北川直利著『ミッション・スクールとは何か―教会と学校の間―』
評者・田島忠篤 掲載誌・宗教研究328(2001.6)

 本書は、カトリック高等学校教(職)員を対象としたアンケート調査に基づくデータを分析し、信者(聖職者・信徒)と非信者の間で生じる「緊張関係を動態的に捉え」、著者の主張する「ミッション・スクールの宗教社会学」成立を狙ったものである。著者は、この研究テーマで、一九八○年の「日本宗教学会」を皮切りに、「カトリック教育学会」、「日本私学教育研究所紀要」、「宗教社会学研究会」などで研究成果を公表してきた。本書は、それらの集大成である。これら一連の研究は、これまでの宗教教育研究にたいする二つの反省に基づいている。その一つは、従来の「宗教教育論」が「宗教学校論」抜きの研究であったこと。そして、もう一つは、研究者がキリスト教系教育機関にいながら、その学校を対象としてこなかった「研究主体の問題意識の問題性」である。著者、北川氏は、カトリック系高等学校に在職し、「信仰なき者の『ミッション』とは、いかなる意味において、どのようにし、どの程度可能となるか」という問題に直面している。そして、この学校での「自分自身の存在意味」を問うた「主体的問い」が本研究の出発点となっている。さて、こうした動機のもとで、本書が如何に構成されているかを紹介し、最後にコメントを記したい。
 本書は、「第I部 教会と学校」、「第U部 カトリック学校の教職員の意識調査」、「第V部 カトリック学校の課題」と三部構成になっている。第I部では、「第一章 問題の所在」から、「第二章 宗教学校論の現況」、「第三章 憲法八九条とミッション・スクール―私学助成の問題」、「第四章 伝道と教育」、「第五章 ミッション・スクールの概要」から組み立てられている。この章では、主として、プロテスタントやカトリックの学校統計、教団側からの文書資料を用いて、プロスタント系学校と比較しながら、カトリック学校におけるミッションの捉え方を浮き彫りにしている。まず、実際の章立とは、逆の順番だが、掻い摘んでその内容を説明したい。歴史的には、明治初期から、プロテスタントが米国ミッション・ボード(海外伝道)によって宣教を目的として日本に学校を創立し、著名な日本人プロテスタント教育家や社会運動家を輩出している。これに対して、カトリックは、学校経営に出遅れたうえに、教育を積極的に布教に結び付けないでいる事を挙げている。また、学校統計からは、高等教育機関ではプロテスタント、初等教育機関ではカトリックが勝っているが、中等教育機関では互角の趨勢を伸ばしているものの、進学校としては、カトリックが実績を上げていることを述べている。
 第I部では、カトリックとプロテスタント学校の統計上の相違が、双方の教団の歴史上、組織上の違いによって生じたかの検証はない。しかし、第一章から四章までは、教会と学校の関係について、それぞれの教義上でのミッションの位置付けの違いを、文献資料によって論じている。まず、学校が組織上では、カトリック学校は、教会とは別の修道会が経営母体となって運営されている。修道会は、出身国も異なるうえ、組織上・財政上はカトリック教会から独立した宗教法人であり、この修道会が経営母体となって学校法人を運営している。この教会と修道会の複雑な関係が、一般人には不明なうえ、さらに学校を教会から疎遠にしていることを指摘している。さらに、教義上、プロテスタントは、神の言葉の宣教を教育の主眼とし、弁証法的神学をもとに日本文化にたいして対決的な姿勢を示すと分析している。プロテスタントの日本文化への対峙姿勢に対して、カトリックは、第二バチカン公会議以後、他宗教・他文化には寛容な態度を示し、教育の場では、カトリック信仰の元となる「宗教心の寛容」に主眼が置かれている。そして、このカトリックの柔軟さは、他を認めながらも最終的にはキリスト教に包含しようとする「包越主義的な」姿勢によっており、教育現場を通して、日本社会に「文化内開花(inculturation)」する可能性を秘めている事を指摘している。
 第U部は、カトリック学校の教職員の意識調査の分析が中心である。まず、「第一章 ミッション・スクール論の構想」では、ミッション・スクールを「プロテスタント系・カトリック系を問わず、キリスト教系の教会・教派・修道会を母体として設立され、主として非キリスト教地域において、何らかの宗教的使命に基づいて一般信者および非信者を対象に教育活動を行なう小学校・中学校・高等学校」と定義している。著者によると、この定義を拡大解釈すると、宗教的使命に基づく学校教育は、キリスト教だけではなく、新宗教系や神道系はゆうまでもなく、「仏教系ミッション・スクール」にも応用できることを示唆している。さらに、ミッション・スクールの宗教社会学で「教職員」を対象する理由として、教育も伝道の基本構造も、「教える側」の主導に委ねられている点で同様であることを挙げている。
 さて、アンケート調査は、三十六校、一、四一四名の教職員を対象にして、「人間関係・生活意識」、「教育理念・実践」、「宗教意識・行動」、「カトリック教会」の四部構成からなる質問肢を用いて、分析している。分析は、大別して、信者(カトリック、プロテスタント、仏教・神道)・非信者を軸とした分析および、各学校の教員の宗教・行動の総体から算出した学校類型化である。前者に関しては、「カトリック、プロテスタント、神道、仏教、無信仰」別にクロス集計をとり、さらに、キリスト教信者・非信者別の「質問分野間の相関性」をとり、両者の回答パターンを比較している。特に、北川氏は、「三 シスターの宗教意識の特性」という節を設けて、神父、女性信徒、男性信徒と比較しながら、その特徴を分析している。対象となったシスターたちが、聖書をより「ファンダメンタル」に解釈し、「日本的宗教心」(草木にも霊が宿ると感じる)からより離れた心情を持ち、「諸宗教間の対話」という問題関心が低い事を挙げている。さらに、シスター間でも、年代別(四十五歳以上と以下)に、これらの項目の他に「女子教育」、「肉親と一緒の墓を希望」にかなりの差があることも指摘している。
 次に、各学校の教員の宗教意識・行動の分散を基に、カトリック学校の類型化を試みている。その結果、「キリスト教的意識優越型」、「無信仰的意識優越型」、「勢力均衡・分散型」、「仏教的・神道的意識優越型」に分類している。この類型に照らし合わせると、調査校全体では、「勢力均衡分散型」が、十四校、三八・九%と最も多く、次いで、「仏教的・神道的意識優越型」の高校は、十三校で三六・一%、「無信仰的意識優越型」が五校、一三・九%、そして、「キリスト教的意識優越型」が最下位の五校となっている。北川氏は、このなかで二番目に位置する「仏教的・神道的意識優越型」校が持つ、「対話」の可能性を示唆している。
 U部のアンケート調査分析結果を基にして、第V部では、「カトリック学校の課題」と称して、学校レベルの問題として、まず、「第一章 教育共同体の理念と課題」では、日本的な職場集団としての自然的な共同性から「理念的共同体」ヘと、「教育共同体」をシフトさせることを課題として挙げている。「第二章 シスターの存在」では、管理職、経営側の自覚を持ち、人事権を行使して、理念に添った学校変革することを提言している。「第三章 信徒教師の役割」では、積極的に教育の中核を担うと同時に、教会と学校との橋渡しの可能性をもつことを示唆している。「第四章 非信徒教師の意味」では、教員採用時にカトリック教育の共鳴者を登用するように進言している。それと同時に、曖昧な宗教心を持つ「日本教徒」として、カトリック学校に勤めることは、自己理解の一助となる契機を孕んでいる、と結んでいる。「第五章 カトリック学校における『対話』の可能性」では、カトリック学校として、「由来や伝統の異なる二つの宗教意識の『対話の場』を形成すること」を前提としたうえで、カトリック校の三分の二以上を占める非信徒の「『信仰なき』宗教」の顕在化を促す可能性を評価している。エピローグとして、中村雄二郎氏の「臨床の知」を引用し、「理論と実践」が、現実との接点となり、新たな知の創造と現状変革を促すことを暗示している。
 以上が、評者の拙い本書の紹介である。これから、若干のコメントを述べたい。本書に紹介された北川氏の研究は、(一)研究者の「主体的」問題意識を重視し、(二)従来の宗教教育研究に欠けていた「教員の意識調査」を取り入れた点で、評価できよう。さらに、分析にあたっては、学校内における教員の宗教意識の分散度合いを基に、それぞれ「キリスト教的意識優越型」、「無信仰的意識優越型」、「勢力均衡・分散型」、「仏教的・神道的意識優越型」と実証的に類型化したことも評価できる。ここでは、学校の宗教(ここではカトリック)を中心に展開されているが、北川氏が述べるように、新宗教系、仏教系など他宗派のミッション・スクールにも、学校宗派優越型、無信仰型、分散型、日本的宗教意識優越型へと応用可能である。この宗教系学校教員の宗教観、学校観、生活観に関する調査を基に「ミッション・スクールの宗教社会学」を試みた、先駆的な研究として評価できよう。しかし、評価の別れる点としては、随所にミッション・スクールの抱える問題解決の為の処方箋(シスターは経営者の自覚を持って教員採用や昇進にあたるべし、ミッション側の「対話」の相手としては、戦賂的に仏教的・神道的意識の教員が良い、など)が盛り込まれており、ややもすると、結論を急ぎすぎた、という印象を持った。なぜ、このような印象が生じたかについて、評者の考えでは、北川氏の主張するところの「主体的な問題意識」と関わりがあると思われる。
 ここで云う研究の「主体的な問い」とは、「信仰なき者の『ミッション』とは、いかなる意味において、どのようにし、どの程度可能となるか」という北川氏の切実な思いから端を発している。その答を本書から探すと、日本教徒としての自己を映し出す鏡として(本文二一○頁)、キリスト教(カトリック)は、有用であり、また、ミッション・スクールが非キリスト教圏にて非信者を対象にして教育活動(「対話」)をする意義を主張している(本文二一三頁)。カトリック信者(聖職者も含む)と非信者教員の宗教意識・行動の相違から、対話の必要性を説くのは、当然の帰結と考えられる。しかし、その結論に至るまでには、もう少し調査結果を吟味する必要がある。例えば、シスターの宗教意識の分析で、回答者の七割以上が四十五歳以上で、三○〜四十五歳の層が約二五%であることを記している。その上で、著者が、年齢層により宗教意識の差があることを挙げているが、この年齢差による宗教意識の差は、シスターだけの現象なのか、非信者や、他宗教・宗派の信者では、どうなのか、評者の興味をひいた。もし、それらの間でも年齢差が顕著に見られるならば、「対話」をする相手は、異なる宗派間だけではなく、当然宗派に加え、世代間の対話も必要となろう。本文に書かれていないだけで、分析済みであれば、結構だが、年齢、性別、学歴、勤続年数(質問項目にはないが)、と関連していないか、検証してみる必要性がないだろうか。公立校に比べて、明らかに異動の少ない「教員共同体」では、長く在籍するほど、保守的にならざるを得ないのではないだろうか。この様な問題を含めて、非信者も含めた教職員の宗教的な社会化が、どの様に展開されるのか、検討をする必要があるだろう。
 研究者の「主体的な問い」は、研究を遂行する上で重要である。著者の北川氏が主張するように、研究者の置かれている社会的状況から研究の契機を掴み取ることは、主体的研究の第一歩かも知れない。しかし、一方では、個人的な問題解決の手段に陥りやすい危険性や当事者以外の研究を疎外する閉鎖性も孕んでいる。あらためて、研究における主体的な問いとは何かを深く考えさせられた。北川氏が、今後、ミッション・スクールの宗教社会学の発展にむけて、さらなる研究成果をあげることを期待したい。
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