北原かな子著『洋学受容と地方の近代―津軽東奥義塾を中心に』
掲載紙・朝日新聞(2002.3.31)

 明治5年設立の東奥義塾
 当時の洋学授業国内で最高水準
藩校の伝統を引き継いで1872(明治5)年に設立された東奥義塾が、当時の国内では最高水準の洋学授業を実現していたことを実証する著作が刊行された。東北大で博士号を取った弘前市の研究者北原かな子さん(42)が、博士論文に加筆した『洋学受容と地方の近代―津軽東奥義塾を中心に』(岩田書院)だ。埋もれていた外国人教師の著書や米国の資料を発掘し、当時の学生の様子や米国への留学生の輝かしい活躍ぶりも生き生きと描写している。

 開学当初の東奥義塾は慶応義塾の影響下にあったが、3年目に赴任した本多庸一(後の青山学院長)と3代目外国人教師ジョン・イングによって大きく変わった。
 北原さんが注目したのは「文学社会」と呼ばれた授業だ。イングの母校の米インディアナ・アズベリー大の「リラタリー・ソサエティー」の直輸入で、「毎週土曜日に集会シテ講談、文章朗読、演説、討論ノ4科ヲ講習スル」。
 これが学生たちの英語力を飛躍的に高め、考え方を鍛えた。津軽からの最初の米国留学生4人のうち珍田捨己(後に駐米大使、侍従長などを歴任)が到着早々、見事な演説をし、周囲を驚かせた話は有名だ。
 北原さんはアズベリー大の記録と米地方紙の記事などから、珍田や佐藤愛麿(後の駐米大使)ら留学生が請われて「日本事情」の講演に歩き、好評を博した様子や、次々と優等賞を得た学業成績、学友との親しい交友ぶりなどを記述している。
 東奥義塾に残されたカリキユラムとアズベリー大の記録の照合から、当時の東奥義塾では「米国の大学の予科から2年程度」の授業が行われていたと見る。
 米国では当時、文部省派遣の一部エリート留学生を除く大半の留学生が直接大学などに入ることはできなかった。その中で東奥義塾の教育水準の高さがわかるという。
 「文学社会」は青森県の自由民権運動の源流となった。ディベートの風潮は一般に広まり、弘前市内の町道場では、剣道修業と併せて「朗読、演説、討論」が行われるようになったという。
 北原さんは米側資料から、在籍自体があいまいだった第2代外国人教師アーサー・マックレーを発掘した。その著書『日本書簡集』には、東奥義塾の学生の英語の話しぶり、授業態度、学校の設備や寮の食事、弘前城本丸内の様子など貴重な記述が残されている。
 東奥義塾はその後、自由民権運動と宣教師の影響力を嫌う勢力によって旧藩主の財政援助を断たれ、弘前市立、県立に移管後、1913(大正2)年、廃校に追い込まれた。再興は約10年後だ。
 この間、士族とキリスト教メソジスト派の対立が続いた。「文明開化期の文化受容とキリスト教の関係」が著作のもう一つの柱になっている。
 本州最北端の地に、中央経由ではなく先進国の文化が直輸入され、極めて高い教育水準を生んだ。一方、アメリカで津軽の情報が伝えられる相互交流が実現した。「その姿勢は現代の地方文化創造の一助ともなるのではないか」。北原さんはこう締めくくっている。

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