教的な色彩の濃いものが加わる。「布橋潅頂会」と名付けたのも龍淵であろうとする。
第四章
名古屋の坪井龍童氏から立山曼荼羅を所蔵しているとの情報が入ったのは、立山博物館がまだ準備室段階のときであった。後に「坪井龍童氏本」と名づけられたこの曼荼羅は、二つの大きな価値を抱えていた。一つは龍淵直筆の裏書によって、芦峅寺一山に大きな影響を与えた龍淵の人物像解明のきっかけを作ったこと。一つは龍淵が補筆修正した布橋潅頂会部分の図像によって、数多い芦峅寺系曼荼羅の諸本がそれ以前のものか以後のものかを判定する基準作品となったことである。また、布橋行事の儀式内容の変化もビジュアルに知ることができる。
こうして、以後新事実が次々と解明されて行くのであるが、その過程は推理小説の謎ときのような面白さがある。この難解な研究書が知らず知らずに読み進んでしまうのはこのためである。「すべては龍童氏本に始まった」といっても過言ではない。
第五章
峰御前本社を管理し、前立社檀を守る岩峅寺衆徒と、開山堂を持つ中宮寺の芦峅寺は、称号や山中の諸権利、藩領内外の勧進活動をめぐって、宝永六年(一七○九)以来天保四年(一八三三)まで、たびたび争論を起こす。天保四年の藩の裁定では、岩峅寺側の峰御前本社や山中の管理権と領内の出開帳を確認するとともに、領内外の廻檀配札(立山講)は芦峅寺側の権利とした。これによって芦峅寺側は廻檀配札に力を入れることと、布橋潅頂会を盛大に整備する必要に追られた。一方、一般庶民の寺社参詣が盛んになってきた時期でもあった。龍淵が芦峅寺に定住したのはこのような背景の時期に当たる。
本章では両峅争論といわれる争論の内容を整理することによって、両者の勧進活動の実態を明らかにするとともに、それに伴って曼荼羅の内容がどのように変化したかを探る。
第六章
立山曼荼羅諸本の画面構成や図像内容を比較して制作過程を考察する。具体的には芦峅寺系諸本の中から図柄がそっくりなものをグループ化した上で、構成要素である個々の図像の異同を比較して模写系譜を探る。比較した図像は表によると八五にも及ぶ。「複数の目で検討した」とあるから学芸員みんなで作業をしたのであろうが、その丹念さには頭が下がる。
ただ、私個人の関心からいえば、例えば建築物の姿も比較の対象になるのではないかと思う。明治の神仏分離によって取りこわされた姓堂は、金沢市立玉川図書館蔵の清水文庫によると桁行六間に梁間五間の入母屋平入りで、周囲に縁側を回し、正面に唐破風の向拝がつくとある(富山県教育委員会編『風土記の丘』昭和四十六年)。この唐破風の向拝を描くものは諸本のうちにも散見する。
また、立山権現祭(神輿練りの場面)に二人立ちの獅子舞があるのも気にかかる。それも多くは一頭であるのに大仙坊B本では二頭になる。またこの図像のうち、御輿の前に神主、後ろに僧侶の列があるが、尊皇思想の高まった幕末もしくは神仏分離後のものは後ろにつくのも神主に変化している。
なお、立山曼荼羅のうち、もっとも美術的にすぐれているのは吉祥坊本であるが、本章ではこれは徳川家茂に嫁した皇女和宮の寄進であることと、そのいきさつについて詳述されているのも興味深い。
第七章
立山信仰の主要テーマである地獄信仰をとり上げ、地獄信仰の展開を素描したあと、立山曼荼羅の地獄の場面の各図像を六章と同じ手法で諸本を比較する。
第八章
護符には祈祷・護摩供養・諸願成就・五穀成就・火の用心・媼尊・不動尊・牛玉宝印・立山代参・血脈・蚕守護・武運長久・渡海安全・大漁満足など多くの種類がある。天保四年の加賀藩の裁定では護符や請取書の表記に厳しい規制があり、それに対し、芦峅寺一山側でも「御札守等調筆方掟書誓条連判状」を提出している。本章ではその前後に分類して変化の状況を調べている。
できればデザイン的な検討や諸国の護符との比較、儀軌との関係や立山護符の独自性についても知りたいが、それは本書の目的とするところからははずれるのであろう。
第九章
宝泉坊や吉祥坊など、江戸をエリアとしていた宿坊の檀那帳を徹底的に分析し、幕末期の勧進活動の実態を檀那個々のレベルから描き出す。大名・家中・商家といった檀家の層、講の結ばれ方、収益などが明らかになっている。農村部の檀那帳では「村中」と記載して村全体を対象としたものが多いが、「江戸などの都市社会では(中略)あくまでも個人的心願で受容した」との指摘は都市民俗学へ示唆する視点であろう。
第十章 明治の神仏分離によって立山修験は壊滅的な打撃を受けるが、それでも勧進活動は細々と続けられる。明治十三年に両峅合同で立山講社が組織され、同十七年に至って神道系の立山教会と仏教系の天台宗禅定講教会に分裂する。この時期にも檀那帳があり、本章ではこれも第九章と同じ手法で分析している。その檀那帳の中に明治二十二年、パーシヴァル・ローエルが立山針の木峠へ登山しようとしたときの記載があって、彼の著書『NOTO(能登)―人に知られぬ日本の辺境』の記事と一致することと、ローエルの案内をした山田栄次郎が東京の立山講の講員であったことが述べられている。
著者は「おわりに」で「各結社の県外での宗教活動だけでなく、地元での日常の宗教活動の実態についても研究をすすめていきたい」としているが、一山の年中行事の民俗的調査も必要であろう。
著者によって一九世紀以降における立山信仰の、動かすことのできない実像が明らかになった。著書は第三章の布橋潅頂会のところで「これまでの研究動向を見ていくと……起源を問題にしているものが圧倒的に多い。(中略)起源に留意しながらも、むしろ芦峅寺に現存する芦峅寺文書の調査・解読を基本作業として、布橋潅頂会の具体的な内容やその時期的変化などを検討していきたい」と述べている。
もちろん、その基本姿勢はくずしてはならない。しかし、立山には永和元年(一三七六)銘の媼尊像や、慶長ごろすでに尾張・三河・美濃の村々に檀那場が開かれていたことを示す慶長九年(一六○四)の日光坊断簡文書など、何とも気になる早い時期の史料も多い。今後は本著の業績をベースにして、その間を埋めねばならない。それは立山信仰史研究に関わる全員に課せられた課題なのであろう。
(さえき やすかず/富山民俗の会常任理事)
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